恋姫星霜譚   作:大島海峡

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袁紹(四):魔術師と怪鳥(一)

「ヒィィィ、もう敵わねェ! 逃げろーっ!」

 袁紹軍の中でも急ごしらえで組み込まれた、おそらくは黄巾あたりからの流れ者だろう。黄色い幘を被り髭を生やした男を筆頭に後ろから崩れ去った。

 それを追ってまた別の部隊が続く。

 

「やれやれ、釣り出そうにも自壊する方が先とはな。天下の名門も落ちぶれたものだ」

 それを呆れながら見守っていた秋蘭は馬首を返した。

 逃げるその様に欺瞞の気配はなく、紛れもなく士気を失った弱兵の逃散であった。

 

 迅速な判断とそれを形にする用兵。これこそが彼女の妙味であろう。

 ゆえにこそ、それは今回、彼女に災いした。

 その即断ゆえに、自身の見識を吟味しなかった。

 

 一つには、袁紹軍の変質をただの凋落と誤認したこと。

 もう一つには、一度目に崩れた賊徒の逃走が本物だとしても、()()()()()()()()()()()()()という点。

 

 その後続が、動く。

 突如敗走路を違えた部隊はそのまま赤髪の大将が先頭を切るままに、追走を始めていた夏侯淵隊の不意を突き、出鼻を挫いた。

 

「なっ!?」

 

 らしくもなく驚嘆する間もなく、こちらの先鋒を打ち砕いた敵の『伏兵』は、そのまま薪を割るが如く一気に貫通し、そして反撃を許さないままに南下して行った。

 

 それ自体は少数である。ゆえに被害は軽微ではあるが「してやられた」という思いだけは強く秋蘭の士魂に刻まれる。

 だが果たしてあれは、やぶれかぶれの特攻なのか。あるいは何かしらの意味を持たせているのか。

 よも袁紹軍にそんな積極策を取れる軍師などおるまいと理屈をつける一方で、彼女の戦勘は後者であると判断している。

 

 それに従い、また受けた辱めを挽回すべく追わんとしていた彼女の元に、急使がやってきた。

 

「申し上げます! 夏侯惇様、敵の水軍大将を討ち取るも、その一騎打ちの最中に重傷を負いました!」

「なんだと」

 彼女にとってはこの上ない凶報に、秋蘭は眉を顰めた。

「して、姉者は?」

「命に別状はないとのことですが」

「……そうか」

 

 ひとまずは安堵の息をついたが、足を止めてしまったばかりに件の部隊は地平の果てである。

 それでも自分の全速をもって追えば、そのうえで弓を射れば、捉え切れない間合いでもないが。

 

「――やめておこう」

 

 自らにそう言い聞かせるかのように彼女は呟いた。

 深入りするつもりはないというのは挑発に用いた言葉ではあるが、本心でもあった。犬も食わぬ姉妹喧嘩の、それも手伝い戦など命ぜられなければそもそも誰が行くものか。

 

「……勝ちはしたかったがな」

 悔いが残る結果ではあるが、姉の回収、そして傷の具合を確認することが最優先事項となる。

 おのが未練を嗤うかのように、秋蘭は愛馬を慰めた。

 

 〜〜〜

 

「李通隊、夏侯淵隊を突破! そのまま南下!」

 よし、と円は軽く拳を握る。

「張勲を側面に回り強襲して前軍の半包囲を切り崩しつつ合流! そのまま作戦を彼らに伝えて!」

 顧みてヤンを窺えば、車上、片膝立ちに彼方を見守り、聞いているのかいないのか微妙な塩梅で首を動かした。

 

「……しかし、黄巾兵はあのまま逃して良いのですか」

「むしろ本格な戦闘中にあれをされなくて良かった。もし乱戦の最中に逃げられようものなら、そこから軍全体が崩れるおそれがあった」

 

 試しに問うたことにも、すぐさま答える。

 その様子は風采の上がらぬ先の様子とはまるで別人で、自分の世界に没入している感があった。答えたことも、円に応対したというよりは自分の考えをまとめるための独語であったように思える。

 

 そのうえで、ヤンは敵軍を評する。

 

