恋姫星霜譚   作:大島海峡

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孫堅(三):船を編む(前)

 白く濁った川面、霧。その先に、海獣のごとき巨大な影が見え始めた。

 

「敵艦確認。楼船一隻、蒙衝数十二隻。ほか軽装の戦船三十隻。敵将は旗より文聘かと」

 

 目利きの者よりの報告に、冥琳は柳眉を軽く吊り上げた。

 

「さっそく読みを軽く外したね」

「……貴様」

 黒髪の娘がそう茶化すのを、蓮華が冷たく睨み据える。

 

「怒らない。軽い冗談じゃないか」

「そうだ。まだ軽い冗談で済む。……迎撃せよ!」

 

 そう鋭く号令を発したが、同時に一抹の動揺もあった。考えざるを得なかった。

 すなわち、敵兵は思うのほか多く、未だ江陵城には劉表の本隊が詰めて待ち構えているのではないかという恐れ。

 

 だがそうであるなら、伝え聞く劉表の人物像らしからぬ周到さと決断力と忍耐強さである。

 

 よってこれは文聘一派の独断である公算が高く、それが敵の総兵力であると思われる。

 その見立てが希望的観測でないことを願いつつ、提督は船を進ませる。

 

 〜〜〜

 

「敵艦、多数!」

 

 そりゃあそうでしょうよ。船首に立って陣頭指揮を執る波濤はそう毒づいた。

 少なくとも、城の攻落、そしてその後の維持が可能な兵力ともなれば、自然それを乗せる船も多く大きくなければならない。

 

「慌てないで。水戦の粋とは整然とした行動がとれるかどうかよ。数はさして問題ではない」

 

 それは自身を励ます言葉でもあった。

 が、言語化してからあながち嘘ではないということに気が付く。

 孫呉の軍はおそらく急造船が多い。艦隊の主軸となっているのは、闘艦(とうかん)という、強襲船である。それほど多様な種の戦船は用意できなかったらしい。

 

 傍らにあるのは臨時の軍師たる郭嘉と魯粛である。

 魯粛には策戦立案、郭嘉には状況に応じた細かな調整を任せてある。

 経験の乏しさゆえか、気が気でなさそうな包に、

 

「おい、天才軍師」

 

 と、常日頃自称している異名とともに尻を叩く。

 ひゃわあ、と頓狂な叫び声があがる。

 

「しっかりなさいよ、実際に指揮するのはあたしだけど、それでも勝敗はアンタらの目と頭にかかってるんだから」

「わ、分かってますっ!」

「どうかねぇ、実は自信なかったりして。どこからともなく流れて来た評判によれば? 曰く『天下に二賢あり。その一人の周公瑾は水戦においては右に出る者なし、魯子敬(しけい)は陸戦において右に出る者なし』とか。じゃあ船戦で後者が勝てないのも道理ってわけよ」

「むかっ! じゃあやりますよ、やってやりますよ! 冥……周瑜さんとは旧知の間柄ですが、この魯粛が水陸両用の無敵の軍師だってこと、見せてあげますっ」

 

 挑発に乗っていつもの調子を取り戻して声を大に、力強く掌を突き出して令を発する。

 

蒙衝(もうしょう)部隊、前進!」

 

 〜〜〜

 

 (牛皮)でもって衝く。それがゆえの蒙衝。

 牛の生皮を船体に張った、防水、防御、そして機動性に優れた遠近いずれの攻め方にも秀でた艦船である。

 

 前面に押し出して来たその艦列を見て、カッと祭は呼気を吐き出した。

 

「さすがに造船技術に関しては、荊州水軍に一日の長があるようじゃの」

 しかもそれは漕ぎ手を船室にて防護するような作りとなっており、自慢の弓で彼らを狙撃し、操舵力を奪うことが難しくなっている。

 

 これがこの黄蓋と目してのあてがいであるのであれば、自分の弓取りとしての武名も中々に捨てたものではない。

「やれやれ……名が知れるというのも考えものじゃな」

 祭は満更でもない気分で笑った。

 

 そして自らその矢の腕を披露すべくつがえる。

 船の揺れ、水位の変化を目線で読み抜き、風流を肌に、水流を耳に、五感総てをもって一矢の向かう先を読み、それが狙いと合致した瞬間、祭は射放った。

 

 放物線、というよりも直線に近い軌道でもって、矢は敵船の窓をくぐり抜けた。

 くぐもった声がその窓を突き抜けた。途端、その敵船は統制を喪い、味方を巻き込んで転覆した。

 

「まず一隻」

 涼やかにそううそぶいた自分たちの指揮者に、部下が喝采を送り、我も我もと子どものごとく腕の程を見せんと矢嵐を生み出す。

 それに負けじと同様の要領で、祭が矢を射放った。

 

 が、その矢は軌道から外れた。否外された。そこに飛び込んできた強矢によって。

 

「あ?」

 その軌道の方角へと祭は首を向ける。

 しぶきをあげて、蒙衝に紛れ、いくつもの小型艦が敵味方の間隙を泳ぎ回っている。

 走舸(そうか)という。実に単純な作りの船だが、余計な虚飾がない分速いし、小回りも利く。

 

「黄蓋殿黄蓋殿!」

 

 敵味方という別の無い、溌剌とした声が黄蓋隊の乗艦を震わせる。

 色味の薄い短髪を風になびかせ、その走舸の床板にべたりと張り付くようにして弩を構えている。

 自身の矢を妨げた射手は、おそらくはこの者だろう。

 

