恋姫星霜譚   作:大島海峡

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陶謙(五):終戦の譜(前)

 かくして、陶謙軍は盧江の戦に敗退。寿春は堅守すれども後詰の袁紹軍は破られ青州へと引き上げ、下邳は占領された。

 

 四散した陶謙軍中より、天の御遣い今川義元の命を受けて別行動を取った二将が沛国に在った。

 

 丁奉こと旋律、そしてオフレッサーである。

 もっともオフレッサーは伸びているところを回収されてそのままここに運ばれてきたせいで、最初はパニックと激怒で我を失って暴れ回り、寝室の調度品のいくつかを破壊した後に落ち着きを取り戻した。

 その後はここの歓待に対して野趣あふれる健啖家ぶりを発揮して周囲を瞠目せしめた。

 ……というのは極めて好意的かつ文学的に捉えた解釈である。

 実際は野獣そのものと言った食事風景に、旋律も、かの国の相たる母娘も、辟易していたことは言うまでもない。

 

「……それで、話の続きだけれども」

 すぐ横でひっきりなしに鳴らされる食器の音や、遠慮のない咀嚼音。体重のかかる椅子の軋み。それら雑音を丸々無視して、旋律は続けた。

 

「えぇ、兵を貸して欲しいと?」

 ほんの少し煩わしげに、豊満に過ぎる胸を押し固めるように寄せつつ口元に手を遣る女性こそが、沛の相、陳珪であった。

 

「たしか、袁紹殿が敗走なされたとか」

「さすが、耳ざといこと」

 

 実のところ、旋律はその報にこの時初めて触れた。が、予想はしていたので驚くには至らなかった。驚嘆すべきは、陳珪の諜報の速さであろう。

 

 これ以上踏み込めば、こちらの無知を曝すだけである。

 だからその敗報自体はそこそこに打ち切り、彼女は本題を切り出した。

 

「たしかに後詰は寿春に届かずして敗走したわ。それでも、おかげで袁曹連合の眼は北へと向けられた。今側面を襲えば少なくとも寿春は押さえられる。逆に今動かなければ、徐州連合は遠からずして共倒れになるわよ」

 

 乱世の申し子と名門の正嫡に比して、後者の盟名のなんと貧弱なことか。

 だがその名の重さがいずれ覆ることとなる。五年、いや三年持ちこたえて独立国としての体裁を整えることができれば。

 

 ――だがそれも、むなしい夢に終わるか。

 

 旋律は貪るオフレッサーと見苦しいはずのそれに視線を絶やさぬ陳珪を見て嘆息した。

 

「……なるほど」

 たおやかな声とともに、陳珪は頬に掌を当てた。

 その横で薄く紅を塗った唇が妖しく吊り上がった。

 

「けれども気づいてらして? 徐州はともかく沛が生き残る術は、いくらでもあってよ?」

 

 そう言った瞬間、オフレッサーの側からひときわ大きな音が立った。

 皿に顔を埋めた猛獣は、その姿勢のまま高いびき。それを見遣る旋律の首筋に、陰より槍穂が突きつけられた。

 

 

「……だと思ったわ、この牝狐」

 旋律は冷ややかに取り繕った横顔を陳珪に向けた。

 かの獣には眠り薬を食事に盛って、彼女の食卓は、甲兵に囲ませ、まったく用意周到というか機を見るに敏と称し、軽蔑すべきか。

 

「さっきから小うるさいほどに囁き合っていたのよ、物陰から擦れ合う鉄や絹が」

「あら、そうなの。身近な私には聞こえなかったけど……さすがは丁承淵(しょうえん)、音で戦場を視ると言われる晩成の将器、といったところかしら。その割には」

 

 揶揄する陳珪の目の前で旋律は指を鳴らした。

 すわ何かの合図か策かと、警戒する沛兵たちだったが、そこでもっとも注意しなければならない当人への注意そのものが解かれた。

 直後に旋律は動いた。

 手前の兵士に肘鉄を食らわせ、その槍をもぎとり大きく旋回させる。

 間合いを開けた兵士たちの合間を縫って、単身戸口へ。

 

 だが、その道中にぬるりとした気配が立ちはだかった。

 蛇のごとく、執拗で堅固な構えを取る、灰髪紅眼の少女。

 今この瞬間まで、まったく気配もわずかな物音も感知できなかった。否、いくつもの雑音と人気の中に、それはまぎれていたのだった。

 

「あんたは……ッ」

 

 当惑は刹那にも満たず、武人としての感性は目の前の敵を突破すべく肉体を自走を続けさせた。

 地面すれすれまで屈んだその敵は水面蹴り。跳んでそれをかわすも、蛇のように伸びた腕が浮いたくるぶしを絡め取って地上へと引きずり戻す。

 