「残る袁術陣営は、多頭の蛇だ」

 と。

「それぞれの頭が別々の思考、信念、美学をもって自律的に行動している。そのためどれか一つを潰したところで致命傷にはなりえない。しかしだからこそ、こちらはそれぞれ時間差をつけて各個に対応できる余地を作ることができる」

 

 ――言うは易し。だが行うは難し。

 円としては、それが実に見合った言であることを祈るばかりだ。

 

「ちょっ、ちょっと! 円さん、何やらわたくしに断りもなく色々と出て行かれたようですけども!?」

 

 そこに麗羽が上ずった声で怒鳴り込んできた。

 しかしその反応は予想し得たことでもあるので、しれっとした風に円は答えた。

 

「申し訳ありません。先の発言、わたしが浅慮でした。これより本隊は後退し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう説明すると、麗羽はわずかに声を上ずらせて

「そ、そうですわ! まったく円さんたらそそっかしいのですから」

 と機嫌を改める。そして自分の頭越しに命を出したことなどすっかり抜け落ちたように、ふたたび(ヤン)に指揮権を委ねたのだった。

 

 ――無論、真直がすでに生きているわけがない。いくら麗羽が鈍感であろうとも、それを察知しえないはずがない。

 ただ、そう信じたかったのだろう。今の麗羽は、一片の板切れにすがる溺死寸前の者でしかない。

 

 ヤンと顔を見合わせて、円は苦笑する。

 だが一方で、飄々としつつも円はおのれの欺瞞を烈しく嫌悪する。

 名門袁家の権勢による道義立国、天下の秩序の回復。その王道を支えることこそが、自身の大望ではなかったのか。それが、死した友の名を借りるなど。

 これが露見すれば、いかに寛容な袁本初とも言えど憎悪を受けることは必定である。

 

 それでも、方法はこれしかない。

(許してくれ、真直くん。まだ麗羽様の魂を現世に繋ぎ止めるためには、まだ君に()()()()()困るんだ)

