恋姫星霜譚   作:大島海峡

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孫堅(四):雨に願えば(三)

「うーん、だいぶ削れたなぁ」

 

 部隊とともに中軍へと引き下がった張郃こと灘はそう嘆いた。集団的生命の減少というよりは、物質の、彼女の芸術品の摩滅に対する嘆きに近かった。

 この発言ひとつとっても人としてはどうかとは思うが、元よりその非人間的な言動と美少女揃いのこの世界でもとりわけ抜きん出た容貌、独自の美的感覚があればこそ費耀を始め多くの私兵がこの気分屋を女神の如く尊崇して慕うのであろう。

 

「しっかし鬱陶しい雨ですねぇ」

 と、彼女は薄く貼り付いた服の襟のあたりを捲り上げた。

「いっそ、日乞いの舞でもしてみんなで龍神に祈りでもしますか」

 他の姫将と同様、女として、武人として絶対的な自身を持つ灘もその例に漏れず肢体の曲線が浮き出るような、扇情的な格好をしている。そのため、男どもとしては目のやり場に困り、またそのこと自体を彼女に気取られぬよう、それとなく視線を外した。

 ただ一人、費耀のみがそんな男衆の反応を冷ややかに見つつ

「そんなことより早く体勢を整える方が先だと思いますけど?」

 と常識的な物言いをした。

 

 その灘の目が俄かに眇められ、唇は固く引き結ばれた。

「まったく、乞われもしないのに荒神サマのご降臨ですよ」

 そう独語するや、手槍をなんの前触れも予告もなしに掲げ持って投げつけた。

 崖の向こう、あらぬ方向へ飛んでいくはずだったその穂先が、稲妻に打たれて宙へと弾け上がった。

 否、実際にはそこから頭より顕れんとした者が、迅雷の剣技を以て投槍を防いだのだった。

 

 浮いた得物を、片足跳びに掴み直した灘は、口端をやや歪に吊り上げたままに着地した。

 崖を鹿のごとく一息に上って現れたのは、敵の御曹司、孫伯符であった。

 なるほどたしかに、集団行動をとりながらの上陸よりも、大将ひとりが攻め上ればはるかに速かろう。

 残された方はたまったものではないが。

 

「兵も伴わずに単身奇襲上陸? それが、孫家次代の棟梁ですか」

「それこそが、孫家次代の棟梁よ」

 雨中、童女のごとく女荒神は笑う。

 

 灘には知り得ぬことではあったが、その孫策は元より奔放な娘であった。

 物見遊山気分で陣中を抜け出、ふらりと戻ってきたかと思えば敵の頭目の首を土産に持ち帰ることもしばしば。それゆえ周瑜や孫権にも驚き、呆れられ、老臣たちには口を酸くして文句を言われるが、その尋常のものではない蛮勇こそが彼女最大の持ち味と言えよう。

 

「で、あなたこそまず生きてたことが驚きなんだけれども……このまま劉表ごときに付き合えば、本当に命を落としかねないわよ。その将幹、今後は孫家のために活かしなさい」

 

 依願でも勧告でもない。厳然たる現実を前にして、まず断られるなどとは思っておらず、相手の意志など知ったことかと言わんばかりの勝者の傲岸。

 その態度が、それに媚びてここまで苦労を共にしてきた仲間を重要な局面で裏切って要所を明け渡すおのれ自身の仮想が、張郃にとりては、

 

「キレイな生き方じゃあ、ありませんね」

 

 ということだった。概念的な判断基準が全てだった。

 そう、と孫策は言った。灘がこぼした感想でその全てを汲んだ。

 二人の間には、雨気でしっとりとした、静かな空気が流れた。

 それでいて、その静寂に耐えかねてどちらともなく吹き出して、笑い合うかのような、妙に和やかな雰囲気でもあった。

 

 だが次の瞬間、彼女らは向け合ったのは刃であった。

 単身灘が孫策に挑みかかったのは、なまじの兵では障りとなり、かつ無駄な出血は彼女の芸術的戦術の損壊を意味するからだ。

 そして実際、両者の武技には、さほどの開きがあるわけではなかった。

 ただ差があるとすれば、一分の、だが絶対的な隔たりとなる天賦と血統であっただろう。

 だが、命運を分けたのはただ一合。

 

 泥を蹴っての跳躍。一度の交錯。数度の剣戟。

 互いの位置を入れ替えるようにして着地する。

 こうした場面において、一方の勝利に見えて、結果そちらの方が致命傷を負って崩れ落ちる、というのが作劇の定番だが、この場合はそうした溜めもなく勝敗は時を待たずに瞭然となった。

 

 地に足をつけた灘の首根より鮮血が噴き出で、留める術なく白い首元を朱に染めていく。

 やがて大きく肉体の均衡を崩した少女は、敵手が上がってきたその崖から転落し、ゴツゴツとしたその岩肌に頭や手足など数度となく激突し、不自然に身体を折り曲げさせられながら荒れ狂う濁流に飲み込まれていった。

 

「ゲェーッ、張郃将軍がやられた!」

「あわわ」

「ひぃーっ」

 

 と、灘への尊崇でのみで結束していた兵士たちは、その彼女の消失とともに武器を擲って逃亡を始めた。

 先と変わらぬ逃げ足の速さに、呆れる孫策雪蓮は追う気も失せて、立ち尽くした。

 が、雨に濡れる肌がジワリと痛みだし、押し拭うと袖口に赤い線が垂れている。

 

