恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉表(五):柿喰らい

 一時とは言え主君の命を危うくさせられた孫家の追撃は、熾烈を極めた。

 左近の挺身もあって辛くも江上の危機を脱しながらも、孫尚香の軍もそこに合流して三方より追い立てられた。

 船は揺れ、もはや我が身を支える気力さえなかった三成はそのまま水中に転覆。それを救助する余裕が他の者にはなく、彼はあえなく網によって、漁をされるがごとくに絡め取られた。

 

 虜囚となったその身柄が投じられたのは、襄陽である。

 かつてこの地に降り立った時は天の御遣いとやらとして国賓がごとくの、分不相応な待遇を受けたが、今は石牢の中である。

 

 やや湿り気を帯びた暗い室内に、一応の礼節を以てだが投獄された三成は、そのまま何の表情もなく呆然と虚空を見据えていた。

 

「……捕まったのか、石田」

 

 隣の牢より、声が聞こえた。

 覚えのある声。魏延……焔耶の声である。

 だが気配があったのはそれのみで、他の者が捕えられている様子はない。

 他は脱したか潜伏したか。あるいは討たれたか。

 だがそのことを詳らかに問うことさえ、今の三成には億劫であった。

 

「無念だ……っ、無念ではある、だが!」

 だが、暗闇の中の孤独というのは、犬猿の仲の者相手にさえ饒舌になるらしい。尋ねもしないのに、独語にも似た調子で表明する。

 

「ワタシにはまだ力が足りない。孫家の武にはまだ遠い! だからヤツらの下で牙を研ぐ……いずれその喉笛に食らいついて我が悔恨を晴らすその瞬間まで……っ」

 暗がりに思い描く焔耶の双眸が、その真名のごとくに燃え盛る。

 

「キサマはどうする」

 三成は一言も答えなかった。

 

 〜〜〜

 

 その数日して後、焔耶が出獄して孫軍に列した。互いに別辞はなかった。

 が、三成の下へも孫家の者らが面会には来た。

 孫権のように冷ややかに一瞥するのみの者もいた。御大将とあれほどの激戦を繰り広げた島左近の主君とは何者かと興味本位に覗き見る者もあった。

 江陵城を売り渡しあっさり鞍替えした潘璋が、ニヤニヤと笑いながら無言の揶揄を送った。

 

 だがいずれにも三成は反応することはせず、また供された食事にもろくに手をつけることはなかった。

 一方で訪問者たちも三成に対し強いて臣従を求めることはしなかったし、刑場の露とすることもしなかった。

 

 言葉らしい言葉をかけたのは、武田勝頼である。

 同じ世界の住人。だが、かつて同じ組下を持っていたということと、天下の分け目の決戦の敗者という以外に共通すべき点はない。

 

「お前があの左近の主君……だと?」

 向こうとしても、織田の旧臣のそのまた陪臣に、好意的に接する理由などあるまい。また、武士の転換期に取り残された男にとって、優れた武人より格上に立つ文治の輩など、理解の埒外にある人種であろう。

 

 何者と見比べたのかは、語らずとも瞭然であった。それは武田信玄公と比べれば、さぞ見劣りするだろう。

 

「お前のような者などに、左近は過ぎたる者であった」

「貴様が言えた義理か、諏訪(すわ)四郎(しろう)

「…………否定はしない。私にもまた、あの男は過ぎた者だった。だから突き放した」

 

 ようやくにして開いた口は、やはり辛辣な正論であった。

 苦々しげな表情で首を振った勝頼は、そのままじっと三成の相貌を見返していた。

 

「殺すなら殺せ。貴様の見るところの『愚か者』に時間と糧食を費やすことは、互いにとって不毛となるばかりだ」

 

 三成に過ぎた者、それは他ならぬ三成自身がよく知っていた。精神の去就を定かにせず、つまらぬ意地でまたあの男を殺してしまった。

 

 それについても、勝頼はかぶりを振った。

 

「そうはいかぬ。お前だけは決して殺さず、血肉の一片残さず孫家のために使い尽くせと炎蓮殿……孫堅様のお達しだ。張昭殿なども、すでにお前の働きを勘定に入れて動いている」

「……勝手な話だ。迷惑極まる」

「あの方々は、そういうものなのだ」

 

