いつものことなれど、ご了承ください。
水面が波打つ。霧の中、彼女たちを載せた楼船は公安を発し、出港して海と見紛うばかりの長江の流域と漕ぎ出した。
艦隊を率いるは総大将
彼女らを乗せた手勢五千を乗せた強襲艦隊は一路江陵城を目指す。
「……というわけで、今のところ荊南の敵が気づいた様子はない。気づいたとして、本隊がその足止めを食らわせるであろう。中央の旗艦には
「ようやっとか、腕が鳴るわ!」
「これより一挙に江陵城を奪取する。その後、劉表勢を締め出すがごとく、追い立てるがごとく、
「こと軍事に関して、おぬしに意見を申すものかよ」
発言したのは、その場においては一、二を争う年長者で、二番目に小柄な
「どうせ、好き放題に遊んで、散らかしたものの片づけを年長者に押し付けようという肚であろうが」
「恐れ入ります」
「少しは目上を敬って遠慮せんかっ! まったく……」
「で、お主は? 子瑜」
祭が最年少にして、最低身長の軍師に話を振る。
彼女は幼さの多分に残る顔立ちを、どこかふてくされたように彼方へと向けた。
「……
「謙遜するでない。おぬしもまた、仲謀様に見いだされた智者であろう」
祭がその頭部をつかみ上げ、元の角度へとぎちぎち戻していく。
「されば、遠慮なく」
その腕を振り払った二番手の軍略家は、表情を軽く改めて進言した。
「江陵は堅城。もし敵が船戦ではなく籠城を選び、荊南の御遣いたちが北上するまでの時間稼ぎをすれば、如何します」
「劉表は未だ刺史に着任し日が浅く、かつ文弱ゆえに主戦力となる荊州豪族と折り合いが悪い。その兵を抱え込んで籠城すれば、城内が乱れるは必然。少なくとも劉表自身が彼らを信じ切れていない。ゆえに彼女が取るべき選択は撤退か、あるいは武勇を見せて出撃し、これを機として勢力の意思統一を図らんとするか……おそらくは前者を選ぶであろうよ」
「はぁ……結局、私が恥をかいただけじゃないですか」
朱羅は暗澹たる様子で目を伏せて屈みこんだ。甲板の上に指文字を刻み、いじけてしまった。
冥琳はそんな彼女の丸まった背に手を置いた。
「すまない。そんなつもりではなかったのだが……皆の懸念を貴殿が代弁してくれた。それだけでもこの問答に価値はあったぞ」
「私は当て馬ですか。良いですよ、当然ですから。まぁ馬は馬でも驢馬ですけどね。ハハッ、より一層みじめだなぁ~」
装束も背格好も、軍事と政治の天才であるという妹と瓜二つであるというが、違いはその丸帽子についた驢馬の飾り。そして才質。それを
冥琳は苦笑と共に総大将を見返す。腕組みする年若い孫家次女は、ため息を軽く吐いて彼女の前で膝を折った。
「
ぱしん、と音を立ててその朱羅の両頬が主君の手によって挟まれた。
「貴女の篤実さは美点よ。けれども、過ぎた卑屈は推挙した私と登用した母様や姉様の沽券にかかわる。私は、
「……申し訳ありません」
「貴女への偏見あれば私が請け負う。だから、その力を貸してほしい」
「承知いたしました」
朱羅の曇りかけていた目が輝きを取り戻す。
孫仲謀に、母姉のごとき烈しさはない。だが、こういう膝を屈して目線を合わせ、誠実さを正直に見せるところは、逆に彼女たちには成し得ないことであろう。
未だ本人も多くの者も知らない孫権の器量を、冥琳は見出した思いであった。
「……どこの馬の骨とも知れぬ、胡乱な者どもにも、見せてあげなさい」
しかしそう言った矢先、碧眼が向いたのは霧の向こうの江陵方面ではなかった。
すぐ傍らにて参画している、黒髪の女に鋭く向けられていたものだ。
彼女は肩をすくめて、冥琳へと視線を向けた。
(やれやれ……まだまだ、だな)
