恋姫星霜譚   作:大島海峡

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忠道、荊州
劉表(四):義なき忠


 連絡と補給とを絶たれてしばらく。

 荊南に取り残された劉表軍の評定は、すでに日数と糧食と気力とを浪費するばかりのものとなっていた。

 もたらされるのは江陵陥落、その後間もなく襄陽も落とされたという凶報のみである。

 

 答えはすでにして決まっている。

 これ以上深入りしても益なし。

 そも、孫堅を討てても孫策が、万に一つ孫策をも討ち果たしても孫尚香や江陵を取った孫権が、その軍を引き継ぎ報復戦を仕掛けてくるだろう。

 現時点において奇跡的かつ最大の戦果を挙げたところで、無意味である。

 即時退避。この四字しかあるまい。

 

 だが問題は、いつ、どうやって、南北からの敵の眼と追撃をかいくぐって、江夏、あるいは新野へと落ち延びるかであった。それについてさえ議論や案が交わされたが、現実的なものが出る事は稀であった。

 ついには焔耶が痺れを切らして玉砕覚悟の特攻を主張し、他の全員よりたしなめられるという事態まで発生していた。陣営内における溝が広がるのもそう遠い先のことではあるまいと感じ始めていたその時、光明が差し込んだ。

 

 にわかに長沙城内、議場の片隅より侵入してきた若草色の短髪は、ともすれば雑草が驚異的な速度で生長したようにさえ見えただろう。

 文聘とともに孫権軍の迎撃に当たっていたはずの、蒋欽である。

 

「ふぃー、やっと準備が整ったァ」

 などともぞもぞ蠢きながらどこからともなく現れた少女は、苦境に似合わぬ溌剌とした笑顔を浮かべ、あっけにとられた諸将に言った。

 

「あ、仲業さんからの指示だよっ! ありったけの船、大小問わずかき集めるだけかき集めて、君らを救援に行けってね。そしてその後は、『好きにしろ』って」

 

 水戦に敗けた文聘が擒となったことはすでに周知の事実ではあったが、どうやら自身の敗色を見越して、自由な采配と周辺の河の知識を持つ少女に自分たちのことを託したらしい。

 そのことを知ったシグルドは深く瞑目して感謝の様子を見せると、同様に息を吹き返した様子の諸将と顔を見合わせ、行軍の段取り一切を委任してある三成に問う。

 

「どうやらこれで、目処がつきそうだな」

 

 三成はしばし沈思した後、腕を組んだ。

 

「……多少の細工は要るだろう。それほど手間は取らせぬが」

 

 それを受けてシグルドは強く頷き、ようやくにして、正式な撤退命令を下した。

 

 さっそくの準備に取り掛かるべく名だたる将が退席するなか、もっともすべきことが山積しているだろう三成は、その場に居残っていた。それに従い、謀臣島左近も留まっていた。

 

 その原因はむしろ三成よりも、左近の側にこそあった。

 

「……どうした」

「何がです?」

「お前にしては珍しく、このところいやに物静かではないか」

 

 彼なりの冗談(皮肉)を含めての問いではあったが、語調は剣呑そのものだった。

 ここ数日の議において、あの左近は策も献じることなく、じっと何かを悩んでいる様子であった。

 らしくもないと三成は思っている。自分に数倍する実戦経験を持つこの知勇兼備の猛将である。長篠の退き口も経験した。関ヶ原においては黒田に狙撃されてもなお、崩れる味方を鼓舞して敵陣に斬り込まんとした。

 この程度の苦境、幾たびも乗り越えてきたはずだ。その男が、一切の打開策を出さずに、かつふてぶてしい笑みも消していた。

 

「いえね、考えてたんですよ」

 この時点で切り出そうか、そう逡巡する様子ではあったが、ついに切り出した。

 左右に目を配り、声量を削ぎ、

「無事このまま荊北に撤退するとして、果たしてその先どうするのか。そもそもそれは天下のためになるのか、ってね」

 

 三成は答えなかった。明敏にしてすぐ解を出す、この男が。

 

「そもそも劉表さんや蔡瑁さんは、見捨てた俺たちが帰ってくることなんて、期待していないでしょう。無事帰還できても、その先に待つのは疑いの目です。確実に持て余して、余所に追いやるか、謀殺か」

