「申し上げます! 敵軍敗走! 算を乱して荷駄を散らす有様です」
「そうですかそうですか」
せせら笑うような物見の報告に、迎撃軍の総大将を務める七乃が満足げにうなずいた。
さほど勝ち負けには興味がなさそうにも見えるし、勝って当然と言った様子にも見える。
だがそのいずれにしても無理らしからぬことではあろう。
勝利は当然の陣容であり、戦況であり、その経過であった。
それも、自分のほとんど感知も関与もしていないところでだ。実感もなかろう。
馬上、彼女の傍らにある巨漢は地平の果てを遠望した。
たしかに今、敵軍は耶率休哥の隊を通過中であった。陣形もなにもあったものではない醜態をさらしながら。
(でも、ちょっと気にかかりますよねェ)
そしてあの白狼の対応も、ある程度予測がついた。
それが現実のものとなるまで、それほど時間を要さなかった。
「も、申し上げます! 耶率休哥隊、動かず! 敵の眼前の通過を許しました!」
「……え~」
さすがにこれには七乃も不満顔を隠しきれずにいた。
その報は寿春包囲軍の総大将たる美羽にも伝わっているのだろう。さっそく真意を問い質すようにとの急使が届き、不承不承、七乃は耶率休哥を詰問すべくその隊のもとへと向かった。
「ちょっとちょっと! どうして追い討ちかけないんですかぁ」
唇を尖らせ芬々たる様子で尋ねる袁術軍の永遠にして不動の筆頭に、白い狼は鞍から下りずに告げた。
「誘いの臭いがした」
短く言葉を区切るように、それのみ。
やはり戦巧者であるがゆえにその辺りの嗅覚は優れている。
「確かに、荷駄は捨てている。だが武器は、打ち捨てられていない」
自身の直感を伝えた後に、理でもって語る。
「……ま、良いですけど。それよりも今は物資の鹵獲が先ですし。何せ急激に大所帯になっちゃいましたからねぇ。貰えるものは貰っておきましょう」
困った風に言いつつも、その口ぶりは順風により嬉しい悲鳴を隠せないでいる。
(彼女が問題外なのは当たり前ですが、耶率休哥でも今少し踏み込みが足りませんねぇ)
大将ではなく武人の思考だ。将の思考であって帥の域には至っていない。
荷駄が放棄されていること。これみよがしに敗走すること。
たしかにいずれも策謀の気配を忍ばせているが、その二つの偽装が目的を矛盾させていることに気づいていない。
この敗走が敵を計の地点へ誘い込む罠であるとすれば、荷駄をあえて捨てて足止めをするというのはおかしいではないか。
あるいはそうと知ってなお、背を向ける兵を追い立てて殺戮することを拒んだのか。
だとすればなんと清い……否、いじましい男であろうか。
その曰くありげな男の視線に気づいたのか、少し気味悪げに耶率休哥が見返してきた。
その両雄の間に、割り込む影があった。
巨人である。
筋肉で甕のごとく縦横に肥大化した肉体。濃い眉に不遜な顔立ち。前頭を剃り上げた特異な髪型。「また暑苦しいのが」と手狭そうに七乃が退いた。
「おや、出るのですか?」
問うとその男はフンと鼻を鳴らした。
「弱者を狩るのも小遣い稼ぎにも興味はない。敵が罠を仕掛けていようと完全な見せかけであろうと、天下の武の前には塵に等しい。この俺に勝る者がおらぬのは道理であろうが、このような戦、見ているだけでも苦痛だ。一瞬で終わらせてくれる」
「そうですか、まぁ頑張ってください」
言い振りはぞんざいであったが、男はたしかにかつての敵国の大将軍。その武人としての位格を認めていた。
あるいは実際敵に奇計奇策があろうとも、食い破ってくるかも知れない。
「次は貴様だ」
その豪語を肩をそびやかして適当に流し、見送る。
巨人に従う兵士も南陽の戦を戦い抜いた兵より選ばれた剛の者であったが、彼の体躯と比すれば小人のごとし。
その兵士らが必死に軍鼓を鳴らし、将の名を連呼し、大仰とも取れる言い回しとともに讃える。
「……ですが、そう上手くいくのでしょうかね」
男は独語するとともに、風向きが転じつつあることを感じていた。
だが彼にとっては少し興がくすぐられる変化であった。
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「先の奇襲において、あの赤い騎兵隊は敗残兵には目もくれず、一撃離脱とともに次の戦場へと移った」
車上のヤンは気のない目を前方の戦闘の気配に向けつつ言った。
「つまりあの部隊は将兵ともに行動の切り替えが早く、自分の戦術に絶対的な矜恃と美学を持っていると判断した。だから、『無様な敗走』を追うようなことはない。むしろ停滞した先鋒は敵軍全体の足止めとなる。我々としては彼の軍事的ロマンチズムに意地悪く付け込むのが最良の手段というわけだ」
――どんどん態度、というか姿勢が悪くなってるなコイツ。
という眼差しで円は見返していた。
戦場にあるまじき風体だと言う自覚はある。だがそもそも自分は軍人になったのが間違いで、再び采を取っているのも何かの過ちなのだと思っている。
そう訴えてもどうしようもないから、あらためて円を介して指示を飛ばす。
「前軍の逃走は四散した中軍敗残兵の逃走路にもある程度の指向性を持たせることができるだろう。それが出来れば上々なんだが……とりあえず本隊は洋上の敵の射程外へ後退して丘陵を背に再布陣。敗軍の収容を確認次第撤収する」
「前方に軍影!」
「味方か?」
戻ってきた物見の報に、自発的に円が問う。
いくら隊形を取り繕わない撤退とは言え、戻ってくるにはまだ早かろう。
そのヤンの見立ては当たっていた。そしてあえて偵察を再度差し向ける必要などなかった。
軍鼓の音が地を震わせる。
後続の兵士たちは重ねて問う。誰にともなく、いや天下に質す。
「誰が至強か!?」
「誰が至強か!?」
「誰が至強か!?」
答えるのはその先陣を切る大漢。
分厚い掌を突き出し、グワリと目と大口を開けて高らかに宣言する。
己のものであろう、その名を告げる。
「
忙しかったり疲れ気味でちょっと短めですが、これが本年最後の更新となります。
来年もよろしくお願いします。