少し評価を下方修正し、そこで軍議は終わり、それぞれの艦へと移乗する。
その折に、冥琳は個別にその客人を呼び止めた。
「すまないな、仲謀様は信の置ける者には相当の情愛を注ぐのだが、そこに至るまでに少々の壁がな……孫家としての責務を必要以上に重く感じているゆえだろう。気を悪くしないでくれ」
「良いさ。僕としては、彼女の頑なさが嫌いじゃない」
肩の長さまで切りそろえた黒い髪、幼い顔立ち。他の者には少女に見えるが、無礼を承知で冥琳の問うたところ『享年』は二十そこそこだという。
顔立ちはそれよりも幼く見える。それでも戦士としての貫禄を喪わないのは、泰然とした物腰に、燃えるがごとき黒い瞳。左右の腰に二本、元の得物に似せて打たせた、見事な装飾の小剣を佩くがゆえだろう。
少しせき込んだ彼女を、それとなく支えに入る。
その身はかつて不治の肺病を患っていたという。それによって命の灯を消された。
そして死して後は、病原自体は取り除かれていたようだが、その痕跡はまだ肺腑に巣食っているという。
「申し訳ないついでにもう一つ……この功を、仲謀様の、
「それは別に構わないけど、何故?」
耳元でちいさく頼み込む冥琳に、彼女は問い返す。
「戦力の大半が豪族というのは我らも劉表軍とて同じでな。孫家の立場というのは『当主』というよりかは『盟主』に近い」
「なるほど、だからその威勢がいささかも陰ることがあってはならない。その次子を差し置いて君や僕が活躍しては、その立場が揺らぐかもしれない、と?」
「孫家勇躍の場には、常に孫家の血がなければならぬ」
頭の巡りは相当に良い方らしい。あるいは元は一領主であったという来歴からすぐに察しがついたのか。
そして自分でも細かすぎる気回しであると冥琳は思っていたが、どうせならそうしないに越したことはあるまい。
「まぁそこまでせずとも、彼女は功を立てるよ。きっとね」
「そうであって欲しいとは思うが、先に言ったとおり必要以上に気負われている。有事の際は援護を頼めるか?」
「もちろん、それは構わない」
「事が成った暁には、謝礼は用意させてもらおう」
「いや、それには及ばないよ」
「では、望みはないというのか? 未練があって、貴殿はここに落ちたのではないのか?」
「そうだね。ある心残りがある。そのために僕はここに蘇った」
戦乙女はあっさりと肯定する。
「それはね」
「それは?」
「母親になること」
――は? と、冥琳らしからぬ聞き返しが、河に落ちて流れていく。
「素敵な旦那様に出会って、出来れば男の子を生んで……まぁ女の子でもいいけど、温かい家庭を築く。それが、そんなものが僕の願いだ。だからこんな戦はさっさと終わらせないとね」
冗談めかしく言ってのけて、黒髪をなびかせた彼女は持ち場へと戻っていく。
「ふっ……ははははは!」
その影が消えてから、冥琳は軽やかに笑った。
愚弄したわけでも、嘲ったわけでもない。
笑うしかないではないか。
過日の立ち合いにおいて、彼女の剣技を知っている。
あの腕で?
――雪蓮に余裕で勝ち越し、炎蓮にさえ拮抗したあの技量を持ち得ながら、望みが暖かな家庭? 母親になること?
(だが、なんだろうな)
どこかで共感している自分がいることに気づく。
命の限り、戦乱の渦中に在ってそれを魂で感じているからこそ、そのささやかな願いがどれほどに至難で得難いものであるか、知っている。
……どうやら、笑った拍子に冷たい秋風が肺腑に入り込んだらしい。
冥琳は何度かせき込んだ。
さすがにほぼFDみたいな小説までは把握してないので諸葛瑾は名前だけ借りた別キャラです。