恋姫星霜譚   作:大島海峡

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陶謙(四):血の刻銘

 広陵へ向かう道中、陶謙は馬車より馬に直接乗りたいと言い出した。

 周囲はその容体を慮って引き留めたが、ついに折れることがなかった。

 

「もしお体に、あるいは周囲の状況に異変があれば、すぐにお伝えください、徐州公。私が背負ってでも、広陵へとお連れします」

 

 そう頼もし気に言った女騎士ラヴィニスに透き通るような笑みとともに礼を述べた。

 だがそんな心配も杞憂に終わり、毅然と背を反らし、綱を手に取り股で鞍を引きしめている。

 

 その様子を見遣りながら、轡を取る美花は問うた。

 

「そろそろ、本心を打ち明けていただけませんか」

「まぁ、本心など大層な……わたしはただ、外の空気を吸いたかっただけですわ」

「周囲の者は下がらせました。外部に漏れ聞こえる心配もありません。ラヴィニス様も、前方にて敵襲の警戒に当たっています」

「…………」

「何故、寿春への援助を打ち切り、そして本初様に本拠をお譲りになられました?」

 

 くすり、と小さな笑い声が、美花の頭上で起こった。

 

「勘」

 とだけ、まず短く答えた。

 だがその声は、涙ながらに袁紹に感謝を伝えた時とはまるで違った。

 寒々として、乾いて枯れている。

 

 怪訝な表情を隠さぬ腹心に、徐州刺史陶謙は唇を歪めてみせた。

 

「侠者ってのは勘を失くしたら仕舞いさ。英布(えいふ)彭越(ほうえつ)。大侠として名を馳せようとも、なまじ顕職を得てそいつを鈍らせたから奴らは滅んだ」

 

 漢の功臣にして反逆者たちの名を挙げながらそう言って、低く笑う。

 それは死体を啄むカラスの鳴声にも似ている。

 

「……つまり、袁曹連合軍には二の矢が存在すると?」

「だから、勘さね。細かいことはわかりゃあしないよ」

 

 たおやかな貴婦人から一転、伝法な口調とともにサラリと切り捨てる女に、美花は眉のあたりをますます歪めた。

 

「その勘に従うとして、ますます合点がいきません。であれば寿春や本初様になおさら警戒を促し連携を密とすべきであり、何より下邳の民を避難させるべきではありませんか」

 

 むろん、義元の戦略的、経済的構想があるのは理解している。

 だがそれは民草の命や幸福あってのものだ。もし彼がこの場に戻っていたとしても、自分と同じ判断を下したというのが美花の見立てであった。

 

 主君は少しだけ笑顔を退かせた。

 馬上、しばし瞑目している。そのまま死んでしまったのではないかとさえ思えるほどに、その横顔は透き通って儚げだ。

 ――今更、残された命を惜しみ、民を投げ出して己ひとりが逃げるような狭量な人物ではないはずだった。

 

「憶えてるか?」

 ふいにその陶謙が問うた。

 

「先に、曹家のご隠居が領内を通過したことがあったろう」

「えぇ、先に私たちに帰順した賊が彼の一行を襲わんという企てで、義元様が知らせてくれなければ、阻止できていなければ、あの方の知る歴史のとおり曹操様の怒りで徐州はあの時点で血の海と焦土と化していたことでしょう」

 

 一体それがどうしたというのか。軽く戸惑いながらも美花は淀みなく事実と起こり得たかもしれない予測を口にする。

 それを聞いて「あぁ」と陶謙は蒼天を仰ぐ。睨む。歯ぎしりとともに、白日を射る様にその眦を引き絞る。

 

 

 

「なんとまぁ、余計なことを報せてくれたものだと思ったよ」

 

 

 

 風がすさぶ。

 街道筋、道中の柳が揺れる。

 終始余裕をもって侍る美花は、らしくもなく完全に瞳孔を開かせていた。

 

 そんな彼女を見て、陶謙は歪に笑みを作っていた。

 まるで邪教の神像をさえ想わせる、憎悪と歓喜の二面が内包された表情。

 

「あれはな、死んだ張闓(ちょうがい)にあたしが吹き込んだのさ。もちろん名は伏せたがね、『かくかくしかじかと貴人が通るから、殺して身ぐるみ剥いじまえ』ってな」

「何故、そんなことを」

「おや、お前は薄々感づいてたんじゃないか、美花」

 

