執筆カロリーがデカいので、モチベと時間がないと露骨に更新間隔に出てしまいます。
死地であった。
逃げるにしても隘路ゆえにままならず、一歩でも道を踏み外せば断崖からの落下が待っている。
あるいは竹林にまぎれて逃れるすべもあるが、事前に示し合わせたわけではあるまいし、もはや再集結は望めまい。遠からず各個に捕捉されるか、でなければ落ち武者狩りに遭うのが関の山か。
一度は通った道ゆえに、三成にはそのことがよく分かっている。
虎は猛追する。
大半は長子孫策の追討軍に割いたはずだ。総大将とは思えぬほどのわずかな供回りのみ引き具し、奪い返した本拠長沙の鎮静をすべきところを別動隊として出陣した。
史実においてはその蛮勇さが災いして黄祖配下のなにがしかの落とした石に圧殺されたという無様な末路を迎えたわけだが、この場合は彼女の前途を遮るような策は用意されていない。
ただ猛々しき爪牙は、思うがままに蹂躙を為す。
「くっ、静まれ!! 迎撃は殿軍に任せ、各々はこの死地を早々に抜けることのみ専念せよ!」
そして悲しいかな、この状況を好機に転ぜられるほどに三成に応変の軍才はない。
シグルドも個人や部隊としての勇、人望はあるが、それでも機転が利くほうではなかった。
前後不覚に陥った軍は、各々の力量が問われることとなった。
ランヌは他の隊のことなど知ったことかと、軍全体よりもみずからの部隊の脱出を優先させた。だが、これこそが最適解であった。熾烈極まる強行軍を幾度となく付き合わされてきた男であるからこそ、ためらわずに断行できた。
付随していた魏延隊もまた、本能でその行動の正しさを嗅ぎ取り、追従していく。
次いでそれを知ったのは張燕の黒山賊である。
元より正式な主従関係ではなく、ただ客として身を寄せていただけであったから、仲間意識は薄い。
義よりも命を優先すべき時を、彼女もまたよく知っていた。
朝廷より討伐軍を繰り出された時と同じ。この賊徒どもにのみ関して言えば集合離散は自在であり、竹林の中にさっと身を飛び入れて逃げていった。
このように中軍は歯抜けとなったがゆえに、シグルドは自身がその穴埋めをせざるを得なかった。
否、彼
「……頼めるか?」
傍らに巨木のごとく佇む、前世よりの重臣に諮る。
その魁偉な容貌に見合わぬ、少年じみた微笑とともに答えた。
「こういう戦のために、俺がいるんですよ」
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主人に乞うて最後尾まで下がった左近の前に、緋縅の若武者が直槍片手に突っ込んでくるさまが見えた。
「すでに劉表公はそなた達を見捨てた! 果たすべき義理もあるまい! 大人しく投降せよっ」
言わずもがな、旧師が子息たる勝頼である。
この修羅場において吐く勧告は婦女子のごとく甘く、さりとて振るう槍撃に容赦はなく、鬼神のごとく追い立てていく。
先に己が吐いたのと同様、まったくもってその通りなのだが、主君がそれに肯じない限り、左近とて折れる道理はない。
すでに行軍の最中、すでに弾込めを終えている火縄を並べて猛進する勝頼に向けた。
孫呉の足が止まった。先に武陵間の戦にて幾度もなく彼らにとっての未知の兵器が威を振るったからであった。
だが、
「問題はない!」
と、勝頼は率いる馬廻りを叱咤する。
「いかな銃器であろうとこの雨では撃てぬ! こけおどしだ!」
と言うのだ。
「そうですかい」
左近はその音声を聞き、ニヤリとほくそ笑んだ。
「それじゃ、遠慮なく」
すでにして火縄に着火されていた銃は、その左近の声を合図に発せられた。