「蒋欽です! ちょっと弩の腕には自負がありまして! お手合わせ願います!」

 四つん這いに近い姿勢と言い、うろちょろと駆けまわる長蛇の隊列といい、まるで海の子犬のごとし。

 

「おう、これはまた元気の良いのに懐かれたわ」

 快笑した祭であったが、むろん手は緩めない。

 三の矢をつがえる彼女に対し、蒋欽なる賊将も全身の力を使って再装填する。

 

 射出の時機は、ほぼ同時であった。

 そして軌道も射角も、威力もほぼ同じ。真っ向から衝突し、弾け飛ぶ。

 

 引き分け。だが祭はそれを憮然と見守っていた。

 自分のそれは熟練の経験に基づくものだが、向こうはあくまで動物的な感性によるものだろう。

 まったく誤用も承知で言うなれば、後世畏るべしと言ったところか。

 

 ~~~

 

「霧雨がよくやってくれた」

 

 と言いたいところだが、その実それよりも上回る戦果を求めていたというのが正直なところだ。

 ワンワンと吠え回って孫呉の老番犬を翻弄するは良し。だが、肝心の蒙衝が遊兵となっているではないか。

 

 とは言ってもそれを本隊に戻すだけの戦術眼は、将来はともかく今の蒋欽には欠ける。

 

 それにつけても孫軍の揺らぎの無さよ。

 互いの力量を信頼するがゆえか。出鼻を挫かれようと、黄蓋隊に一隻の援軍も送らない。

 陸ではともかく、水上においてはそれが正しい。半端な情けは船を傾けさせる。

 

「その向こう見ずさと思い切りの良さが彼女の持ち味ではあるけどね」

 苦笑とともに、だが力強く波濤は爪先で甲板を叩いた。

「第二段階へ移行。本艦を動かす」

 

 〜〜〜

 

「敵文聘隊、諸葛瑾隊を半包囲!」

 その報を受けた時、冥琳に再び苦渋の色が浮かぶ。

 

「ずいぶんとまた思い切って舵を切ったものだ」

 という独語のとおり、文聘はどちらかと言えば水際での守勢を得意とする将である。彼女らしからぬ猛攻に、作為めいたものを蓮華も感じ取っていた。

 と同時に、敵方にも優秀な軍師の存在することを疑わざるを得なくなる。

 

 とは言え、これで両翼の頭が押さえつけられた形となる。傍観していたところで、好転するはずもなし。

 そう思っていると、冥琳が進み出た。

 

「救うべきは新参にして他の艦隊と歩調が合わん諸葛瑾隊。黄蓋隊を囲む敵は小勢ゆえに決め手に欠けよう。よってその目的は掣肘と陽動と見た。今しばらくは保つ」

 

 と冥琳は見解を見せ、蓮華もそれに同意した。

 

「とは言え、ただ救援するというのも芸がないな。朱羅にも経験を積んでもらいたい。よってここは隊を二つに分け、文聘を逆包囲するのはどうでしょう」

「良かろう」

 

 冥琳が悪戯っぽく策を献じ、武人の口調で蓮華はそれを採った。

 

「ならば私がその背を襲う。公瑾は横より撃て」

 と言い出した蓮華を、驚き半分と言った様子で見返す。

 

「案ずるな。私とて孫家の(むすめ)だ。一度や二度不意を突かれたところで崩れるような下手な指揮はしない。小蓮とともに興覇(こうは)を降した手腕、其方も知っていよう?」

 

 と、自負を見せる。剣技とて、母姉には及ばずとも並みの者どもには負けるはずがないと思っている。

 

「――されど、寡兵なれども御遣いを除けばあの軍は劉表軍最強です。何卒、ご油断なされませぬよう。何かあれば、名誉よりもお命をお取りください」

「分かっている。……私とて、考えがあってのことだ」

「それは……承知しました。くれぐれもお気をつけて」

 

 かくして軍師は本格的な戦闘に入る前に、游艇(ゆうてい)という連絡船に乗って自身の旗艦に移った。御遣いは、彼女に付けた、というよりも追い遣った。

 二つに分かれた軍は、前方の諸葛瑾隊を敵とした文聘の水軍を取り巻きにかかる。

 

「いいぞっ! このまま敵の背後を衝け!」

 

 ――この時、らしくもない焦燥を感じていなかったか、と自問すれば、ウソとなろう。

 卓越した双剣術と飾らない自然体な人柄をもって母や姉の評価を得たあの黒髪の魔女に、猜疑以上の嫉妬と対抗意識がなかったかというと、そうでもないどころか多分に自覚のことだ。

  

 

 そして、後悔というものは事が起こって後にするものだ。

 

 蓮華の旗艦が、横合いから殴りつけられ左右に揺らぐ。

「何事だっ!?」

 身を持ち崩すもすぐに立て直した蓮華が、するどく左右の者に問う。

 

 船体側面に張り付いているのは、強襲特化の小型船『先登(せんとう)』。

 おそらくは大掛かりに動いた文聘本隊を囮として、そこから生じた死角より切り離された別動隊。

 

「よう、お嬢ちゃん」

 それに乗る金髪の少女は、ぞんざいな口調で言うや、縄を旗艦にくくりつけた。

 ただの縄でもない。先に熊手のごとき鉤を取り付けた暗器……いわゆる飛爪(ひそう)である。

 

 その食い込みを取り外す間もなく、

 

「褐色の肌、桜色の髪。これほど目立つ姿もないわな」

 そして彼女の配下と思しき荒くれ者どもが次々と船に乗り込み、その重量分船体が傾く。

 

「……孫家の娘、値は千金のその首、潘文珪(ぶんけい)がいただく」


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