 頬の皮膚が、薄く裂けている。もう少し強く押し込まれていれば、口の中にまで達していたやも知れぬ。

 だが先には、一切傷など負わせられるような相手ではなかったはずだ。

 

(あの娘、成長している……)

 心中の呟きが過去形ではなかったことに、雪蓮は薄ら寒いものを覚えずにはいられなかった。

 

「まさかとは思うけど、流石にもう死んだわよね……?」

 

 ~~~

 

 アーダン、左近、シグルドが敵の出鼻をくじいたことで一時は体勢を立て直したかに見えた劉表軍ではあったが、中央を孫策軍、否孫策に中入りされて制圧されたことで、いよいよ軍隊の体を保てなくなった。

 

 張燕、ランヌ、張郃、魏延その他多くの将兵。

 次々の飛び込んでくる消息断絶の凶報を耳にし、目の当たりにするたび、三成の白い顔からはさらに血の気が抜けていき、意固地に引き結ばれた唇はさらに頑ななものとなっていた。

 訃報がないだけいくらか救いがある、という程度だった。

 

 残るは、三成、左近、シグルド、アーダン、そして劉表軍の生え抜きは黄忠のみとなっていて、

「……我ら、五人か……!」

 と、三成は愕然と呟きを落とした。

 

「……きっと、あの方たちなら大丈夫でしょう、三成殿」

 そう彼をねぎらったのは、紫苑である。

 彼女らから受けた言い分を信じるのなれば、戦乱から彼女らを助けんがために天より遣わされたのが所謂御遣いであろう。それが、逆に無用の乱を呼び込み、かつ慰められているのなら世話がない。

 

 だが、三成は申し訳なさに肩をすぼめるより、己の不甲斐なさに腹を立てる平懐者である。

 この場合も、バテレンでいうところの聖母のごとき、あるいは『おねね様』とはまた違った母性的な寛容や慈悲に甘えるよりも、それに反発する方を選んだ。

 

「余計な世話だ。戦場において敵味方の生死が発生するのは当然のこと。それにいちいち狼狽して足と思考を止めるなど、馬鹿のすることだ」

 

 老婆心は無用に願おう、という言葉を呑み込んだあたり、一応の気を遣った、とも言えなくもないだろうか。

 暗雲しか見えぬこの状況においては、その気丈さはむしろ苦笑と種と励みとなった。

 

 雨が上がり、岸にたどり着いた。

 すでに渡りをつけていた豪族や劉表派の海賊により船は確保されていたが、当初の見立てよりは少なった。だが、幸か不幸かこちらも兵数が減少しているゆえ、さしたる問題はなかった。

 

「殿、シグルドさん、紫苑さん」

 兵を船に移す最中に、にわかに左近が声をあげた。

 

「こうして足を止めて敵は遠からず、俺たちに迫るでしょう。そして、江陵から水軍を派して、前後より挟撃する算段が高い。……この左近に、それに抗するだけの策があります」

 かしこまったような物言いとともにそう献言するも、三成はいったんは懐疑的な眼差しを向けた。

 今更に小手先の戦術でどうこうできるような状況ではないと、それは構想を組み立てている左近自身がよくよく承知していることではないか。

 

 だが、その眼に冗談や虚妄の気配はない。自暴自棄となった様子もなく、ただただ静かに理性と闘志の輝きをたたえていた。

 そんな主君の疑わしげな様子を悟ったらしい、「おっと」と大振りの肩をすくめて飄々と言ってのける。

 

「詳しいことは秘中の秘ってやつなんで申せませんが、成果は挙げてみせますよ」

「その策とやらに必要なものは?」

 差配の合間にシグルドが問う。

「それほど多くはありません。まずシグルドさんのところからえりすぐりの勇士を百騎ばかり。どのみち馬が船戦じゃ使えないんです。ここで預けておいて損はないかと思いますがね……どうです?」

 敬語と砕けた口調の入り混じる、左近特有の調子と笑み。それをもってまるで詐欺師の講釈のごとく説く。

 

「勇士……というと当然俺のッ」

「いやぁ、アーダンさんは馬乗れないじゃないですか。大人しく総大将を守っててください」

 

 とそれとなく言ったが、あえて自負するとおり屈指の勇士であるアーダンを除外する理由が適当なあたりにも、三成はかすかな不安を覚えていた。

 どうにも既視感じみたものを覚えるが、それが形となる前に、左近は今度は三成に目を向けた。

 

「それと、殿のお覚悟が不可欠です」

「俺の、だと」

「はい。それも尋常ならざる覚悟ってやつです。人を信じて黙ってお任せになるという、殿には至難極まりないことをしてもらうことになりますので」

 ひどく抽象的な物言いだったが、主とも主とも思わぬ挑発めいた誘い文句でもあった。

 軽く自尊心を傷つけられた三成は、低い口調で答えた。

 

「……馬鹿にするな。子どもでもあるまいし、己に出来ることと出来ぬこととの区別はついている」

「良かった。それじゃあ、決まりですな」

 

 そうして話がいつの間にか落着することになり、左近の策が採用されることとなった。思わず要らざる口車に乗せられる形となってしまったが、異論を唱える者はいない。

 他に対案があるわけでもなく、これ以上事態が悪化することもなかろうという見通しからだった。

 

 精鋭騎馬隊とともに左近の姿が消えたのは、船が岸を離れたあたりからであった。

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