恋姫星霜譚   作:大島海峡

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孫堅(四):雨に願えば(一)

 劉表軍の姿を濃い雨がかき消す。

 その足音を水音がかき消す。

 

「大丈夫かよ、そんな裸みたいな格好で」

 と今更なことを気にするランヌが魏延の負った荷駄とか得物を預からんとする。そもそも純然たる男社会に生きた彼にしてみれば、女が戦場に立つこと自体が埒外のことだ。女子供を連れ歩き戦場で身勝手に振る舞う放蕩者もいたが、ヤツなどは特に嫌悪したものだ。

 

 この配慮はそんな彼なりの、異常な世界に対しての歩み寄りの結果なのだが、それを手を振り払って、焔耶は足を速めた。

 

「裸ってなんだ、裸って!」

 と、憤りながら。雨の中をものともせず。

 かつて、友より聞いたことがある。

 優秀な兵士というのは何者と戦える兵士ではなく、どこへでも行軍できる兵士なのだと。いかな難所を脱落することなく踏破できる兵士がいれば、それだけで戦略の幅は増す。

 

 魏文長、将質自体は未熟。武に長じつつもやはりそれも、黄忠や敵将孫堅の老練の者を相手にしては頭一つ劣る。

 だがそれでも彼女の不撓不屈の魂は、この敗軍においては欠かすべからざる資質であった。

 

 濃い雨が兵士たちの姿を消す。

 雨の音が沓音を上書きする。

 

 だがそれは、背後に迫る獣とて同じ条件である。

 その轟音が気配をも消す。

 水の匂いが、捲れ上がる土の臭いを塗り潰す。

 

 孫伯符。

 若き虎を先鋒とする追撃部隊が、その爪牙を研いで獲物を追う。

 

 ~~~

 

 ――長江、支流。

 蛇のように川面がうねる。巨獣のごとく唸る。

 いかな強固な軍船を用意したとて、そのような激流を踏破できるのは天下広しといえど孫家の兵だけであろう。

 少なくとも雪連はそういう自負のもと、みずからその軍船の首に立っていたが、それを否定するかのごとく荊南より脱した劉表軍の軍船が今彼女の視線の先に在る。荒波に揉まれながら逃げていく。

 

「蒋公奕……興覇とはまた別の川賊と聞いたことあるけれども……その胆力と操船技術はなかなかのものね」

 

 劉表を滅ぼした後、あるいは叶うならば調略にて、自分たちの陣営に招聘すべき人材として、雪蓮は自身の頭の内にその名を組み込んだ。

 

 だが、いかに彼女が勇敢な船頭であろうとも、すでに拿捕は時間の問題である。

 捕捉圏内に入った時、余裕さえ浮かべていた雪蓮の表情はにわかに剣呑なものとなり、そして軽く舌打ちした。

 

「姉様?」

 佐将であり、末妹である小蓮が問う。

「やられたわね」

 彼女に聞かせるまでもなく、そう呟いた。いかに敵に地の利や技術があろうとも、その航行は速すぎた。

 やがてあちらの船員の姿が確認できるようになると、それらの大半が偽装で、乗っているのは本船ふくめて数人の、おそらくは蒋欽自身とその部下であると知れた。

 

 かの水将とおぼしき少女と目が合った。

 おおよそ敵に向けるとも思えぬ、人懐こい笑みをニパッと華やがせた彼女は、そのまま部下とともに荒波の中に怖じることなく飛び込んでしまった。

 

 その豪快さとあどけなさは、「騙された」という悔しみもつい抜けてしまうというものだ。

 配下に弓を射させんとする弓腰姫(きゅうようき)を押しとどめ、雪蓮は濡れ髪を絞る。

 

「放っておきなさい。それよりも、敵の主力が道を逸れた。本命の逃走路……岳陽(がくよう)を中継して頼るのは、劉表のいる新野ではなく江夏。ほどなく劉表自身もそこに逃れることを見越してのことでしょうよ」

 

 理屈では野生の勘をもって、若き女虎は手近な湾岸への上陸を鋭く命じた。

 そして主を喪い沈みゆく船を眺めつつ、おのが未練を嗤うのだった。

 

 ~~~

 

 雨の中、あえて危険を冒して水路を突破する。

 ……そう見せかけんとする三成の策は、果たして奏功した。

 

 敵の追手であった孫策はその偽船に吊られて道を逸れた。この激流である。上陸するにも場所を選ぶだけでも相当の労力と時間を要するであろう。

 それを物見より知った三成はたしかな手ごたえとともに見えぬ位置で拳を作った。

 

 だが、感情を露呈させることなく、常の冷淡な官僚面にててきぱきと指示を飛ばす。

「敵は策に嵌った。だが油断はするな。先に示した順路に従い、当初の計画どおりに進め。行軍を速めよ」

 言葉に出して諫めほどのことではないにせよ、その物言いにいささかの懸念を覚えたのは、他ならぬ左近であった。

 

 なるほどここで計成れりと安堵し足を休めれば、稼いだ時間は瞬く間に埋められて捕捉される。一度下した足を立たせることは難しい。慌てて逃げ出すこともできずに間抜けなぬか喜びと終わることだろう。

 だが、足をにわかに急がせることができないにもまた確かであった。

 ぬかるみ、一目を嫌って整備されてもいない、崖と隣り合わせの悪路である。下手をすれば脱落者も出てくるおそれとてある。

 

 そこを無理にせっつかせれば、かえって混乱の元となりうるのだ。

 また殿の悪い癖が出た、と左近は思った。

 

 よく物事の本質を見抜き、人の感情も奥に踏み入る直截さを持ち、今の手配も、短期間でほぼ最善というべき事務処理を行い、遺漏というものがない。

 が、どうしたわけか微細な心遣いは不得手とする。理に奔る。あるいは自分に分かるのだから他人がそれを汲み取れて当たり前、という意識が他者との齟齬と軋轢を生むのか。

 

 そんな三成の机上の要求を吸い上げ、総軍をまとめるシグルド、中央を固めるランヌ、紫苑はよく調整を加えてくれる。

 よほど主の理想図と各将の抱える現実問題とが噛み合わなくなった場合は諌止するだろうが、今のところは上手くいっている。いや、行かせてくれている。

 

 ――だが、危難は味方の内にはなく、背後にあった。

 

「も、申し上げます!」

 一応の備として後背に置いていた灘の殿軍より報告が挙がったのは、もっとも峻厳な地に至った時のことであった。

「敵の追撃部隊に追いつかれました! ほどなくここに至りますっ!」

 

 

「なにっ」

 三成は思わず声を上ずらせた。

「孫策がもう追いついたのか!?」

 伝令はむずがる童子のごとく、烈しく首を横に振った。

 

 

「さにあらずっ! 敵総大将……孫堅ですっ! 程普、武田勝頼を伴って猛進してきます!!」

 

 

 ――この時三成ではなく、左近も己らのことにかかりきりで失念していたと言って良かった。

 

 

 

「まだまだ青いわ、餓鬼ども」

 敵の宗主こそが、後漢の終焉と乱世の台頭を象徴する、理外にして破格の英雄であることを。

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