恋姫星霜譚   作:大島海峡

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袁紹(一):机上の名人

王手(チェックメイト)

 パチリと小気味良い音を立てて、ビショップの駒が王を指す。

「ありゃ」

 対手の男は頭を掻いて、あらためて盤上を一望した。

 気がつけば、詰みである。

 

「参ったなぁ。これで十連敗じゃないか」

「貴方が教えた遊びじゃありませんか」

 

 眼鏡をかけた少女の指摘は、その目つき同様に鋭い。

 たしかに、このテーブルゲーム……チェスは自分と同じく何処ぞより黄河に流れ着いたものらしく、原型はともかくそれ自体は存在しないもののはずだった。

 だから手慰みにと相手欲しさに少女……真直(まあち)に遊び方を教えたわけだが、あっという間にその技量は超されてしまった。

 

「ルールを知ってると言っても、私のいた時代からすれば骨董品も良いところさ。我々が常に遊んでいたものとはだいぶ勝手が違うんだ。文字通り、『次元が違う』ってね」

 

 などと冗談めかしく見せたが、それが負け惜しみのであることは誰にも、というよりも自分自身でも明白であった

 その後も二戦して二敗。真直はすっかり気を良くして得意満面。元より何かと不遇な扱いを受けることが多い娘である。たとえお遊戯であったとしても、自分の領分を発揮できる場を得て勇躍しているといったところか。

 対して彼は他に娯楽もないこともあって、ますます躍起になって再戦(リターンマッチ)を所望した。

 

「おー、お二人さん。白熱してるところ悪いんだけどさ、陶謙さんがお呼びだって」

 そこに文醜(猪々子)が現れた水が差され、もう一局といかなくなってしまった。

 

 ここは下邳城の貸し与えられた一室。

 青州へと落ち延びた後の袁紹軍は今、陶謙と命を結び、半ば客将としてこの城にて起居していた。

 

 ~~~

 

「今川様が、敗走したとの報が入りました」

 

 謁見の間。そう痛まし気に頭を抱えてみせたのが、陶謙である。

 四十をとうに超えようかと言う枯れた様子の女で、線が細い。

 ひと昔前は侠者として名を馳せたとは到底信じがたい、華奢な女であった。

 髪の深い緑も相まって、どことなく古木を思わせる彼女は、深く嘆息した。

 

 その側に近侍する孫乾が、詳細に言い添えた。

 

「敗走といっても、さしたる被害は出ていないようです。寿春に撤退し、万全の守勢をもって敵を待ち構えています。もし敵がこれを追って城を囲んだところで、十分に耐えうるとのことです。敵の意気が下がったところでこの城より挟撃の軍を出せば」

「これ以上徐州の民草の血を流すことは、できません。誰かの我欲のために無辜の兵が傷つけあう。それはとても悲しいことです」

 

 孫乾の言、おそらくは今川義元の内意を受けての進言を、陶謙は遮った。

 

「今回の敗戦、おそらくは義元様の暴走と専横をお留めできなかった私に責任があるのでしょう。この上は我が身の非力を恥じるのみですが、せめてこれ以上は無用の戦いが起きないよう、広陵(こうりょう)に身を移し敵意がないことを曹公、袁術公に訴えるよりほかありません」

 

 メイドは何かを言いたげに目を眇めた。

 だが、主人の方針に異見を差し挟むことはせずに、直立したまま瞼を下ろした。

 代わり、高笑いでもって応じた者こそ、彼らの雇い主である。

 

 豪奢な鎧、見るも眩き金色の髪。忍ぶことや遠慮というものをまるで知らないことは、この声量の大なること、客将の身分で陶謙と並立していることで初見の者にさえわかる。

 

「ご心配には及ばなくてよ恭祖(きょうそ)さん! 身内の不始末にくるくる娘、この袁本初がこの下邳に在るかぎりギッタンギッタンのケチョンケチョンにして追い返して差し上げますわ!」

 

 袁紹(麗羽)はそう豪語し、手を口元に添えて背を反らし、聞いてる者にとっては頭の痛くなるような甲高さで再び笑い声を轟かせた。

 

「……なぁ、あたいら逆に公孫賛にギッタンギッタンのケチョンケチョンにされたからここにいるんじゃなかったっけ」

「しっ、文ちゃん聞こえるよ……」

 

 まるで古典アニメーションの敵役(かたきやく)のごときその姿は、耳語し合う顔良や文醜、あるいは田豊といった一部の者にとっては庇護欲をかき立てられ、支えてあげねばと奮起するような役割を果たしているのだろう。

 だが、その男にとっては忠誠心や責任感を刺激させられるタイプの人間ではない。

 元よりそういう勤労意欲は低いうえに、長く貴族や権威主義と争ってきた国家の水を飲んで生きてきた人間である。

 態度や言葉に出してこそいないが、麗羽(れいは)の振る舞いを陣中においてもっとも冷ややかに見ていた者こそ、彼であろう。

 もっとも、向こうもそんなことは毛ほどもこちらに期待していないだろうから、その点においては彼は感謝していた。

 

 軍師田豊……すなわち先に盤上で覇を競っていた真直が、咳払いとともに彼の隣より進み出た。

 

「隠棲されるというのであればお留めしません。しかしもしよろしければ、せめて我々に兵とこの城をしばしお貸しいただけないでしょうか。寿春城もこの徐州も、決して悪いようにはいたしません」

 

 眼鏡が理智と謀略への自負に閃く。

 当然難色を示すものと思っていたが、意外にも陶謙の表情は晴れやかであった。

 

「まぁ、力をお貸しいただけるというのですか!」

「当然ですわ! そのためにわたくし達、ここにいるんですもの!」

「素晴らしい。袁紹殿こそ、まさに当世の傑物と呼ぶにふさわしい御方です。喜んで兵も城もお預けいたします」

 

 ――陶謙の巧言に、ふと欺瞞めいた臭いを感じ取った。

 男の脳裏をかすめたのは、過去の残滓。ある一人の政治家の、役者のような顔立ちと薄っぺらな作り笑顔。

 同じ勢力に属しながらも、自分が不倶戴天の敵としてもっとも嫌悪した相手。

 

 あくまで感覚的なものだが、この女からは同等のベクトルの臭気がただよって、鼻先をかすめる気さえした。

 田豊は上手く丸め込んで拠って立つ地を得たものと手ごたえを感じているようだったが、傍目から見ていると()()()()()()()()()()()()()()()()()といった塩梅であった。

 

「どうかなさいましたか?」

 左隣にあって執事然とした立ち振る舞いで様子を窺ってくるのは、沮授(そじゅ)である。

 

「……いや、なんでもないよ。ついデジャヴを感じてね」

 しかしいちいち言うほどでもなく、言う義理もない。

 彼は頭を掻いて懸念を黙殺した。

 

