数年前。
その少女は、恐らく今もではあるが、血気と義侠心を華奢なその身体に満ち溢れさせた、優れた剣士であった。
乱れ始めた世に、跋扈する凶徒どもに憤り、一対の姉妹剣をもって正義を成さんと意気込んでいた。
だが、悪貨が良貨を逐う世情である。
純烈の気概を以て世直しせんとした彼女ではあったが現実は如何ともしがたく非情であり、信じていた者の奸計に嵌り、その時窮地に陥っていた。
「まさか……あんた達に売られるなんてね!」
と責める少女に、仲間であった侠者……否凶徒どもは、下卑た笑いをめいめいの唇に浮かべてにじり寄る。
すでに袋小路の壁際。前方にはすでに待ち受けていた増援。ここに至るまでにすでに幾重もの刺客を斬り払ってきた双剣は拭う余裕もなく切れ味を失っていた。
「悪いね頭、今の世は力こそモノを言うのさ」
「あんたのようにやれ正義や侠気なんぞ言ってたら、時代に押しつぶされちまわぁな!」
そううそぶいた彼らが、物量に頼り押し寄せてくる。
かすかに残った情と疲労とが、彼女の刃を鈍らせていた。
このままでは、いずれは殺傷、ともすれば女の尊厳を徹底的に踏みにじられていたことだろう。
だがそこに、救いの主が現れた。
「誰デェ!?」
自身らの背後、にわかに伸びあがった影を認め、凶漢どもは振り返った。
そこに屹立していたのは、強固な肉体である。
引き締まった筋肉。細くも、その巨体を支えるに十分な、無駄なく鍛え上げられた野趣あふれる脚。
それらを覆う硬い皮膚。
鋭さと涼やかさを兼備した眼光に、すらりと突き出た鼻先。
――そして、頭部より突き出た、白亜の両角。
牛である。
並の農耕牛とは比較にならない、見事な牛がそこにはあった。
「なんでぇ、牛かよ」
「まぁ良いや。とっとと済ませてソイツも喰らっちまおうぜ」
最初こそ、その尋常ならざる体躯に面食らったようではあったが、所詮は畜生と見切りをつけて、賊はまず目の前の少女をこそ始末してしまおうと意識を戻した。
だが、その見積もりは大いに誤りであった。否、そういう認識であっても、彼らを迂闊と嘲ることは何人にも出来まい。
誰が、信じられようか。
――その牛が、突如として二足で直立して駆け出したなどと。
「なっ!?」
その怒涛の足音に気が付いた時にはもう遅し。
顧みた賊の横面を後肢の蹄が強打し、哀れ彼は少女を素通りして壁に激突した。
「こ、このっ」
動揺はそのままに、他の賊が刃を振りかざす。
だがその刃が牛皮を切り裂くより速く、牛は前肢で彼らの手首を連打し、刃を取りこぼし、あるいは上腕をねじり上げて無力化していく。
その体捌きの無駄のなさは、思わず少女が見惚れるほどではあったが、同時に疑問も沸き立つ。
――何故この牛は、自身が生まれついてから持ち合わせるその『武器』を用いないのか?
と。
だが少女を庇うべく背中合わせになり、その涼しい眼と視線が合った瞬間、その真意を悟った。
――外道相手に、表道具は用いぬ。
という、その誇り高さを。
その清さ、正しさをもって、少女もまた一度は萎えていた勇を取り戻した。
そして並び立ち、反転して無頼の者どもを一気に駆逐していった。
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「……というのが、
「あの、すんませんお頭……逃げる途中で脳天ぶつけたんスか?」
劉表軍より離脱した後、安全を確認した後の野営時である。
ようやく火も使えるようになり、それを頼りにぽつぽつと部下も戻ってきていた。
そんな折の、談話である。
「なによー、アンタらが聞きたいっていうから答えてやったのに」
「いや、なんでいつもお頭の席にやたらデカイ牛が股開いて座ってんだろうって常々思ってましたけど。劉虞攻めの際、流れ矢当たってめっちゃ悲しんでましたし」
そう返したのは今の団員の中では最古参のひとりである
彼を含めて黒山賊は口だったり顔だったりが悪く、学はなかったり粗暴であったりする。
だがかつてのように、猪燕……もとい張燕黒羽は無暗に団員を増やすことはせず、信の置ける人物ばかりを拾い上げていた。
その彼でも、『なんか偉そうにふんぞり返ってる牛』については何も知らず、ただただ『お頭のヘンテコな愛玩物』という認識であった。
話を聞き終えた眭固は、げんなりした表情で、焚火を見つめている。
燃える薪の近くに置かれた串と肉がある。
