浅い。否、硬い。
キュアンの繰り出した必殺の一突きは、鎧を押し貫いたものの、その裏の腹筋に阻まれた。
汗の一滴さえも流さず、巨人が傲然と自らを突き刺す相手を顧みた。
「斬斬斬ーッ」
次いで猪々子が斬りかかる。それを難なく避けもせず肩口で受け切ると、剛腕が彼女に迫る。
少女の頭蓋を躊躇なく打ち砕かんとする鈍器に向けて、鉄火の手にした短槍が飛ばされる。だがそれを持ってしても彼の得物は勢いを僅かに弱めたのみで止まらない。
斗詩が無二の友人を守るべく割り込み、自身の武器で汗明の猛攻を凌いだ。
同じく得物は鈍器である。だがその大きさも膂力も、大きく差があった。
自身さえも盾とした挺身は、結果として少女自身の身体を、守ろうとした対象たちとと含めて彼方へ吹き飛ばした。
結局手傷らしきものを負わせられたのは初撃のキュアンによる不意打ちのみで、後はことごとく退けられた。
武人としては大いに不名誉なことではあるが、今は拘っている場合ではない。彼らは退却、本隊の合流に出た。
キュアンとて敵に背を向けることは良しとしなかったが、彼の背後にはエスリンがいる。落馬した彼、妻が乗る馬に乗り換えてともに手綱を取った。
「うはーっ、強いなぁもう! 退却退却ーッ」
……という、猪々子のいっそ清々しいまでの遁走ぶりに気を抜かれなければ、もう少し生き恥を晒すことに抵抗はあったかもしれないが。
〜〜〜
汗明とて、彼らを追い、本陣への合流前に殲滅することはやぶさかではなかった。
だが、その前途を遮る刃があった。
その大刀の刃紋が己の側に向けられていることに、その鈍い閃きを浴びて、汗明は激昂し、得物を振るった。
「おのれっ! 誰も彼もがこの神聖な戦の邪魔立てをするか!!」
無論、図体同様態度も巨大なこの男に、他人の健闘を尊重することなどあり得ない。
その男がこの戦を神聖視したのは、己がいたからに他ならない。
神の如き彼の降り立つ戦場こそすなわち聖地であり、彼の戦いそのものが聖戦である。
少なくとも彼は、そう本気で信じていた。
ゆえに水を差すことを過度に嫌う。
だがその武を、対峙した同陣営にいたこの男は涼やかに防いだ。
「神聖な戦も何も、負けたでしょう? 貴方は」
「黙れ! 敵の小賢しい策も奇襲も、我が肉体には届かなかった! これのどこが負けだと言うのだ」
現れた男は、彼に負けず劣らずな体躯を揺さぶり、冷ややかに笑った。
あえて答える必要もなかった。自覚があるが故の激昂でもあろう。
なるほど敵の攻撃は彼自身には届かなかったかもしれない。
だが、迂闊に踏み込み敵の術中に嵌り、部下を焼かれて己の身に刃を立てられた。
凡百の余人は知らず、楚の巨人にとってこの事実が敗北で無くてなんなのか。
言葉を詰まらせた汗明の前に駒を進める。
背後に従うは五千ばかりの歩騎。攻め手としては少々不足気味だが、この男が采を握れば一軍どころか三軍さえも粉砕するには十分過ぎた。
「ちょっと気が向いたので遊んできます。張勲さんにもようやくお許しを得たことですし」
許しといっても敵からの『貢物』にご執心で気もそぞろになっていた彼女が片手間に出した許可ではあるが、それでも承諾は得たに違いない。
彼の理念によらば、武将とは二種類に大別される。
動物的な感性でもって敵の弱り目や奸計を嗅ぎ分け、その上で策謀の網を食い破る本能型。
経験にもとづく論理的思考によってあらゆる攻勢を無力化し、確実に勝利のための算段を組み立てていく知略型。
戦場に身を置く者としていずれが正しいのか。優れているのか。
それはこの男とて容易に出せる答えではない。むしろすべての武将にとっての命題ともいえることではあろう。
だが今回に限って言うなれば、田豊に代わって指揮を執り始めた敵将は徹底的に後者であり、汗明はまぎれもなく前者であり、そして己は複合型であると自負している。
