――いやな、においだ。
恋には戦の駆け引きが分からない。恋は恐れを知らぬ無敗の武人である。
だが自身の生命が脅かされる危機については、人一倍敏感であった。
……という内情はともかくとして、侵入したのは森林地帯との間。砦の裏手。
そこに行き着いた時、真田の姿は消えていた。
「お、お待ちくだされ~!」
ゼイゼイと、息を荒げて
その背を、音々音は惚れ惚れと見つめていた。
似た時を刻む世界にて、ある超世の英雄は独特な表現を用いて『呂布』という存在を評した。
曰く、「あれは絶世の美女」だと。
「抜群の姿形をしており、気まぐれで聞き分けがなくひたむきで傲慢。自分の美しさを他と比較する気持ちすらない。抱きとめてやらなければとめようがない」
と。
まさに今の彼女の姿こそがそれであろう。
おそらくこの娘には自分の武力に対する自負や誇りなど微塵もない。
ただ自分が強いのが当たり前で、その以外のすべてが――
それが絶対の摂理であった。
――が、その摂理に微妙なひずみが生まれつつあるように思えた。少なくとも、この戦は何かが……おかしい。突けば崩れるという詠の予測はすでに破綻し、徐栄と張遼も自分の戦にかまけっきり。華雄は言わずもがな。
恋の初撃も二撃も防がれ、そしてここに至る。
これ以上突出して戦うことは、危険だ。
董卓軍の敗北はもちろんのことだが、呂奉先の敗北は絶対に許してはならない。
「敵は、どこ?」
恋は誰にともなく問う。
この『諮問』に対し、音々音が答えた。
「はっ、恋殿の足を、われわれの軍の速度を袁術軍の駄馬が振り切れるはずがありませぬ」
おそらくは……と視線を投げた先に、かの木々の闇があった。
恋は迷わずそこに進む。
「何卒お待ちくだされっ。敵が待ち構える地点にあえて御身をお運びこともありますまい! 恋殿が遅れにとることなど万に一もありませぬが、億に一ということもありますゆえ! ここは一端本陣にお戻りになって詠殿のご指図を……!」
矮躯でもって飛んで跳ねて、その袖を引く。
数少ない親愛を置く者の諫言である。特別聞く耳を持った様子はないが、それでも恋はその牽引に抗うことなく上体をわずかに傾けた。
それが、武と智、それぞれに通ずる少女たちをそれ以外の部分で救った。
ます、光が興った。地割れのごとき音が押し寄せた。
次いで何かが音々音の頬のすぐそばをよぎったかと思えば、後続の騎兵がどうと音を立てて倒れた。
「なななな……何なのですかコレ!?」
音々音が仰天とともに恋の腰回りにかじりつく。
恋にとって、その方がありがたかった。何しろ、自分はともかくこの状況でこの愛玩物を守り切るのは難しい。
音と光の洪水は、二連続く。
それを合図にしたかのごとく、砦の搦め手より矢石が降り注ぐ。
砦のほとんどの守兵が、裏手の木柵沿いにに回されていた。本来張遼が抑えているはずの、兵が真田隊の援護に回されている。
隘路。砦側と森林の合間よりの挟撃、射撃。
それにより、西涼の騎士たちがその機動力を奪われたままに一方的に嬲られていく。
――いやな、においだ。いやな、音だ。
本来自然に在ってはならない異臭、異音。そして無造作な死。
戦が終わるのを身を隠して待っている野の鳥獣たちが、怯える気配がする。
そして闇に、音と閃光の狭間に、緋色の甲冑がちらつく。
――いやな、『敵』だ……!