 ~~~

 

「田豊殿」

 いっそあっけないほど指揮権の引き継ぎも終わり、陶謙が退去して後、使()()()()()()()()天の御遣いが声をかけてきた。珍しいことだが、夫婦で落ちて来た一組である。

 

「右も左も分からず放り出されて途方に暮れていた我らを保護していただいたこと、感謝にたえない。だが、非礼を承知でおたずねしたい」

「……何でしょうか」

「この地は、いつ陶謙殿にお返しになられる?」

 

 至極当然の質問だった。

 正義感の強い実直な、いや愚直に過ぎるほどの性格とはここまでの付き合いで理解できていたので、糾弾されるのは覚悟していた。むしろ身構えていたより穏やかな口調であったとさえ思える。

 

「陶謙殿は我らの後ろ盾、今後も南の抑えとなっていただけかなければなりません。この徐州を狙う賊徒どもを跳ね除け、しかる後に返す刀で旧領を奪還する。幸いにして曹操は袁術の増援には本腰を入れず、このまま河北を攻める様子。こちらの攻めも緩くなりますし、逆に公孫賛と争いでに我々の国を奪還する隙も生まれましょう。これにおいて青州、徐州、冀州に確固たる地盤を築いて諸勢力と対抗することが……」

 

 だが、それでも端正な顔立ちふたつにずいと凄まれれば、それ相応の迫力も生まれる。

 整然とした論をもって説得しているはずなのに、そのたびに額には汗が生まれては流れ落ちる。

 

「では、遅くとも捲土重来、南皮を取り戻した後にあらためて陶謙殿にお委ねすると?」

「えぇ、そのつもりです」

「相違ありませんか」

「……そうだと、思います」

「……」

「…………返すんじゃないかしら」

「……あの」

「まぁ、ちょっとは覚悟しておいてください」

「つまり、先の見通しは立たないと」

 

 真直はそれ以上の言葉もなくうつむいた。ふがいないことだがそれが答えだった。

 もちろん、彼女としては虚妄なくそうするつもりだ。単純に道義の面ばかりでなく今後の戦略面、外交面から言ってもそうせねばならないのだ。

 

 だが、袁紹という人は、形式主義でありながら、ある意味においては奇想の人である。身も蓋もない言い方をすれば、突拍子もない考えに至る主君である。

 

 徐州の統治権があくまで預けられたことを本気で忘れるか、でなければ完全に譲られたと本人の頭の中に刻まれてしまっている可能性が高い。

 それこそ冀州を取った時がそうであった。彼女との認識の齟齬が生じた結果、前任者は謀殺を恐れるあまり厠で自殺してしまった。

 

「キュアン」

 

 夫の名とともに、エスリン夫人が袖を引いて、それ以上の追及を諌める。

 いっそ哀れなほどに窮した様子の真直を見兼ねてのことだろうが、言いたいことを言わせ切ったあたり、根本的には彼と同意見らしい。

 彼……キュアンは吐息とともに身を引いた。

 

「私もかつては一国を背負って立った人間です。袁紹殿にも田豊殿にもお立場や言い分や大義正義があることは十分承知しています。ですが、我らは戦場において無防備な背を撃つことを良しとはしません。田豊殿にはそのことをご承知おき下さい」

(え、何それ? 場合によっては出奔!? いや最悪戦場で謀反ってこと!?)