 床に叩きつけられ、槍を取りこぼしたた旋律はなお抵抗を諦めず、逆に拘束を抜け出て間接を極める。

 そういう技能と工夫を凝らした応酬が続いた。

 だがややあって優位に立ったのは旋律の側であった。

 敵の喉輪に広げた指を食い込ませ、仰向けに組み伏せる。

 

 だが、それはあくまで個人間の優劣や勝敗でしかなかった。

 彼女ひとりに対抗していた旋律の周囲には、ふたたび笹穂が傾けられている。

 その兵士たちのうち、妙な気配と敏捷さを持つ者がいる。おそらくは、()()()()の手の者がすでに紛れていたのだろう。

 

 息をついて、旋律は足下の少女を解放し、両手を掲げた。

 

「……さすがは泰山賊。毒薬不意打ちの類には手慣れている、というわけね……(ぞう)宣高(せんこう)

「実を取っただけなのに賊呼ばわりは不本意さぁね」

 

 一息に直立した、自分と同じぐらいの娘はふてぶてしく笑いながら応じた。

 藏覇。先に独立勢力として曹操と戦い、そして敗れて帰順した将である。

 

「そもそも貴方は逃げる気もなかったでしょう?」

 まるで子供の喧嘩でも見るような目つきで、陳珪が口を差し挟む。

「そのつもりなら、気取った瞬間にいくらでも逃げられるはず。ここまで気づいていなければ、そもそも食べ物を口にして眠りについているはず」

 

 この女に看破されることは癪ではあるが、いちいちもってその通りだ。

 

「えぇ、元より降るつもりよ。だからこうして、『手土産』も用意したんだから」

「だったら、もう少し大人しくしていてもらいたいもんだ」

 

 外してやった手首を涼しげな表情のまま、藏覇は骨音を鳴らして調整した。

 

「背後に誰がいるか知りたかったのよ。藪を突いて(あんた)が出てきたってことは……ここはすでに曹操の手に落ちたと」

「止まり木を替えたと言ってもらいたいものね」

 

 図々しい物言いの陳珪の裏で、小さな影が反応して動く。それを意地悪く覗きこみながら、尋ねる。

 

「そっちの小鳥ちゃんは、納得していないようだけれども?」

 小鳥ちゃん、と揶揄されたのは陳珪の息女である。

 理知的な目の鋭さはその眼鏡によって誇張されている面があるものの、今回の場合は明らかに不機嫌そうで、ほどよく日に焼けた肌は、知識のみでなく実地を知ることを証明していた。

 

 陳登(ちんとう)元龍(げんりゅう)。若くして農政に一家言を持つ徐州の宰相である。

 

「義元さんには、もっと聞くべきこと、学ぶべき先の時代の知恵があった」

 なるほど内政家として相通じる者らしい異見であった。

 だが娘に冷視されつつもけろりとした様子で陳珪は言った。

 

「そうして得た知識も技術も、それが元で土地を戦火で焼かれたら意味のないものよ。そうでしょう? 丁奉殿」

「……そうね」

 

 政で師事したのが陳登であるのならば、自分にとって今川治部大輔は戦の師だ。あるいは人として、あるいは生という名の楽曲の師として。

 そんな恩師を、今おのれは裏切ろうとしているのだ。

 ……他らなぬ、その男自身の指示によって。

 

(曹操の内情を探り、対陶謙戦における落としどころを見つける。それで良いのですよね、義元様)

 

 盧江よりの退却の間際、受けた密命を思い返し、旋律は悩まし気な息をひっそり胸中へ落とす。

 だがそれでも、徐州が膨れ上がった栄華をふたたび手にすることはあるまい。

 そのことを想い、静かに旋律は瞑目した。

 

 まこと、惜しい。

 もう少しだけ、我々に時があれば。徐州が元より富める土地であったのなら。

 ――あるいは、かの天の御遣いが落ちたのがかような惰弱な地と君の許でなければ。

 

 だがすべては過ぎた話だ。

 今は当面の頭痛の種をどうにかすべきであろう。

 

「ついでに確認したいことがあるんだけど」

 再度昏倒して突っ伏したままの肉団子を指で示しながら、旋律は尋ねた。

 

「曹操殿がこいつをどう評すのか。どう扱うのか。そもそもどう説得し、味方とするのか……陶謙殿に義理はないだろうけど、負け戦の直後に騙し討ちだから、たぶん起きた瞬間から滅茶苦茶荒れるわよ」

 気後れする女妖どもを見て、旋律は少しだけ溜飲を下げた。

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