何かしらの指摘が入ったり何の変化も見られなかったら戻します。
関の上にあって眼前の平地に流れ込む騎兵を、馬騰はあらためて見下ろした。
見知った姿もある、同郷人である。
「大計破れ、思いもよらぬ小者相手に一敗地に塗れてもなお、あの威容を誇るか。いや感心感心! 董卓にはともすれば王者の徳というものがあるのかな」
などと他人事のように壁を叩いて称賛する母に、焦れたように翠が進み出てきた。
「出撃の許可を」
そう希う娘に、
「すごいこと言うね、お前は」
と碧は言った。
「アレと戦う気か」
華雄を喪ったと聞くが、今の呂布の武威はそれを補って余りある。
百里を超えて飛んできたその闘気は、今眼下に在って誰の目にも脅威として映っていることであろう。
背後に控えた翠の姉妹たちも、慄然と棒立ちになっていた。
脇を固めるその軍勢にしてもそうだ。実数以上の実力を有する精鋭だ。
袁術相手に敗けたのだ。もはやいささかの緩みも油断もありはしない。
「
翠は怯むことなく答えを返した。
「そもそも城を取った取られたってのはあたしらの本領じゃない。ここで打って出ずして何のための調練だ。何が西涼の士だ」
「わ、私達も、姉様に同意します!」
鶸や蒼の姉妹までもが進み出た時、碧は軽く驚いた。だがそれが彼我の戦力を比較しての客観的判断ではなく、矜恃から来る虚勢であることは一見して明らかだった。
「えー」
それを察して、碧は軽く身を引いた。
「勝てる気でいるの、あいつに」
「自分の娘を見くびるなよ」
「そんなことはないさ。ちゃんと評価してる」
柔らかく言って碧は翠の肩に手を置いた。
「成長したな、翠。幼い頃のお前はただ泣く事しか出来なかった……でも今のお前は、心に怒りを宿している。それは西涼人たる武を手に入れ、お前が強くなったからだ。だが忘れるな。本当の強さとは、力が強い事じゃない。心が強い事だ。今のお前ならもう、その意味が分かるはずだ」
「絶対適当に言ってるだろそれ!?」
なるほど不満はそこにあるわけか。敵を尊重する言葉を放言しつつ、かつ自分たちを過少に評価していると。
だが、感情で軍を動かすことが諸刃の剣であることを、碧は知っている。
ともすれば意気をあげあの軍さえも打ち倒せるかもしれないが……一方で戦の本質を見失いかねない。
「どうよ、ヘクトル、輪虎、紅葉」
「うちとしちゃあ、翠に同じく」
涼州の勇者にして友の賛同を得て、ますます娘は自信を持った。
「けど、問題は、大殿の胸三寸じゃあないですかね」
「あぁ、僕はどっちでも」
次いで答えたのは輪虎であった。
「与えられた兵力で、やることをやるだけですよ」
平然と言ってのけるが、要するに自分が死なない、その部隊が敗北しない自負がある一方で、勢力それ自体の勝敗はどっちでも良いということか。
「俺は、出るべきじゃないと思う」
ようやく意見らしい意見が出たのは、最後に回ったヘクトルからだった。
仔細は求めず、碧は指を鳴らした。
「良いねそれ。楽できる」
「楽かどうかで戦を決めるのかっ!?」
翠が息を巻いて詰め寄った。
「あたし達は帝より勅をいただいた正義の軍勢だろ! 進んで逆徒を打ち砕く! それ以外の選択肢があるはずもないっ!」
「そうは言ってもなぁ。同じ西涼人だろ? この攻勢もやり過ごしてさ。長安落とした時点で朝廷への義理は果たしたし、さっさと高順ちゃん返還するのを条件に裏で和議を結んで引き上げたほうが良いと思うんだけどな。寒いし怖いし」
瞬間、碧の肺を娘の腕が圧迫した。寒い、怖いと子どもじみた感想で締めくくったことが限界まで溜めていた怒りへの着火剤となったようだった。