「つーか、そもそもオレら今からその牛をかっ捌いて食おうってんですけど」
「じゃあどうしてそんなときに牛角サマについて訊いたのさ」
「だから牛食おうって時だからなんとなしに聞いたんスよ!」
「これは牛角サマじゃあないでしょうっ!? こんな食われるか畑耕すかしか能のない牛と一緒にしないでよっ」
そこは譲れぬ部分があるらしい。
憤然として言い返すや、牛角への憧憬を語っていたはずの本人が平然とそれを同じ種の肉を串焼きにして食っているのである。
それでも、眭固の強面から発せられる強烈な疑念の意味はさすがに悟り得るらしい。
奥歯で筋張った肉を咀嚼しながら、答えた。
「人が人を喰らう世でしょうよ。たとえ牛でも尊敬に値する方はいる。この乱世に大事なのは個々に力があるか、いかな才を持ちそれを発揮させるか。人か畜生か、貴人か賊か、御遣いか在地の人材か、そんなことは関係ないわよ」
はぁ、と生返事を返す眭固はやはり、得心がいかぬ様子ではあった。
「結局、あいつらの言い分は乱暴な身勝手な自己正当化ではあっても、まぁ正しかったわけか」
肉を腹に収めた後、黒羽は吐息をついた。
「この剣も、だいぶ錆びが取れなくなってきたなぁ」
と、双剣の片割れを腰間より抜きつつ嘆く。
なるほど彼女や張牛角とともに乱世を駆け抜けたと思われるその剣は、十分に手入れが行き届き、まだ現役とは言えるだろうが、幾人も斬ったがために刃こぼれもひどく、火を照り返してもやや剣光は濁っている。
「
そう言い放つや、少女は剣を闇への投げ放った。
渇、と音。太い樹木の幹に、剣先が突き立つ。
むろん、この問いは眭固らに向けられたものではなく、樹間に潜む者へと向けられたものである。
そこにおいて敵襲かといきり立つ部下たちを、眭固は一喝して静まらせた。
孫家や敗残兵狩りであれば、とうに自分たちの命はない。接近して気配など沸いて出さずとも、この灯火を目印に矢を射かければ良い。
そもそも、気配は二つである。相当に手練れであろうが、集まりつつある黒山賊全員を相手取るには、圧倒的に不足している。
「突然の訪問をお許しください、張燕殿」
闇の帳を開いて先に声をあげたのは、薄手の鎧をまとって武人然とした女である。
いや、まだ十分に少女と言える年頃であろう。そうとは見えなかったのは、しっかりと据わった腰つきと、鋭い眼差し……そしてその若い肌に無数についた傷跡ゆえであろう。
何故だか本能的に、その精悍な顔立ち、というよりも存在そのものに、眭固は腰の辺りが寒くなる心地がした。
「
がっしりと力強い拱手とともに名乗った小娘にへぇ、と黒羽は夜目を眇めた。
「ずっと盗み見ていたというわけ? で、品定めしたうえでの、ご用の向きは?」
愛想笑いさえ浮かべず、楽文謙は少し脇に逸れた。
用件は、もうひとりから切り出すというのであろう。そしておそらくは、それは天の御遣い。過剰な警戒を誘わないがために、この大陸出身であろう彼女を先に出して安心させたのであろう。
そしてその思惑は、たしかに道理であった。
なぜなら、その天の御遣いは彼女らが知る何者よりも異質であったのだから。
男か女かさえも判然としない、小柄で美貌の若者である。そこまではまだ驚嘆に値しない。絶世の美男と言えば同じ陣にいた三成やシグルドなども同様と言えよう。
だが、それは明確に異なる部分がある。
黒髪の隙間から突出した、耳にあたる部分。そこは三角の形状をとり、かつ白い体毛がびっしりと生えそろって覆っている。
それは人のモノに非ず。獣の、犬のそれである。
黒山の面々はどよめく。黒羽を驚嘆する。
「……人間に、獣の耳が……!?」
「いやアンタ二足歩行する牛と戦ってたんでしょーがっ!!」
……驚嘆はしたが、それが頭目の方が激しかったことには、眭固は思わず突っ込まざるをえなかった。
愛くるしい顔立ちとは裏腹に、どこか無機質な表情は、黒羽の発言に気分を害したかそうでないかさえ判別がつかない。ただ突き立って黒羽の剣を抜くや、鮮やかな手並で持ち主へと投げ返す。
敵意こそないが、精妙かつ鋭い。
収まらぬ動揺もそこそこにそれを難なく掴み取った黒羽に、容貌同様に愛らしく、だが平坦な声音とともに本題を切り出してきた。
「従者シチーリヤと申します。我が主が客人として皆様を迎え入れたいと南海にてお待ちです。是非とも、ご同道いただけないでしょうか」