恋姫星霜譚   作:大島海峡

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巴蜀の反乱者たち
五斗米道(一・終):すべての旗に背いて


「……すでに語るまでもないことですが」

 

 時間は、前後する。

 香と鍼と灸。そしてこの己の手指と智。

 それらを駆使して、張魯は目の前の患者を施術していた。

 

「この五斗米道(ゴッドヴェイド)は西域の言葉で『神の御業』を由来とし、神医華佗を祖とする医療慈善団体でした」

 

 朱色の後ろ髪が分けられ、裸の背が蒼天の下、山塞の庭、霊峰に囲まれて白日にさらされる。

 いかな獣皮を鞣したところでこの光沢は出ないであろうと言う、肌膚。細かい傷は無数にあれど、それもまた妙な色香となっている。

 

「餓える者には食を。傷ついた者には治療や薬を。弱きを嘆く者には武を。救いを求める者には言葉を。愛を求める者には温もりを。見返りはその名にちなみ五斗の米のみ。母もまた、そうあれかしと我が身を劉焉殿に差し出されたのでしょう」

「それが何故、その益州劉氏を見限って危険思想の独立武装教団となったのかね」

 

 堅い台座の上に桃の実のごとき胸を押し当てたまま、患者が問う。

 

「成り行き、と言えばそれまでなのですが……えぇ、人が増え過ぎた。それを統率するには法が要り、法に盲従させるために信仰が要り、彼ら鬼卒に役割を与えるために軍務が要り、その維持に土地が要り……」

 

 そこでようやく、息をついた。

 五体いずれも癒しほぐして、血と気の脈を整えて心を養う。

 

「でも正直、際限ない拡張には疲れました。これを機に本道に立ち返りたく思います」

 まだ抜いていない鍼を自ら抜き放ち、かの女傑は立ち上がった。

 

「如何ですか」

「悪くない。おかげで久方ぶりに手から痺れが抜けたわ」

 

 素肌に上衣を通して、拳の開閉を繰り返して、その来訪者は率直に感謝した。

 

「医師としては、安静にすることをお勧めしますが……それにさえも叛くのでしょうね、貴女は」

 皮肉とともに、張魯は、(えんじゅ)は苦笑を零す。その背後に信徒十万がひしめいている。

 

「叛くが故に、我あり」

 怒哀渦巻く彼女らの視線の先で敵の軍師、成公英が甲斐甲斐しく裸の女王の着付けを手伝い、その先で騎馬民族が列を成している。

 そして、彼らを率いる筆頭は、異装異能の天の御遣いたち。

 

 彼らに、難攻不落のこの陽平関(ようへいかん)は落とされた。

 

 先には蜀と戦ったが、そこにもやはり御遣いはいた。

 老境に差し掛かろうかという不敵な笑みを浮かべる水将に銀髪の女軍人、それに黒鎧と大剣の騎士。

 

 教団には来なかった。せいぜい、荊州の乱を逃れて移民してきた司馬徽(しばき)なる賢人ぐらいなものだ。

 所詮、信仰や奇跡などはそんなものだ。

 

「治療の礼だ。約定どおり信徒とそなたの命は助けてやろう」

「朝廷には、如何な報告を?」

「ありのままを。それでも文句があるのなら、近衛だろうと帝ご自身だろうとかかって来るが良かろうと」

 居住まいを正した年齢不詳の怪人は、一頻り笑った後に続けた。

 

「今なお抵抗を続ける妹御の安否までは保障せん。その辺りは如何かね」

「求める者に、求める物を」

 

 張魯は抑揚なく答えた。

 

張衛(ちょうえい)と武断派の祭酒(さいしゅ)たちが戦いの場をなお求めるというのなら、思いに任せるのが最善の処方でしょう……あれは師の悪い部分ばかりを真似る」

 

 すでに袂を別った仲ではあれど、肉親である。想わぬところがないでもない。

 だがこの命を投げ出そうとすれば、この女は自分に延命の施術を施せと冗談めかしく言ってのけ、その挺身を一笑に付した。

 それ以上に差し出すものなど、この漢中にはない。すべて奪われた後だ。

 この場でさらに要求をすることは、縋ることであり、媚びである。

 

 おそらくそれをこの女、韓遂文約(ぶんやく)は決して許しはすまい。

 