「……さて、それでは私も遊んでもらいましょうかね」
――図らずも、皮肉にも。
眼前に迫る難を除かんと知略を尽くしたヤンではあったが、その働きがかえって刺激となって、さらなる脅威の誘い水となってしまった。
脅威の名は、
ここより遥か前、春秋戦国時代。
六将として天下に名を馳せた大将軍は、その異名に相応の怪音を喉奥から発しながら、緩やかに進軍を再開した。
~~~
「敵の第二波、来ますっ!」
味方の収容を終えた袁紹軍は、その方によってふたたび軽い恐慌状態がもたらされた。
「掲げている軍旗は?」
「『王』ですっ」
「
円が放った誰何への答えを、ヤンは口の中で復唱した。
やはり記憶や印象に乏しい、ごくありふれたファミリーネームだ。
少なくとも史実の袁術、曹操陣営に王姓で、しかも中核を任せられる敵将など聞いたためしがない。
おそらくは先と同じどこぞの時代、あるいは並行世界から呼ばれた敵将ではあろうが、いかな自分の血統の大元ルーツとは言えど、膨大かつ煩雑極まりない東洋史すべてを網羅することなど、さすがの歴史家志望も不可能なことであった。
――この後の時代、愚かな司馬一族たちが他民族が長城の内に引き入れ、統御しえなくなった結果、数多の国家が盛衰し幾多の非人道的行為が容認されてきた五胡の時代などは、特に。
(我々のような異物も、その五胡と変わりがないのではないか。いや、なまじ未知の知識や技術が流入した結果、このまま大陸のパワーバランスが崩れて群雄割拠の時代が継続されているからもっと質が悪い。史実通り彼らが入り込めば、あるいは引き込まんとする何者かの意図が存在した場合、この国は本来の時代よりさらに陰惨な悲劇を引き起こすのではないか)
そうなった時、自分自身を含めたこの『亡霊』たちは、自分がいたずらに乱世を引き延ばしたことの責任を取ることができるのだろうか。
ヤンはキュアン夫妻を見つめながらふと思った。
もっとも、今更な問いだった。自分がイゼルローンで戦っていた時も、己が時流に逆行し、停滞させているのではという思いに、何度駆られていたことか。
ハンサムなその騎士と視線がぶつかり、頭を掻いて身を退いた。
「ちょっと真直さん、真直さんはいらっしゃらないの!? 戻ってきているのでしょう?」
遠く後方に控える麗羽の呼び声が高らかに響く。声だけで、自分から来はしない。
彼女の姿を求めていつつも、その所在の有無を確かめることに恐怖している。
その姿は、滑稽を通り越してあまりに痛々しいものであった。
「――彼女のことは、わたしが宥めます。貴方は『わたしの名代』として、指揮に専念を」
通りすがりざま、円がそう伝える。あらためてその重責を痛感するのみではあるが、果たして子どものごとき後方の主君と前方の未知の敵、どちらの相手が楽であるのか。
実質的な総司令官たる円は、自分の代理としてヤンを立てる事を諸将に通達したうえで、自身は麗羽の相談役、もとい精神安定剤として後方に引き下がった。
周囲の視線を首筋の辺りに感じ、苦笑しながら改めて挨拶をした。
露骨に胡乱気な表情を見せたのは審配、
李通こと鉄火は元よりその内意に従って行動していたため、舌先に賛否を乗せることこそしなかったが、とりあえずは全面的に支持する様子であった。
短く限られた時間の中で彼らは方針を決めた。
円――もといヤン―は即時撤退を主張したが、他の者がそれに反対した。少なくとも、反撃をくれて撃退して後、悠然と軍を転身させるべきであると。
そうこうしているうちに敵の第二陣は後続の軍と合流し、看過できない地点にまで達しつつあったことで、ヤンも妥協せざるを得なかった。
意志の統一性を欠く軍では進退もままならぬ。それを知るがゆえに、主張を取り下げた。
――かくして不敗の魔術師と秦の怪鳥、遠く時代も処も隔てた名将は、互いに手持ち不如意の状態ながらも、数のみでは互角の状態で対峙することと相成った。