「…………さなだぁっ!」
たどたどしく名を呼ぶ。
音々音を振り切り、画戟を強く掴み上げると、恋は突進を開始した。
~~~
愚を承知で、兵を細分化させる。
小隊の指揮官が足りない。こういう時こそ国元の荀攸が欲しい。
慢性的な騎馬の動きなど、そのまま敵の好餌となろうが、透はすでに腹をくくった。
むしろそれをもってあの白狼が食いつけばそれで良し。
屍を築かねばあれは斃せない。
斃さなければ、後の災いとなる。
「駆けますよ」
徐栄本隊には与えられた五千のうち、五百を、敵の全数と同じ数を残す。
それ以外のすべてを、足止めに用いた。
やはり敵の手並みは鮮やかだ。蝶か花弁のごとく間隙を縫い、誘うように右へ、左へ。さらすように仕向けた側背を、小突いて回る。
そうして転ばされている支隊を据え置き、自身は別の戦地へ移動している。
(だが)
確実に
――捉えた。側面。
敵正面には重装の騎兵。後方には軽騎兵が迫る。
そう思った瞬間だった。
が、前後の味方がその部隊に接するより早く兵を切り返す。
すり抜けられた。左翼に回られる。止めをくれたやるべく突出した徐栄本隊へと。
それから足を止めぬままに陣形を立て直し、真一文字に突っ込んでくる。
――捉えられたのは、餌に誘い出されたのは、自分だ。
「え、嘘だ。展開、速」
徐栄は兵速を緩めないままに、呆然と呟いた。
その間に、一切の手抜かりなどなかった。退けという言葉を呑み込み、馬鞭をくれて応戦に出る。
それでも、彼は、『休』の旗は、前衛を突破し、透本人へと至る。
そして眼前に剣が振り下ろされた。
――気を喪っていたのは、さほど長い時でもあるまい。
ふと目を空ければ、空と雲。愛馬は横転し、部下は駆け寄り、側頭部には鈍痛。峰で殴られたらしい。
「目と狙いは良かった」
そしてすぐそばには、馬上の白い狼と供回りの赤い騎兵。
「が、その後の詰めが甘い。お前の考えに、兵がついて来ていない。その悪癖を改めねば、次こそ命はないぞ」
冷たい教導。それを苦笑と敗北感とともに受け入れながら、
「名前を聞いても?」
男は、わずかに目元に笑いを含め、そしてその精兵とともに去っていく。
風に、己が名を流しながら。
「元遼国将軍、
白い狼の、聞き慣れない名を、その薫陶を、起き上がった白い女将軍は噛みしめる。
と同時に、首を傾ける。
「遼? 遼河、遼東?
――ここと似た世界にて五百年以上後、
うんうんと思案を巡らせ、その後「負けた敗けた」とこぼしながら手足を大地に再び投げ出す。
追うように進言する者がいるが、それを退ける。
(『令』の旗が、気づけば把握できなくなっている……多分、もう手遅れでしょうよ)
と、苦みを込めて。
~~~
憤怒に奔る恋を、渾身の腕力にて押しとどめる者がいた。
董卓軍きっての勇者と言えば呂布に張遼ともう一人だが、張遼はどちらかと言えば力任せに押し切るよりは技術の人間である。となれば、恋を留められる人間は、もう一人しかいまい。
「うむ! 見事間に合ってようだな!」
後続していた、華雄である。
「どこがですかっ! 遅すぎますぞ!」
そう叱責する音々音であったが、華雄のその足は恋に引きずられていくらか地を削っていたことに気づく。
「――悔しかろうよ、恋殿」
そして妙に分別くさい調子で恋に語り掛ける。恋の興味と横顔がそちらに逸れる。
「我ら武人の矜持が、あんなよく分からんゲテモノの兵器で愚弄される。戦とは突撃に始まり突撃で継続し、突撃にて終わる。かくあるべきだ。恋殿もそう思っているからこそ怒ったのだろう?」
いやいやいや、と音々音は心中で全力にて否定した。口にはしなかったが。
おそらく心情を汲んだつもりで何一つとして当たってはいないだろうが、本人が納得しているのだから別に良かろう……どうでも。
最重要課題は猪武者の理解不理解よりも、いかにこの陥穽より愛しき主を引き上げるか。それに尽きるのだから。
「――だから、ここは、退け」
呂布の軍師は言葉と思考を詰まらせた。
おおよそ華雄であれば決して言わぬことを、提案してきた。
何か道中で変なものでも口にしたか、でなければ馬の扱いを誤って頭でもぶつけたのだろうと
「この敵は私が受け持つ。ゆえに貴様らは、本隊に合流するが良かろう。いや……退くのではない。先の戦いへの転身と心得よ!」
勇ましく胸を叩く華雄。その姿は道化じみていても、この暗き場においてはどこか頼もしい。
恋も、何かしらに感じるところはあったらしい。
「わかった」
一諾の後に、踵を返す。
「……む、どうした陳宮? 唇などを尖らせて。ついて行かんのか?」
「……べーつに」
自分が能わなかった主君への翻意をあっさりできた相手に、感謝と嫉妬が拮抗している。
ゆえにそのどちらも表せず、ただ拗ねたように口をすぼめるだけだった。
残すべきは、ただ一言。
「犬死は避けなされ。たとえ華雄殿でも、貴重な戦力なのですぞ?」
「なんだか妙に引っかかる言いぐさではあるが……まぁ良い。奴らを破って合流するとも!」
呼吸も時機もわきまえぬ、華雄隊の吶喊。だが打算のないこういう兵こそが、敵の策士にとっては頭痛の種となることはそう珍しいことではない。
現に入れ替わるかたちで、音々音たちは兵をまとめ死地を脱していた。
――再度の破裂音を、その背の向こうで聞きながら。