「あの女に、粛清を断行できる胆力があるとも思えんがな」

「だとしたら、なおさらこの陣営に身を置くことは危険じゃありませんかね。覇気も器量も半可通。とうてい、孫堅さんには及ばない。むしろ敵方の孫家の方が、殿のご気性には合ってると思いますがね」

「……冗談の度を超してるな。少なくとも、ここで笑えるような話でもあるまい」

 

 ぎこちなく三成は冷笑を浮かべて背を向けた。

 だが、返事はなかった。椅子から腰を上げる、わずかな物音が聞こえただけである。

 その沈黙が、今の発言が本音であることの証左であった。

 

「……俺に不義の輩になれというのかッ!」

 

 予感はあった。だが、それでも感情を抑えきれなかった。

 嚇怒して踵を返し、左近を難詰する。

 

「俺に、藤堂(とうどう)高虎(たかとら)のごとき者になれと……ッ」

 

 おのが嫌悪する男の名を出す。

 たしかにその才気に支えられたこともある。だが、奴の業績を見よ。

 幾度も主君を替えたあげく、自身の主君の仇たる者の弟にすり寄り、かつての主家の奥方を自害に追い込み、そして旗色が悪くなれば、今度はその遺児に刃を向ける。

 

 悪しざまに穿った視方ではあろう。裏切りは乱世の常であろう。

 だが、あまりに足取りの軽いその生きざまが誉れある生き方と言えるのか。

 

 そう言わんとした三成の足下に、左近は膝と手を突いていた。

 石高を折半し、自分に士官すると言った時と同様、見事なばかりの、辞儀であった。

 

「一度死合って理解しました。孫家は世評どおり剛直で、殿の頑なさを受け入れ、笑い飛ばせる器量と明るさがあります。一方で、今後天下邁進するに当たっては、その地固めに心もとなさがある。きっと今後、殿の吏才も重く用いられることもありましょう」

 

 常の挑発的な物言いとはかけ離れた、理路整然とした進言。

 そのうえでさらに、追い込むがごとく言い募る。

 

「高虎さんの名前を出されましたが、その境遇は吉継(よしつぐ)さんも同じ。そして、この俺もです」

「……!」

「今敵にいる勝頼さんの元客将であり、次に筒井(つつい)家に仕えました。殿に忠を誓ったのは暇乞いしたその後のことです。俺たちは……殿にとって不忠者と見えますか」

 

 三成は幼稚な感情から発したおのれの迂闊な発言が、自分自身を矛盾の袋小路に追い込み、かつ自身の忠臣の心を傷つけたことを悟った。

 返す言葉もなくいかり気味であった肩を落とす彼に、立ち上がった左近は告げた。

 

「忠義ってのは、どの家に何年仕えたかじゃない。どんな人たちの下にあって、その人たちのため、天下のため、どう生きたか……俺なんかは、そう思ってますがね」

 

 左近の顔にようやくいつもの不遜な笑みが蘇る。

 と同時に、三成の脳裏にはいくつもの残影がちらついた。

 日輪と、父母と仰ぎ見ていた天下人の夫婦。家族であったはずの馬鹿ども。不器用な自身に付き合ってくれた友人たち。

 無謀な戦に挑む己は、それすらも見えなくなっていたような気さえする。

 

 せめてもう少し早く、今の言を聞きたかったと思う。

 『生前』にしてもも今にしても、遅い。

 

「その理屈で言うなれば、現状この軍を見捨てて身の安泰を図ることもまた、臣としても人としても、見苦しい有様だと思うがな」

「……たしかに、この状況で鞍替えするというのは、いくらなんでも聞こえはよくありませんな」

 ほぼ揚げ足取りのような物言いではあったが、大振りの双肩をすくめて左近は引き下がった。

 

「でもせめて、如何ともしがたくなった時ぐらいまでは、今の言葉を心に留めておいてくださいよ、殿」

 という最後の諫めを最後に、これ以上左近がこのことに触れることはなかった。

 

 そして雨が降りしきる日をあえて待って、劉表軍は長沙城を脱した。

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