「姉に叛く妹か。それもまた良し」

 後は満足げにそう言うのみで、この奇妙な降伏の儀は滞りなく終わった。

 

 ~~~

 

 その風貌、婦女子のごとし。

 大目に見ても小柄で華奢な美少年のそれであり、その立ち振る舞いは気まぐれな猫か悪童じみている。

 

 それが韓遂軍に最初に拾われた天星よりの落とし子であるが、今彼は、天水(てんすい)への帰途。馬上で器用に寝ていた。

 鞍を敷物に鬣を枕に、帽子で顔を隠し膝を立てる。

 

 短兵急をもって難所を落とすのは自分の得意とするところで、張魯も物わかりの良い娘であって漢中の奪取は滞りなく成し遂げることができた。

 

 問題はその後の引き継ぎ。韓遂の本隊は西涼の占拠に向けてとって返すとして、漢中に居留して張衛ら残党の掃討を任せられたのは、自分の同じ天の御遣いである男とその副官だ。

 

 薄く目を開く。

 帽子の裏側に投影されるのは、その端正だが絶対的な自負と服従とは無縁の、矜持に満ちた冷たい顔立ち。

 燃えるように輝く、左右非対称の瞳の色。

 矛盾を承知で評するなら、全体的な印象は氷に閉ざされた燃える牡丹だ。

 

「良いの? 金蘭さん」

 それを踏まえて、先行する韓遂に『進言』する。

「彼、裏切るよ」

 

 別に確たる証拠があるわけでもない。金蘭が手酷く彼を冷遇したわけでもなく、むしろ厚遇し、信任していた。

 

 だがそれでも、あの鷹のような男は、その気位と能力は、凡百の器量に収まるものではない。

 無論、韓遂も逆徒ながらも一個の梟雄として大人物であることに違いない。

 だが、それでもなお、足りぬ。

 それこそこの天下を超え、星々の果てまで手中に収めるほどの器量と気宇と信念がなければ。

 才資はともかく、そう言う目をした男を、自分の時代で何人も見てきた。それが故の、断言だ。

 

 わずかに笑った気配があった。御遣いは帽子を持ち上げ、視界を開けた。

 

「大いに、良し」

 後漢を代表する叛将は、答えて言った。

 

「叛逆とはこれすなわち、真なる言葉である。大義忠義正義、それら一切の虚飾を突き抜け取り払った果ての自己表現よ」

 

 まるでこの世の真理のごとく講釈する彼女に、呆れたように苦い顔を向けた。だが、表立っての反論は避けた。

 

(そりゃまぁ俺だって諫言代わりに主君から城を奪ったりしたけども)

 

 彼女の理は極論だ。

 叛逆が美徳? 自分の言葉? そんなものを容認すれば、この天下は修羅の巷となるではないか。

 

「面倒くさいなぁ」

「何が?」

 

 横から声が聞こえる。

 若草色の髪が揺れる。風を運ぶ。同色のつぶらな瞳が、無垢に見返していた。幼さを色濃く残す少女。

 その最新参の武将が気がつけば轡を並べている。

 

 男はゆっくり身を起こした。

 別に叛気を疑われるほどの言葉は漏らしていない筈だ。

 別に、慌てて隠すほどのことでもない。

 自分とて武士の端くれだ。落馬など無様を晒すものか。

 

「いやね、金蘭さん達が涼州鎮定に動くなら、引き返してくる馬騰さん達の抑え、俺たちじゃない? ってあぁそうか」

 

 言ってから思い至ることがあって、彼は声を漏らした。

 

「そうなった場合、君は涼州かもね。血筋が血筋だし、向こうに身を置く方が羌族の慰撫もしやすいだろうし」

「血筋がどうのとか、そういう見られ方は、嫌ですよ。(せんせい)とともに戦に出たいです」

 

 そう言って口を尖らせながら、自分を師と仰ぐ。

 男は苦笑した。もし韓遂陣営に属する理由があるとすれば、おそらく彼女の存在に、運命の皮肉を感じたからだろう。

 壇上にのぼる武将が、自分の知る史実と前後していることが多々あるが、彼女はその最たる者だろう。

 

 だが、見てみたくもある。

 本来であれば現れるのがあまりに遅過ぎた不運の名将。それが群雄割拠の最盛期に才を発揮していれば、どうなっていたか。

 肺は癒えたが、戦乱である。いつ命絶えるとも知れぬ。

 その儚さを知る身としては、この時代にふたたび受けた生の証、経験の伝授、それを残したいという願いも少なからずあった。

 

 あー、と抑揚なく嘆く。

 それにつけても皮肉も皮肉、なんたる皮肉か。

 

「たしかに俺も『孔明』には違いないんだけどさぁ」

 

 はい? と小首を傾げる少女の頭に手を伸ばし、苦笑する。

 

「なんでもないよ、姜維(赫光)さん」

 

 よもや後世、臥龍の愛弟子と伝わる少女に、自分自身の本道や未来など分かろうはずもなく、それにちなんだ異名を持つ彼にも、答えようがなかった。

 

 果たしてその後、漢中にて半独立状態となった太守代行は独断で益州劉氏との戦端を開き、南下を開始。戦力差ではるかに勝る相手に梓潼にて勝利。一時は成都(せいと)を包囲するに至る。

 

【五斗米道……滅亡】

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