恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉表(三):シンデレラシンドローム

 波濤(はとう)が劉景升の配下となった折、ふとした拍子からその心中を漏れ聞いたことがある。

 

「わたしには、夢がある」

 

 と荊州刺史に着任したばかりの、線の細い儒者は言った。

 

「いつか、わたしのもとに英雄が舞い降りるの。欲深いことは言わない。見目麗しいわけでも格式や門地が高い必要もない。男か女であるかもさしたる問題ではない。ただそれでもその人は、わたしの求めに応じ、わたしを信じ、わたしを救い、わたしを愛してくれる。そんな人が、来てくれると」

 

 夢想(ゆめ)の、話だ。

 二十後半も過ぎた女が唱えようともそれ自体を哂いはすまいが、想うばかり待つばかりで、彼女は自分からそれに手を伸ばすこともしない。自らその夢に歩み寄る努力もしない。

 

(まぁ無理もない話ではある)

 波濤は同情だけは示してやる。

 

 伝え聞くに都は腐敗が進み、平然と汚職が横行し、宦官如きに、もしくは肉屋の姉妹に将軍たちが頭を下げ、そうでない者たちは閑職へと追いやられる。劉表もその被害者だ。

 

 左遷された荊州においては虎狼のごとき孫家が幅を利かせ、豪族たちは固有の兵力を持たない文弱の徒たる新任刺史を露骨に舐め切り、逆に彼女を利用せんと目論む。

 

 そんな中で、疲れ切った末の発言とすればまぁ納得もいく。

 

 だがただいまにおいては青色吐息をついて妄想にふけっているのだけではならぬ。現の話である。現実において、孫権が船団を率いて奇襲を仕掛けてきたという報が入った。

 

(シグルド殿に通告を受けて、念のため哨戒網を作っておいて助かったわ)

 が、それにもまして敵の進行が速すぎる。

 早船でも送って当人たちとの連絡を取りたいところだが、遮断されよう。

 この上は江陵にて防戦し、彼らとの挟撃、それが成らずとも撤退するだけの時を稼がねばなるまい。

 

 あるいは捨て身の覚悟で漢水(かんすい)を越え、孫堅の本隊を撃滅。かなわずとも味方と共に一撃離脱するというのも積極的ではあるが一考の価値ある戦術だ。

 

「ご主君にご注進申し上げる! ……なにをなさっておいでなのです」

 

 波濤が主を見つけたのは、政庁の表門であった。

 そこではすでに必要なだけの荷を車や水路に配した船に積み上げて、自身もまたその船に乗り込もうとしていた。

 

「我々は襄陽へ退却します。波濤、準備を手伝いなさい」

 珍しくはっきりと聞こえる声量で、彼女はそう宣言した。

 

「……長沙のお味方はどうなさるつもりなんです。貴方が命じて、江を越えさせ背水の陣を取らせた! 彼らを見捨てるというのですか! せめて彼らが戻ってくるまでに、ここで敵を食い止めるべきです! どうかご再考を」

「あのような下賤不遜の者どもに、何故宝夢(ほうむ)様が、身を盾とせねばならぬのだ?」

 

 そこに、割り込んできた青年がいる。

 身なりを整え、鼻梁の通った貴公子然としているが、そこには門地も確たる血統も持たない波濤に対して明確な侮蔑を浮かべている。

 

蔡瑁(さいぼう)……っ!」

 

 荊州豪族の筆頭であり、自称荊州刺史最大の協力者である彼は波濤と劉表の間に自身を差し込むや、横目で冷ややかに彼女を見た。

 

「それに、この撤退には彼らを救う意味合いも含まれているのだよ。……まぁ黄祖の教え子ごときには、理解しえぬ境地の軍略であろうがな」

「……あいにくとアンタと違って戦場暮らしで世事に疎くてね。そんなあたしにも分かるように話していただけないかしら」

 

 ふんと鼻を鳴らして、蔡瑁は答えた。

 