 

 ただでさえかつての威勢は何処へやら。とかく人材、兵力が不足しがちの袁紹軍である。

 そこに来てキュアンの武勇と騎兵と、エスリンの奇妙な治癒能力が抜けるともなれば、全体の崩壊さえ招きかねない。

 

 いや、騎兵が脱けるだけならまだマシとも言える方だ。

 それが旗幟を翻して横槍を付けてくるともなれば……

 

(どうしよう? 戦線から彼らを外す? いやいや、袁術も曹操もそんな生中な陣容で勝てる相手じゃないわよ!? そもそも背後に回してもそのまま裏切って突かれたら……)

「あの、真直さん? 貴女が即答できない立場なのは分かってるから、今の段階でそこまで気を張り詰めなくても」

(ああああああ! じゃあどうすれば良いのよ〜!?)

 

 エスリンの遠慮ももはや耳に届かず、キュアンの言葉をありもしない裏まで深読みして胃と頭を痛める。

 

「真直くん。もう彼ら、行ったよ」

 膨らませた糖蜜菓子のような髪をぐしゃぐしゃと潰して塞ぎ込む真直の意識を引き上げたのは、沮授であった。

 どこか男性的な所作とともに、真直の細腕を引き上げて立て直させる。

 

「話聞いてたけど、キュアンさん達は義理堅い人だからね。君が考えるようなことにはならないんじゃないかな」

「どうしてそんなことが言えるのよ?」

「ほら、わたしだって韓馥(かんふく)さんの元参謀だけど袁紹殿に仕えてるじゃない。あの方はあの方なりに魅力と器量を持っているから、それに砂をかけることはしたくない。わたしも、キュアンさんもね」

 

 さらに頭痛がひどくなりそうなことを言う。そう、この副軍師の旧主は自分たちが自殺に追い込んだ男なのだ。ともすれば報仇に奔って、キュアンたちよりも獅子心中の虫となってもおかしくない立場ではないか。

 

「ほら、またそういう顔をする」

 沮授はそう言って眉根寄せた。

 

「他の御遣いたちも含めて話し合うことだ。それぞれの適正を見抜き、適所に配する。それもまた軍師の務めだろう? ちゃんと相手を見ないからそういう過大で漠然とした不安を膨らませるんだ」

「他のって……駄目よ。語ったところであのキュアン殿が一番まともじゃないの。教経(のりつね)殿は自分と自分の一門とやらへの自信が強すぎて言うこと聞かないし、もうひとりはなんのために呼ばれたのかさえ分からないじゃない」

「『彼』とは親しいと思ってたけど。さっきのとか、飲んで愚痴とか聞いてもらってるんだろう」

「そりゃあまぁ……嫌いではないけれども」

 

 その辺りの感情については、真直は濁した。

 

「でもいかんせん使い物にならなさ過ぎよ。武勇はからっきし。乗馬どころか自分の世話さえ満足に出来やしない。その上棋戦も下手。三十そこそこで伸びしろもないし、やることと言えば本読むか寝てるか酒飲んでるかだし。何が出来るのか、逆にこっちが聞きたいところでしょう?」

「だから面談でそこを突き詰めていくのも君の仕事だろう? わたしは、彼はまだ何か隠していると思うけれども」

「根拠は?」

「なんとなくさ。あの何事にも揺るがない泰然とした言動は、大物感あるよね」

「……『なんとなく』でただでさえ貴重な兵力や資材を任せられないわ」

 

 言う方はいつだって楽だ。

 そう言う思いで睨み返す真直に、沮授は笑って退散した。

 残されたのは彼女と、解決しえないままの彼女の苦悩のみである。

 

「ううう……お腹がぁー」

 内より鳥に啄まれるがごとき断続的な胃痛に、彼女は苦悶する。

 

 〜〜〜

 

 後になって、沮授、真名を(いぇん)はある時弟に述懐する。

 もし彼女が彼を試したのが棋戦(チェス)ではなかったのなら。

 もしそれが実戦形式、たとえば模擬戦の類であったのなら。

 

 真直に彼、そして袁紹軍全ての将校それぞれの歩む運命は、また違った顔を見せていたのではないだろうか、と。

 

 

 

 魂と肉体は再び異なる現世へ。

 されど魔術師の才腕は、未だ宇宙の闇より還ってはいなかった。

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