恋姫星霜譚   作:大島海峡

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袁紹(ニ):狼牙の戦端(★)

「さぁっ、進発しますわよ!」

 

 既にしてさながら大勝の後の凱旋のごとく、意気揚々と袁紹は軍を南下させた。その陣容の大半が寄親寄子制度によって編成された陶謙軍であることに目を瞑れば、まさしく王者の進軍と言って良い威勢であっただろう。

 

 先陣には袁紹軍の定法に従い顔良文醜の二枚看板。そのキュアン、エスリン最新鋭の武将が続く。

 中軍を固めるのは田豊。自身の方策に珍しく聞き耳を持ってもらえたことに鼻を高くし、胸躍らせての進軍であった。

 後尾に袁紹の本陣。その脇を固めるのは李通と沮授。

 さらには海上より天の御遣い、平教経が黄河に慣らした水軍が続き、これが別働隊として水上より寿春包囲軍を撃つ構えだ。

 

 まさに正と奇を織り交ぜた新たな軍勢の初陣である。初陣とは思えぬ堂々たる進軍である。

 

 ……のはずだったのだが。

 袁陶連合軍『盟主』袁本初こと麗羽はどこか不服そうである。

 

 その原因となっているのは、自分より後ろで寝ながらに牽引されている男であろう。

 帽子で顔を覆い、さながら春秋戦国の王師のごとく、御者に馬車を引かせてその上に寝そべっている。

 

 麗羽自身は貴族である以上に己が武人であるという自負も無くしておらず、白馬にまたがっている。

 それが彼女には不服であるらしい。公平不公平だとか、無駄な人員を遣わせているくせに役立たずという以上に、向こうの方が目立つからだというのが主な理由で。

 

「ちょっと! なんとかなりませんこと、あれ?」

 最初は無視を決め込んでいたらしいが、ついにそれほど強くもない忍耐に限界が来たらしい。

 中軍の真直を呼びつけて言った。

 何事も諮れる腹心、と表現すれば聞こえは良いが、有体に言ってしまえば無理難題を押し付けられているだけだ。そのくせ、彼女の策を採り上げることは稀で、もし取り上げてもその後の気分次第であっさりと撤回させられる。

 

「いや、そう言われましても……仕方ないじゃありませんか。あの人馬に乗れないし」

「だったら恭祖さんの人質代わりにでも城に置いておけば良かったでしょう!」

「……そう思わないでもないですが、今更引き返すこともできないじゃないですか」

 

(だったら置き去りにでもしてくれればいいだろう)

 やや捨て鉢気味に、彼は思った。軽く帽子を持ち上げ視界を開けると、彼の時代では考えられない、みずみずしい緑の木々や、通り過ぎていく山々が見える。

 そして彼女たちの雑言は、潜めているつもりかもしれないが、しっかりと耳に届いていた。

 

 彼は自分の置かれた状況を捨て犬と重ね合わせた。

 拾ってくれと頼んだ覚えがないから感謝を伝えて忠義を尽くす義理はないが、かと言って今の環境を自分から捨て去る気にもなれない。

 

 そして彼が想ったとおりに捨てられれば、現代的な生活においてでさえその能力に欠ける彼としては、路頭に迷って賊にでも襲われて殺されるのが関の山と言ったところだろう。

 これはもはや予想なのではなかった。絶対的な自信とさえ呼べるものだ。

 

 とはいえ、自分を巡って問題を吹っ掛けられている真直の境遇には、上官に恵まれなかった経験も踏まえて同情を禁じ得ない。

 だが容易に辞表を提出することもできないというのが、封建社会の難しさであろう。

 

 そんな雑事で召喚された彼女は、やはり迷惑そうに眉間にシワを寄せていた。胃痛も併発したらしく、しきりにヘソの上を摩ってさえいる。

 

 助け舟を出したのは、沮授こと円である。

 

「かつて孟嘗君(もうしょくん)は、世においては無用者、悪党と謗られた者らさえ客として囲っていました。しかし彼らはそれがために忠義を尽くし、それぞれの一芸をもって主人の窮地を救いました。彼にもきっとこの厚遇を感謝し、尽くすべき何物かの才がありましょう」

 

 その名は歴史家を志した身として、男も聞いたことがある。太古の、ここでは二、三百年ほど前、アジア圏における賢人のひとりだ。そして例として挙げられたのは鶏鳴狗盗の一事であろう。

 

 もっとも、彼には()()()()()()()()()()()()才能はないし、よしんば持ち得ていたとしても袁紹に用いられる義理もない。

 

 とはいえ、古の聖賢になぞらえられた麗羽は虚栄心を大いに刺激されて機嫌を改められたようだ。

 