「良いか。この江陵の地は堅牢と言えども兵家必争の地。もしこの地に強いて防衛線を展開すれば、こちらの被害も甚大となろう。ゆえにここを一端は敵に明け渡す。どうせ一城取ったところで、江東の田舎武者ごときに、周辺の豪族は靡きはすまい。敵が追撃も鎮圧もままならぬところに、傘下の劉度(りゅうど)と御遣いどもが北上、さらには西よりは同族の劉焉(りゅうえん)殿が! そして曹操殿に助力を乞うてその援軍を求める! 私は彼女とは知己であるし距離も近くなったことで応じてくれよう! そうしてとどめに黄祖を動かす! 立往生する孫権を覆滅せしめる! これこそが我が戦略構想、包囲殲滅の計なり!」

 

 すごい、と波濤は思った。

 

(コイツ、すごい馬鹿だ)

 

 蔡瑁自身と言う好例が今まさに存在するというのに、荊州の風見鶏どもが何かの役に立つわけがないだろう。

 劉度が北上? あの小便漏らしは劉表をとうに見限っているからこそ孫堅軍の通過を自由にさせて自領に引きこもることが許されているのではないか。

 

 劉焉が益州(えきしゅう)から出てくるわけがあるまい。

 もしその可能性があるとすれば、韓遂の南征への警戒を解いた後、自身の野心からである。曹操とて同様のことが言えるし、そもそも蔡瑁の誘いに乗るかさえ怪しい。彼女は独力で、正々堂々と荊州を切り取るだろう。

 

 何が戦略構想だ。

 仮定と楽観によるただの誇大妄想ではないか。

 

「――殿、それで良いんですか」

 劉表にあらためて問う。こんな男が、お前の求めていた理想なのかと。

 彼女の白皙に表情はない。ただ長い睫毛を伏せて、輸送船に乗り込む。

 

「わたしも、御遣い殿については虚心ではいられません」

 と彼女は空を見上げて言った。

 

「きっと、彼らの中にこそわたしの追い求める英雄がいるのかも」

「だったら援けにいきましょうよ……」

「なればこそです」

 

 むしろ波濤を憐れむがごとき眼差しで、劉表はキリリとした表情で言った。

 

「わたしを愛してくれる勇者は、この程度のことでわたしを見捨てない。見限らない。裏切らない。憎まないし恨まない。降らない、死なない。きっと忠義と誠心でわたしの許へ、還ってきてくれる」

 

 そして半数以下の守備兵と軍船を残して出立した劉表軍を見送りながら、波濤はあらためて思った。

 

(すごい、こいつら全員馬鹿だ)