 自分で痛感していることらしい。きれいな顔に、やや疲れたような苦笑が奔る。

 

「だが、私としてもお前のような者、強いて求めているわけではない。荊州は文化の地。計数に優れた人材など数多くいる。そのまま朽ちていくのが望みというのが、そうすれば良かろう」

「自分の言うことの矛盾にも気づけぬのか、ならば何故俺を求める?」

 

 複雑そうな表情のまま、勝頼は返答せずに踵を返した。

 

 〜〜〜

 

 その矛盾と表情の訳を教えられたのは、それから間もなくのことであった。

 そのことを伝えたのは張子布なる老臣で、一見して小娘のようでさえある小柄な女によれば、

 

「それが、あの左近とやらの遺言じゃった」

 

 とのことだ。

 左近、事切れる寸前に孫文台の耳元に囁いた。

 

「我が主人石田三成。狷介にして正論家、融通の効かないところは数多し。されどその吏才と豪胆さ、何より義を重んじ家や家族を想う心、天下の傑になんら劣るところなし。今後天下に邁進する孫家に不可欠な人材にして、何卒お引き立て下さいますよう」

 

 などと、頼みもせぬことを。

 彼の最後の忠言は、誇り高き武人同士の、守るべき約定となった。

 ゆえに孫家は血眼になって三成を追い回し、そして捕縛したのだそうだ。

 

「これが最後の食事じゃ、あとは好きにせよとの、大殿よりのお達しじゃ。……あの者の本懐は、お主の立身出世ではなく、ただ生きてほしいということであろうしの」

 強く唇を噛み締める三成を意図的に平坦な口調で、張昭は言った。

 

 牢番より差し入れられたその膳に、干柿が添えられている。

 なんの皮肉かと眉間の皺をさらに寄せる三成ではあったが、果たしてこの時代に干柿があったのかという疑問も生じる。

 

 その視線を追いながら、張昭は問うた。

 

「お主、葦名(あしな)一心(いっしん)という老人を知っておるか?」

「……知らぬ」

「そうか。名の響きが似ておるゆえ、あるいは知己かとも思うたのじゃがな」

 

 それが何者かは、時を待たずして語られた。

 

「大殿がお若き頃、ふらりとこの地に立ち寄ったのが一心殿じゃった。尋常ならざる剣気をまとい、大酒喰らいで豪放磊落。ゆえにご両人ともひどくウマが合うたのじゃが、これまたふらりと益州へと足を運び、それより先は我らも知らぬ……が、思えばあのご老体は、時期外れに落ちてきた天の御遣いであったのじゃろう」

 

 まこと惜しい者を見逃した惜しんでいるのか。あるいはその老人が逗留していたその日々が楽しかったものか。

 くれなずむ夕陽差し込む牢の中でも、その瞳が細められたのが分かった。

 

「その干柿(柿餅)は、その御仁が伝えたものよ。曰く『我が郷里においては柿は血となり肉となる。たとえ落柿とて粗略に扱うべからず』とな。……お主とて、その落柿じゃて」

 

 そう言い切って、張昭はゆるりと上衣をたなびかせて背を翻した。

 

「我ら孫家、早生の青柿だろうと渋柿だろうと余さず愛でて使い尽くす。劉表のごとく、飾り立てるだけ飾り立てて、腐れば切り捨てるがごとき真似は決してせぬ」

 

 温かな、それでいて自身の感情を押し付けがましくしない言葉。

 夕闇の中に張昭は消えた。

 牢の口は開け放たれたままである。

 

 残された三成はじっと『最後の晩餐』へと視線を落とした。

 そして、故人を、生者を想う。

 今際の際まで自分の今後を案じた左近。その左近の最後の願いを受けつつも強制はせず、あくまで本人の意思を尊重して精神の恢復を求めた孫呉の面々。

 そのどちらにしても。

 

「……余計な、世話だ」

 

 底まで沈んだ、だが揺るがぬ調子で三成は地に吐き捨てた。

 だが無駄には出来ぬ。柿は血となり肉となる。

 左近の命を二度も喰らったこの命脈、容易に絶つこと能わず。

 たとえそれが一時の痰の毒となろうとも、生きねばならない。

 

 三成は柿に手を取り、翌日牢を出た。

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