「えぇそうですわね! 気の利いたことをおっしゃいますわね。たとえ非才の下男でも、飼っていればまぁそのうち矢の的になる程度の働きをするかもしれないでしょう! オーホホホ!」

 

 などと高笑い。高揚のままに馬を速めていった。

 その背を見送り、顔を見合わせながら軍師たちはため息をついた。

 こちらの視線に気づかれ、ばつが悪そうに頭をかいて男は状態を持ち上げた。

 その緩慢な動作に、ますます真直の呆れの色が強くなる。

 

「あなたのせいで、とんだ苦労をかけさせられます」

「いやぁ、どうも悪いね」

 

 我ながら誠意に欠ける調子で、男は頭を下げた。

 円は苦笑を彼と、そして同僚へと向けていた。

 

「でも真直くんだって、もう少し言い方ってものを考えなきゃ。あんな言い方ばかりしてるから、殿の反発を生む。良薬口に苦しといっても、糖衣で包まなければ彼女は飲まないよ」

「それでも誰かが正論を言わなければならないでしょう? そしてそれを言えるのは斗詩(とし)以外には私しかいないのよ。本当は円、貴女にも」

「わかったわかった。で、軍師殿。狙いは烏江(うこう)?」

 

 愚痴の方向に傾きつつあるところを円はごく自然体でいなし、話題を変えていく。

 自分でも本道を見失いつつあったことに気が付いたのだろう。真直もまた、表情を引き戻して言った。

 

「えぇ。水陸両面より曹操軍と袁術軍の攻囲を破る。陶謙様が広陵に退いたのも、彼らにとっては油断を誘う要因となっているはず。その隙を突き、一気に破る」

 

(……一気に、ね)

 ふたたび寝そべりながら、男は表情を帽子で隠す。

 陣容に隙はない。陶謙軍の順応性、汎用性の高さと何より彼女たちの軍事的処理能力が非凡なものであるがゆえに、この混成軍は上手いこと調和がとれている。

 

 ――だが、遅すぎる。

 

 斥候によれば南方の敵はこちらに警戒するそぶりさえ見せずに背を晒しているという。

 この行軍の遅さ。頻発させている偵騎。それでもこの無防備さというのは、楽観視できるものではあるまい。

 

(たしかに曹操軍の戦略的目標は河北と見てまず間違いない)

 帽子の中で彼は、職業病と自嘲しながらも思考を続けていく。

(だが()()()目標は、そうとは決して限らないだろう)

 

 ~~~

 

 中軍に戻った真直は、あらためて手ごたえを感じていた。

 特に陶謙軍の扱いやすさといったらない。動員の速さもさることながら、兵も

 豪族たちから供出された兵が、それぞれに自前の武器を用意できていることからも、飛躍的に向上した陶謙軍の経済能力の高さが覗えた。

 それを為したのは、寿春を堅守する御遣いだという。あくまで別勢力であるとは承知しているが、是非とも共に語らいたいものだ。

 

(御遣い、御遣いか)

 

 ふと思い浮かべたのは、キュアン夫妻でも水軍を指揮する教経でもなく、あの怠け者。

 頼りになる猛者たちではなく、彼だったのはきっともっとも心配だったからだろう。

 いちいち気を回してしまいがちな自身を顧みて、真直はふぅと雲に息をつく。

 その心配性も、円の忠告どおりにちゃんと語らえば多少はマシになるのだろうか。

 

 懐に収めたままだったチェスの駒を思い出して指でつまみあげる。また一勝を飾ろうかと、ふとらしくもない柔らかい笑みがこぼれた。

 

「申し上げます!」

 だが、その一瞬の歓楽も裂くような報告とともに霧散した。

 

「我が方の水軍、夏候惇軍と張勲軍の先触れと交戦を開始! 合わせてその右側面を敵の水軍が回り込みつつあります」

「なんですって?」

 

 さすがに烏江までは目と鼻の先である。気づかれて迎撃が出るのもある程度は想定済みだ。

 だがそれにしても早すぎる。わずかにではあるが、教経は功を誇って突出しがちだった。その微妙な距離感が敵に隙を与えてしまったのだろう。

 

 だが、不意を打たれてもいつものような動揺はない。敵味方の成り行きが、すでにみずからの内に収まっていると真直は確信していた。

 

「慌てるな。顔良文醜キュアン前三軍の速度を上げさせ、援護させよ。教経殿は譴責せず後退させ、夏候惇の猪を我らの間に逆に誘い込めと伝えるように」

 事務的な口調とともに指図を飛ばしつつ、次の展開に頭脳を巡らせる。

 

 水軍。敵にも水軍。袁術軍に船戦の達者がいるとはついぞ聞いたためしがない。

(もしや向こうにもまた御遣いが……)

 動揺しかけた己を叱咤し、落着きを取り戻す。この戦運びは、いくつか想定していた流れの一筋でしかない。知らぬものはこの戦でその性質を知れば良いのだ。

 敵であろうと、味方であろうと。

 

「も、申し上げますッ! 敵襲、敵にございます!」

「それはすでに聞いた! すでに前軍を向かわせたゆえ、教経殿には再三」

「ち、違います! 西から新手が……」

 

 息を荒げた兵士の声が途切れる。姿が絶える。

 代わりに彼女の眼前に現れたのは、白い狼のごとき影と、紅蓮の騎兵衆であった。

 