 

 ~~~

 

 かくして城に残った波濤は、残る戦力物資をすべてかき集めた。

 むろん、自身の指揮下に置いた、もしくは息のかかった兵力もまたそのまま手つかずとさせた。

 それでも、大半を蔡瑁と劉表に持っていかれた。

 なれば将の質によってそれを補うしかあるまい。

 

潘璋(玄海)! 蔣欽(霧雨)! 魯粛()!」

 

 彼女は陣中において客分幕僚の名を呼ばわった。

 さすがにむやみやたらに名士や食客を集めただけあって、その中には物の分かる有為の人材もいて、彼女らもまた留まっていた。

 

「御前に」

 最初にふてぶてしい顔を見せたのは、潘璋(はんしょう)こと玄海(げんかい)なる、くすんだ金髪の少女である。

 彼女は正規の武人ではなく、いわば金でついた波濤の軍の私的な部隊長。いわば傭兵である。

 

「アンタが一番立場が身軽だから頼んだのだけれども、黄祖将軍への要請の返答は?」

「やってますよ。で、その使者殿が今参られました」

 

 玄海の身体の裏から、咳払いの音が聞こえた。

 現れたのは、無駄のない髪量に痩躯で眼鏡、智的な要素の体現者のごとき、妙齢の美女であった。

 

郭嘉(かくか)字を奉孝(ほうこう)と申します。友とともに天下の主を求めて流浪をする身ではありますが、今はその友と散り散りとなり、黄祖殿の知遇を得てお世話になっております」

 

 つまりは黄祖や劉表などは天下人の器量たりえないと、暗に、だがはっきりと言明している。

(まぁあたしもそれには同感だけど)

 皮肉な笑みを内心で浮かべつつ、波濤は続きを促した。

 

「黄祖殿の意を伝えます。現在、江夏(こうか)の流域にて甘寧(かんねい)なる水賊と対峙しており、援軍は出せぬ。現有戦力をもって孫賊と当たられたしと」

「まったくこのザマですよ。あの年増、年甲斐もなく若い娘の尻を追っかけやがって」

 

 玄海が悪意的表現をもって毒づく。孫家の側に雇われたほうが、さぞ水に合っただろうに。

 

「アンタの意見は違うってこと? 御客人」

「……黄祖殿は甘寧が袁術と組んだと思っているでしょうが、であれば宛方面を預かる御遣い……エルトシャンが動いているはず。その兆候は見受けられませんし、董卓、陶謙と二方面に敵を抱えているのに荊州にまで伸ばす指が残っているとも思えません。孫家と連動した陽動と考えたほうが自然でしょう。無視して江陵救援に赴くべき。それを具申いたしましたが、取り下げられたばかりかこの役をお命じになりました」

 

 つまり体のいい厄介払いとして、彼女はここにいる。

 

「それで、どうなさるおつもりなのです? やはり劉表様に従って撤退を?」

 眼鏡の奥底で劉表陣営全体への不審を抱え、郭嘉は問い質す。

 

「……先に、しんがりの役目を買って出た。つまりはこの江陵における全戦力はこのあたしの配下に組み込まれたってことよ」

「なるほど、ブチ切れてたと思ってましたがキッチリ指揮権は得てたってわけね。どうしてどうして。で、籠城しますか」

「ところがそうもいかないんです。劉表さんたち、兵糧もがバーって根こそぎかっさらって行っちゃいましたァ。これじゃ数日と保たずにこっちがカラッカラに干上がっちゃいますよ〜」

 

 独特の言い回しとともに(ぱお)が泣き言を吐き出す。

 彼女を直接励ますことをせず、郭嘉を正視したままに波濤は言った。

 

「そんな城の状態を、孫権に悟らせるわけにもいかない。ここに接近させず、出鼻をくじく」

「なるほど、あるいは敵に我が方に余力があると思わせることができるかもしれませんね。……しかし」

「しかし?」

「こちらも、色々と苦労なさっておいでなのですね」

「身内の恥を晒すようなんだけどね。兵力の大半を蔡瑁と黄祖が握ってるから、こればかりはどうしようもない」

 

 波濤が苦笑を漏らした時、一個の風の塊がそこへと飛び込んできた。

 

「大将殿大将殿! ということは、船戦ですかッ」

霧雨(むう)、アンタにも存分に働いてもらうわよ」

 

 まるで磯風で髪を撫でられたがごとく特異な髪型をする少女は、蒋公奕(こうえき)は飛び上がって喜んだ。

 あらためて言うまでもなかったことだ。

 彼女とて、勇猛果敢な水将なれども、元川賊という出自のため、囲われるだけ囲われて冷遇されてきた身だ。

 ようやくその活躍の場を得て、仔犬のごとくはしゃいでいる。

 

「アンタはどうするの? 郭嘉ちゃん」

「……できれば、共に旗艦に乗船させていただきたく。何かお役に立てるかもしれません」

「死にに行くようなもんよ、ぶっちゃけ」

「天下に近しい軍です。その威容を肌身で感じてみたいのです。それは貴殿とて同じはずです。……文聘殿」

 

 それもそうか、と波濤は思う。

 今、自分は劉表軍としてではなく、一個の将帥として居残っている。

 それはここの将兵いずれも同様であろう。シグルドたちとて同心であろう。

 今持ちうる才幹のすべてを以て、至強の軍に当たらん。

 

「これにて決まった! 荊州水軍、惰弱に非ず! それを孫家の者どもに見せつけてやれ!」

 

 喚声があがる。実像以上の熱量を帯びたその叫びは、孫の旗をなびかせた城外の船団にも聞こえたことであろう。

 

 

 

「…………え゛、これってパオも出る流れですか?」

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