母の喉元を絞り上げながら、翠は声を荒げた。
「どうしてあんたはそうなっちまったんだ!? 何があんたをそんな弱腰に変えた!? 昔は、昔はもっと……」
言いよどむ西涼の荒武者の、吊り上げられた眦に、涙玉が浮かぶ。
「くそっ」と毒づき碧を解放した腕がその目元をぬぐい、踵を返す。
中立的に立ちすくんでいた両妹も紅葉も、慌てて姉の後に追従する。
おそらくは、どうにかしてなだめすかそうという魂胆だと思いたい。
輪虎もさして興味がなさそうにその場を後にし、残ったのはヘクトルのみである。
碧は、しばらく立ち上がれずにいた。
呂布の武威と、そして我が娘ながらも馬超の激情。その二つの覇気は彼女の眠らせんとしていた武心を猛らせ、また一方でその分消耗させもする。
手足の震えが止まらない。感覚さえなく痺れた続く。
「……豪族というのは、長陣を嫌う。遠征を厭う。長安を落としたという一定の成果を得たことが、かえって彼らの意気を削いでいる。必死な董卓軍に今の軍で当たれば、まず負ける。どこかで落としどころが必要だ」
説明とともに呼気を整えていく。
動悸が鳴りやみ、指先が少し動く程度まで回復させる。
「だったらなんで、本当のことを言わない」
ヘクトルの問いは、厳しく冷たいものだった。立場はともかく、心情は翠に傾くところがあるのだろう。
心なしか焦れるような彼の物言いに、碧は薄く嗤って答えた。
「怖いのが、事実だからさ」
と。
「ある時を境に、戦が怖くなった。人の死が、怖くなった。……今更お前さんに隠す必要もないが、自分の命に限りが見えた時、あぁこの若者にも先の人生があろう、この者にも残した家族や恋人もあろうとか考え、手にかける兵士に心を寄せるようになっていった。彼らと争わぬ手立てはないかと考えるようになった」
戦場の外で情をかけるのはいい。
だが、目の前の敵兵を同情するようになれば、もはや武人としては終わっている。
もはや肉体がどうのという問題ではない。
馬寿成という女の精神が、もはや戦場に耐えられなくなってきていると感じていた。
「笑えよ、ヘクトル」
「笑えねぇよ」
短く答えたきり、無骨だが情緒に満ちた異邦人は押し黙った。
紅葉が引き返してきたのは、そんな重苦しい空気の中だった。
「あの馬鹿、出ちまいました」
それが当主の令嬢を呼称するものとは思えず、だしぬけに報告された碧は、それが何のことなのか分からなかった。
それを理解したのは、足下で関の門が開かれた時だった。
碧は舌打ちした。
そこは、親たるおのれが慮らなくてはならないことだった。
あの娘の気性を思えば、こうなることは目に見えていたはずなのに。
「妹御が追いかけてはいますが、彼女らさえ巻き込んで開戦に突入する可能性が高いです……どうします」
「こんな状態で戦になるものか。呼び戻して、犠牲覚悟で長安まで退く」
「……了解です。であれば、その役目はうちが」
「頼めるか?」
「殴ってでも、止めますよ」
棺をポンとはたいて、足取り軽やかに階を飛び降りる。
爽風さえ感じさせる見事な所作に、強張っていた頬もついほどけるというものだ。
「ヘクトル、いつでも後詰めに出られるようにしておけ。輪虎は?」
「まだ関内にいるみたいだな」
「よし、飛ぶ時と兵力は任せる。敵の包囲を受けた場合、その外周から錐穴を開けられるよう、伝えておけ」
最低限のことをしておかんと指示を飛ばして座り込む。ややあって、痛む頭を抱え込む。
この時ばかりは、ままならぬ我が身がもどかしかった。