 声が凍り付く。

 もしやという思いはあった。そんな凶賊を跋扈させるほど、周囲が侮るほどには陶謙は無能ではなかったからだ。それを計画すること自体の意味が分からない。たしかに苑州とは緊張した関係ではあったが、それ近隣勢力であるがゆえある程度は避けられないことである。が、そんな戦略性もない謀略に出るほどに憎悪に凝り固まった仲ではなかったはずだった。

 名を伏せたとて、先に言った通り、ともすれば、責任を追及され、沛さえ巻き込んだ大虐殺が起こり得たではないか。

 

「いつぞや、朝廷でか打ち合わせだったか、初めて会った時から、あの曹操ってのが嫌いだったのさ」

 事もなげに、陶謙は言った。

 

「威風堂々とした振る舞い。優秀な一門、中原に近い確たる土壌。何よりその才気。奴には当たり前のようにしてすでに天下の牛耳を獲るだけのモンがすべて備わっていた。そいつが徐州の賊にさえ手間取るような年増女を、さも地に転がる芋虫のように蔑んだ目をしていたのを今でも覚えてるさ」

 

 つまりは逆恨みも良いところではないか。

 そう言いたかったが美花は言葉を隠す。

 極力表情を押し殺したつもりだったが、意図は汲まれたらしい。フンと陶謙は鼻を鳴らした。

 

「慌てて結論を出しなさんな。お前が今考えてるような単純なハナシだったら、最初の問いと繋がらないじゃないのさ」

「……では、何をお考えなのです」

 

 肩を揺すった。声を忍ばせ笑ったのか。咽こんだのか。

 

「たしかに意味の無い行いだ。互いに損しかなく、曹孟徳の私怨によって民草は家を焼かれその骸が河を埋め立てるだろう。……だから、良かったんじゃないか! 陶恭祖の名のもとに、徐州虐殺という繕いようもない汚点が曹操の生涯に刻まれたはずだった!」

 

 カラスのような声調をもって女は馬上、狂い笑う。その情動で咽こむ。

 だが一方でその眼差しは、自身を護衛する天の御遣いの背を睨んでいた。

 

「だが今こうして機会は戻ってきた! あぁあぁ快なること哉! 名門袁家、天の寵児曹操、そして御遣いと呼ばれる異界の英雄ども! 虐殺でもするがいい! 奪いたければ奪うがいい! 徐州で好きなだけ殺し合うが良い! 連中が後生大事にしてきた信念! 正義! 家臣領民! すべてを血で汚すが良い! そして義元ォ! せっかく築き上げてきた楽土が崩壊する様を寿春で指をくわえてみていなっ!」

 

 口端を切って流れたものか、あるいは肺から突き出たものか。

 吐血しながら、呪いながら、老いた侠者は、深く昏い自嘲を見せた。

 

「どうせあたしは死ぬ……何事も為せず、何者にも成れず。だったら汚名でも良い、被害者側だろうが加害者側だろうが構うもんか。奴らの絢爛豪華な絵巻物を、陶謙の血文字で汚してやる……ッ」

 

 在りもしない何者かに挑むように、地平の果てを遠望しつつ、陶謙は声だけで美花に問うた。

 

「……お前はどうする?」

 美花は自覚せぬ内に、衣の内に秘した短刀に伸ばしていた指を引かせた。

 

「いえ、元より陶謙様に拾われたこの身この命、いかな理非曲直あろうとも最期の一時まで使い果たす所存です」

 感情の乗らぬ声で宣誓した。

 

 どことなくもの惜しげな横顔を見ながら、内心で嘆息する。

 生かしてはおけぬ類の下衆。

 だが往年の彼女に、自分は救われた。精神はともかく、肉体は。

 

 何よりすでに、人として死した者を、どうして殺めることができようか。

 

(やはり、夢物語なのでしょうか)

 荒み切ったこの半生、諦め切れない子どもじみた理想。

 誰もが傷つけ合わずに済む、笑顔で暮らせる楽園のごとき世界は。

 たとえ叶わずとも、擦り切れることなくその夢のために邁進できる、日輪のごとき英主に仕えることは。

 

(義元様)

 南へ向け、その理想に近しき月光の申し子の名を呼ぶ。

 

 自分の中の少女が、未だあの闇の路地に沈んでいることを、美花は改めて自覚した。

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