吐かれた弾丸が敵隊の最先端を潰す。勝頼もその中にいたが、未だ武運は絶えず、音に驚き棹立ちになった馬の鬣を数発かすめたのみで、間一髪まぬがれた。
左近はそのことに心のどこかで安堵していた。
要するに、火薬や火縄が湿気れば、撃てぬというのであろうが、それなら火縄を蝋で保護する。銃そのものを油紙で包むなどという工夫をすれば良いだけの話だ。
鉄砲の威力と弱みを知る勝頼なればこそ、通用した手と言えるだろう。
(とはいえ、勝頼さんの突進を防ぐためとは言えここで使っちまったのは、まずいね)
鉄砲の効果的な運用とは、数を揃えて火力で敵を制圧するか、でなければ不意を打ち将を狙うのが主流と言えるだろう。今回の場合、防水用にあつらえたのは数挺のみ。もはや手の内を明かした以上二度目が通じる相手ではあるまい。
軽い混乱を収拾すべく、勝頼が退く。
それに合わせ、左近は猛攻に耐えていた灘を自分たちと入れ替わりに後退させた。
これは中央の穴埋めをする意味合いも兼ねている。
だが、陣替えをしたのは向こうも同じで、しかも速い。
程普が大得物を引っ提げて入れ替わり様攻めてくる。
これは堅実かつこちらを逃さぬ、蛇のごとき戦ぶりを魅せてくれる。
左近自身は迎撃の指示もそこそこに、その程普の勇の相手をせねばならなくなった。
「はァい、左近殿。勝頼君から聞いてた通り、智勇に長けてもいるし、匂い立つような色男ぶりね」
「はッ、そいつはどうも」
「それでモノは相談なんだけれども……うちに来る気はない?」
「こいつはまた、情熱的なお誘いだ。正直に言って嫌いじゃない」
苦みを含んだ哄笑。だが互いに大太刀を振るうその腕に曇りはない。
互いの士魂を削り合うがごとき斬撃は重ねた経験や年齢、男女の隔たりさえもがない。追う者とそれを遮る者という立場の違いもあって、左近はこの細身の女武将相手に苦闘している。
そこに、横槍が入った。
どちらか一方に、ではない。
宝剣を引っ提げて孫堅が来た。だが左近の裏手よりも、シグルドみずからが剣を執ってその横に割って入った。
都合、四騎の英雄の斬り合いとなった。
乱戦となっては、戦術的、戦略的有利不利など意味を為さず、付き従う兵も彼らの激戦に介入するだけの力量はなく、自然同程度の相手と組み打つ形となり、その武華を飾り立てるだけの添え物としかならなかった。
「見た目のわりに存外やるじゃねぇか、優男」
伝法な口調で孫堅が敵将を称える。だが、それに応じる口舌を振るう余裕さえ、シグルドにはない。
白刃を介しての、単純な腕力の競り合い。だが対手は、男女の垣根を超えている。人の域さえも抜き出ている。ただ生命として、『虎』は勁かった。
獰猛さを隠さない笑み、気迫。それらとともに、跳ね上げた剣筋がシグルドの銀剣の真芯を打ち抜いた。
その余力でシグルドの半身が鞍の上で大きく揺らいだ。
――士としてその勇を認め合っている。
このような場所で犬死させるには惜しいとも思っている。
だがこの場における
躊躇なく、その隙を逃さず、返す切っ先がシグルドの喉元を抉らんとした。
だが、そこに緑の鉄塊が転がり込んできた。
否、緑の甲冑をまとった大漢である。
徒歩にて追いついてきた彼はその身と大盾をもって孫堅の剣戟を防ぎ、それを押し出す形で孫堅とシグルドの間合いを拡大させた。
その威もさることながら、孫堅の軍馬はまずその質量を恐れて後ずさった。
巨大な鉄球を思わせる、鎧われた肉体。
無骨な風貌の天頂に、根菜を思わせる若草色の短髪が特徴的に茂る。
「御無事で」
と彼は、主人の身を案じつつ、いかつい横顔を見せた。
「すまない、アーダン」
この地で再会した唯一無二の知己であり不抜の忠臣を、シグルドは全幅の信を込めて労った。