 みずからの悪辣さを再確認するとともに、この軍の、自分の、そして麗羽に穿たれた穴の大きさを痛感していた。

 

 ~~~

 

 いかな名槍を振るう英雄と言えども、半包囲されて、その重厚な敵陣に足を止められては、その乗馬技術も武芸も十全に活かし切ることができないでいる。

 この苦境キュアンが思い起こすのは、砂漠における苦い敗北である。友を救わんとする焦りのあまり、進軍路を過ち、そして同じように騎兵の足を満足に活かしきれないままに、(エスリン)とともになぶり殺しにされた。

 

 今また、同じ轍を踏もうというのか。

 すでに敵の数度目かの攻勢を退け、満身創痍。肩で息をしながら、背後に控えるエスリンを顧みる。

 文醜やキュアンの負傷をライブの杖で癒すこと数度。その耐久も体力もすでに限界が近いであろう。

 

「……エスリン」

「退けなんていう言葉は聞かないわ、キュアン。どのみち逃げ道なんてないでしょう?」

 

 この国で言うところの鴛鴦の契と言うのだろう。心を通わせた者として、その考えは良人に的確に読み取られていた。

 彼が肩に負った手傷に癒しの燐光を当てつつ、エスリンは厳しい目をしている。

 

「それに私はあの時と同じことになったとしても……アルテナのことは間違ったとしていても、変わらずあなたの側にいる」

「……すまない」

 

 拒みきれないおのれの弱さを呪いながら、キュアンは深く妻に謝した。

 その不意を突くかのように、凶刃が迫る。

 

「おーおー、お熱いねぇご両人!」

 

 それを防いだのは、猪々子であった。

 敵兵とキュアン達の間に割って入り、大刀を持って一刀両断。ヒロイックな感じの血ぶるいの後、屈託なく笑いかけて傍らの幼馴染を抱き寄せた。

 

「でも、あたいらの夫婦仲も負けてないよな! 斗詩」

「この状況で『な!』とか言われても……」

 

 顔良こと斗詩は温和そうな少女だったが、中々に凶悪な鈍器で現在進行形で敵兵を薙ぎ倒していくのだから、なかなかに侮れない。

 

「ええと、君たちはそういう関係なのか……?」

 女主体の世界である。つい同性婚も許容されているのかと思いつつ、デリケートな問題ゆえに上手いこと切り出せないでいるキュアンは、

「あはは、気にしないでください……冗談で言ってるだけですから」

 との斗詩のやんわりとした否定に安堵する。

 とは言え、どことなく満更でもなさそうではあった。

 

 猪々子の冗談と底抜けた明るさは、この苦境においては心の救いだが、未だ窮地は続いている。

 前線の崩壊は免れぬ。

 そう思っていた矢先、敵の外周の一角より、文字通りの血路が拓かれた。

 猪々子の斬山刀(ざんざんとう)には劣るものの、十分に長尺肉厚な巨剣を以て赤い短髪の将は敵陣深くに突き入る。考えなしの猪突に見えて、的確に敵の散漫な部位を打ち砕いての、参着であった。

 

「お待たせェ! 李文達(ぶんたつ)、命の差し入れに来ましたよっと!」

 

 そういうや返す刀で殺到する敵兵を一蹴。包囲の穴をさらに拡張させた後、そこから内の味方を逃がしていく。

 

「そのまま足を止めずに聞いて欲しいんだけどさ。というか怒らずに聞いて欲しいんだけどさ」

 と切り出しつつ、エスリンとキュアン、そして袁紹軍の二枚看板に、彼女は『首脳陣』が打ち出した脱出プランを披歴した。

 その策は――いや、そもそも策と呼べるに足るものなのか。

 キュアンのような正道の騎士にとっては到底受け入れがたく、斗詩とエスリンは息を張り詰め、それを伝言した本人もどことなく申し訳なさげだ。

 唯一猪々子だけはケロリとした表情でいたものの、

 

「いやー、あたいにしちゃ珍しくやること自体は分かったんだけど……そんなんでいいのか?」

 その方針そのものについては、懐疑的であった。

 

「ヤ……いや、『軍師殿』いわく、『それが現状もっとも逃げ公算が高い。これでだめなら頭を掻いて詫びる』ってさ」

「なんだそりゃ……まっ、良いや! 要するに、出たとこ勝負ってとこか!」

 

 一目して瞭然であるとおり、この猪々子、物事に対して熟慮はしない主義らしい。そしてギャンブラーでもあるらしく、危険が多大に伴うこの策に唯一乗り気であった。

 一応理屈のうえではキュアンも理解はしたが、あくまで机上の論でしかない。もし策にかけるあの『白い狼』の将器を見誤り、失敗すれば死ぬどころではない。自分たちはともかく顔良文醜、そして李通袁紹の名は愚将として百年の汚名をこうむることとなるだろう。

 

「ちょっと待って」

 制止をかけたのは斗詩である。

 だが彼女が気にかけているのは事の正否ではなく、

「それって、誰の策?」

 という、発案者の所在であった。

 必死の形相で李通の腕を掴み、血色の抜けた唇で問い質す。

 

「たぶん真直ちゃんじゃないでしょう。そもそも、なんで援軍に来たのが真直ちゃんじゃなく、麗羽様の護衛の鉄火(てっか)ちゃんなの? ……まさか、中軍は、真直ちゃんは」

 

 その問いかけに答えたのは、当の李通(鉄火)ではなく、猪々子であった。

 

「考えんのは後々! 今はどっちみち立ち止まってたら死ぬって!」

「さっすが文醜殿は話がわかる」

 

 そう李通は称えたものの、肩に剣を担ぎ、もう一方の手で斗詩の肩を抱いた瞬間、横顔に一瞬濃い影がよぎるのをキュアンは見逃さなかった。

 ――おそらくは、気づいている。

 なんとなく察しがついていて、それでも今は浅慮の猪武者として振る舞い、皆を無理やりにでも引っ立てていこうという信念を感じる。

 それを認めて、キュアンはエスリンを顧みた。頷き返す彼女を見てから、あらためて鉄火に伝えた。

 

「……分かった。騎士道には悖る行いだが、その『軍師殿』の策に従おう」

「感謝します、キュアン殿……では遠慮なく、これより作戦を実行に移します」

 

 それを受けて鉄火は、やや引きつったような笑みを浮かべ、だが怖じた様子もなく低く告げた。

 

 

 

「……目標は、敵左翼。赤騎兵、耶率休哥隊」

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