 ~~~

 

 鎧袖一触、とはまさにこの一瞬のごとく。

 息を吐く間さえ与えず袁紹の中軍を穿ち抜いたのは、耶率休哥の部隊であった。

 彼らは盧江に幸村たちが発つのと同時に並行するかのごとく、別動隊として動き始めていた。

 彼に権能を与えた幸村がその裁量をもって与えた命は、ただ一語。

 

「好きにせよ」

 とのこと。

 

 ゆえに、好きにした。

 汝南を突破し、小沛を通過し、同様の目的と性質を持っていた曹操軍の別動隊と合流して敵の長蛇の列を急襲した。

 赤騎兵は、だいぶ己がものになっていた。自分の理想にはまだ遠いが、それでも過去のそれと近い動きは出来る。

 

「北と南、どちらを狙いますか?」

 隊の副長が問う。

「南。旗」

 短く答える。命じる。これがこの部隊の常であった。

 隠密行動から示威行動へ。『休』の旗が立ち上り、敵に我の存在を標榜する。

 北の本隊は分枝した曹操軍の夏侯淵へ譲ってやり、自身らは勇猛果敢なる敵先鋒へと挑みかかる。

 

 馬蹄を響かせる中、ふと想いを馳せる。

 中原を思う様駈けるような戦をする。歪ながらも半ばながらも夢を果たせた。

 女が智と武と受け持つというのにはいささか面食らったが、それが摂理というのなら従おう。

 戦場に立つ以上、男であれ女であれ容赦はしないし、すぐれた兵士軍人は敵味方の別なく尊重しよう。

 

 ――だが、それでもやはり。

 

「あまり、味の良いものではないな」

 耶率休哥は、血に濡れた刃を袍でそっと拭った。

 

 ~~~

 

(ううう……)

 いまだ収まらぬ戦塵の中で、真直は眼鏡を拾い直して起き上がった。

 あの赤い獣と白い狼の群れは、彼女が視認さえできずに別の戦場に向かった。

 

(また、お腹が痛くなってきたわ)

 

 だが、敵の奇襲があれで終わりというわけがあるまい。

 おそらくはその魔手は前と後、両軍に伸びているであろう。敵の狙いも、おおよそは察しがつく。

 今となってはあとの祭りだが、読み違えたのは自分だ。

 すぐに善後策を講じなくてはならない。軍師として、その義務がある。

 

(こうしちゃいられない……麗羽さまに、伝えなくちゃ)

 すでに味方は彼女のそばになく、使っていた馬も潰された。

 しかたなく徒歩で向かおうとした。

 だが、ふと砂塵を孕んだ風にあおられて、ぐらりと身体が揺らぐ。

 

 倒れた。身体の内から、今まで聞いたことのないような音が聞こえた。

 痛みにより手で押さえていた腹から、血が滲み始めてぼろぼろになった服地を濡らしていく。

 

 

 

 おかしい。

 立て、ない。

 

 

 

 手足から瞬く間に力と体温が抜けていくのが分かる。

 血のめぐりが衰えはじめ、やがて軍師としてもっとも大事な頭の巡りも悪くなっていく。

 眼鏡をかけ直したはずだ。なのに意識と視界を覆う霧が、時とともに濃くなっていくのはどういうわけだろう。

 そしてそれに抗う意志力さえ残されておらず、ただ自分の肉体が終わりに近づきつつある感覚だけを残して削ぎ取られていく。

 

 転げた拍子にこぼれ落ちた駒。『王』を具象したというそれに、訳もわからず、ほぼ無我夢中で手を伸ばす。

 だがそれさえも叶わずに、掌は砂地にぼとりと落下した。

 

 

 

「ごめん、なさい……みんな。ごめんなさい、麗羽……さま」

 

 

 

 常日頃直言をくり返していた忠臣が、最期に紡ぎ出したもの。

 それは策でも諫言でもなく、ただおのが詰めの甘さを悔いる、謝罪の言葉だった。

 

 そして田元皓(げんこう)が胃を痛めたり、主人たちの奔放さに苦悩させられることはなくなった。

 ―――もう、二度と。

 

 

 

【田豊/真直/恋姫……戦死】

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