「どうだー?」
「駄目ですな。将軍の左眼は完全に潰れておりますぞ」
「くそっ! 向こう十年はまだ使えるはずだったのにっ」
(いや、逆に十年しか使わない気だったのか?)
老軍医の診断を受けて悔しがる春蘭の様子を盗み見ながら、オシュトルは面を外した。
下邳城。そこで一端腰を落ち着けた連合軍に在って治療を受ける曹軍大将夏候惇。片目を喪うという重傷を負った猛将に代わって軍容をまとめ、かつその宥め役を買って出ているのが秋蘭こと夏侯淵である。
オシュトルをすり抜けて夏候惇の前に進み出て、苦笑を浮かべる。
「まぁまぁ姉者、逆にこれは吉祥かもしれんぞ」
「吉祥だと!?」
「天の御遣い相手に命を得た。あるいは今からの公孫賛戦に際して我らの厄災を引き受けてくれた、とか肯定的に捉えても良いのではないか?」
「そっ、そうか?」
「そんな幸運な姉者に曹操様より言伝だ。『夏侯元譲、宛州に留まりかの地を鎮護するとともに、その身の養生をすべし。また、大将たる身でありながら一騎討ちに及ぶその軽率さを猛省し、自らの将器を見つめ直しなさい』とのこと」
「なぁっ!?」
機嫌を直したのも束の間、北伐から外されたことを知り、春蘭は愕然と口を開いた。
衝撃で応急処置をしたばかりの左眼から血が吹き出た。
その反応をどことなく秋蘭は楽しそうだった。
個性派ぞろいでアクの強い曹操一門中でも比較的温厚で気の良い性格だが、一方で良い面の皮もしていた。
そんな姉妹のやりとりを横目で見送りつつ、ふと気配を感じた、あるいはそう錯覚したかのごとく背後にそびえる施設へと振り返った。
軍の駐屯地と定めたのは、かつて『ウコン』と『五郎』が飲み交わしたあの酒場である。
民も難を逃れて逃散した今、もはやあの夜の賑わいはどこにもなく、ただ空しく、物々しい武具や兵の容れ物となるばかりであった。
「オシュトル殿」
今度は背後から声をかけられ、オシュトルは顧みた。
真紅の鎧武者、真田幸村が立って、一礼を交わした。
「こたびのご助勢ならびに袁術殿の救出、感謝いたします」
「いや、すべては曹操殿とそのご家中の計らいによるものだ。礼はそちらに」
「無論、そちらにもまたあらためて」
あえてその御礼を分けたのは、曹軍とオシュトルが、自分と同様に完全な主従関係ではないと知るがゆえか。あるいは自分たちの邂逅を格別に運命めいたものと感じているがゆえか。
「こたび、揚州経略の後背の憂いを絶つべく、この徐州の守りを仰せつかりました。聞けばオシュトル殿も、夏候惇殿の補佐役として留守を任せられたとか。今後も何かと縁があることでしょう。今後ともお付き合いのほど、お願いします」
「そうだったのか。では、これからもよろしく頼む」
与するにせよ、対するにせよ。
そういう言葉を呑み込み、オシュトルはその清々しい士たる態度に強く頷いてみせた。
「幸村殿、ついでと言ってはなんだが……頼みがある」
「私に出来ることであれば、承ります」
「徐州の民が泣かぬようにしてほしい」
「無論心がけます」
そう言って、オシュトルは再度酒場を見上げた。
そしてためらわず幸村は快諾してくれた。
「義元公とはかつても今もお会いしたことはないが、この街並みを観るだけでも政の見事さが覗えます。その域には遠く及ばずとも、法度自体はそのまま据え置き、早急に民を安堵することにしましょう」
口約束なれども、オシュトルは何枚もの証書にも勝る確証を得た想いだった。
それ以上の言葉は別辞に要らず。
さっぱりと分かれたオシュトルは、改めて留守居組の面々と会合することにした。
「あぁ、お前がオシュトルか。話は聞いてるよ。俺は」
まず声をかけたのは、濃茶の髪と白い陣羽織、それに貴人然とした美貌を持つ好青年だった。
上下の隔たりというものを良くも悪くも感じさせない表裏のない性格と見た。
風聞には、そういう天の御遣いを新たに囲ったとは聞いていた。
「
「なんだ、知ってたのか。なんだか形式ばった呼ばれ方するとなんだか面映ゆいな」
そうはにかむと、周囲の女子衆がそわそわとしだす。
なるほど確かに、この青年の微笑と少年のごとき純粋さには、聖人さえ惑わすほどの魔性を帯びている。
本人は無自覚であろうが、いやだからこそ余計にタチが悪いというべきか。
もっとも、その色香が通用せぬ女性もいるにはいるだろうが。
守将筆頭でありながら凶刃により潰れた眼球の完全摘出のために欠席している娘を想い、オシュトルは苦笑した。
(あるいはだからこそ、この者は春蘭殿に宛がわれたのか)
他にも、居並ぶ面々はたしかに理にかなった選出であるように思えた。
「オシュトル殿、またご一緒できて光栄です。……またあの名を口にしたら、蹴り入れますからね、蹴り」
「本当は華琳さまや秋蘭さまの身を守りたかったけど」
「今はとにかく春蘭さまのもとで訓練あるのみだよねっ、
「はいっ! 新しく配属されました松永久秀です! よろしくお願いします!」
徐庶をはじめ、経験の浅い者、新参者……あるいはどうにも胡散臭くて信頼のおけない者などが多く、主力と多くの血縁者は曹操とともに従軍することになっていた。
それだけ、今回の北伐には本気でかかっているとも言えた。おそらくは盟友なれども最大勢力であり野心旺盛な袁術の眼が南と西に向けられている今なればこそ、一気に河北を平定する気でいる。
今回の援護はそのための布石。徐州一帯の地盤を固め、袁紹を無力化するための。
かつ、陶謙軍残党がほどよく散ったことで袁術に余計な野心を向ける余裕を与えないために。
そして陣容は今、整った。
――北伐軍。
総大将に曹操。首席幕僚に荀彧。
先鋒、曹仁、曹純。
次鋒に夏侯淵。
中堅を固めるのは例の御遣い二人の歩騎。そして藏覇。
その糧秣一切を曹洪が取り仕切る。
――留守居組。
太守代行に夏候惇。
その補佐にはオシュトルと李典、景虎。
ほか、徐庶、ロイド。
新顔としては
江東よりの亡命者たる
天地人、三者の利を完璧に揃え、乱世の奸雄は、北を跋扈する白馬の逆賊を狙う。