「張将軍ーッ」
「灘様!」
劉表軍より文字通り落伍した自分たちの主を捜して、その部下は山間の河に沿って連日連夜渡り歩いていた。
その行軍指揮を執る費耀は、底より天を仰ぎ見た。その雲の高さで、人の肉体では如何ともしがたい高低差を思い知る。
あの崖から落ちては、よもや生存は絶望的であろう。せめてそれならば亡骸だけでもと、汗をぬぐい上官の身体を捜すのだ。
と言ってもそれさえも、もはやマトモな状態で残っているか。
(ようやく、というところであったのに)
孫策に鎧袖一触に敗れて後、あの気分屋な灘が血のにじむような研鑽を積んだのを、間近で見ていて費耀は知っている。身体能力の向上はそのまま将器の向上にも通じ、以前のような軽はずみさは薄れ、代わりその指揮にはさらなる粘り強さが加わった。
今回の殿軍でも、彼女と自分たちの奮戦がなければ劉表軍はとうに猛虎の牙に食い破られていただろう。
そう、名将張郃の器量は、ここから天下に問われるはずであったのに。
「費耀さん!」
先遣の兵が切迫した様子で舞い戻ってきたのを見て、
「見つけたかっ」
と費耀は直感をそのまま口にして問うた。
部下が首肯し、彼をその地点にまで誘導する。
果たして、彼女の姿はそこに在った。
そのまま川面に転落することなく、その巨岩の表面に接したのだろう。
大の字となって、少女の身柄は多量の血液を岩盤に散らし、力なく臥していた。
まだうら若き、それこそ男さえ知らぬような娘の非業の最期に、嘆く者もいた。その美華を無慈悲に摘んだ孫策への恨み言を垂れる将士もいた。
だが、費耀の胸に去来したのは「らしい」という感想であった。涙ぐみつつも、笑みさえこぼれる。
同じく悲しみつつも怪訝に見返す諸兵に、彼は震える指で彼女の死を示した。
「見ろ……飛び散った血が、あたかも華のようでさえあるじゃあないか」
なるほど彼の指摘の通り、血の大輪が、彼女を中心として咲いている。
自身の血を、生きた証を塗料として、人生の閉幕を演出する。独特の美的感覚を持ちつつもついぞそれを発揮する機に恵まれなかった美将としては、このうえない芸術であったことだろう。
とはいえ、そのまま捨て置くわけにもいくまい。
費耀は彼女の亡骸を抱え起こすべく、同じ岩盤に手をかけ、顔を持ち上げた。
「チョコさん復活!!」
「へぶっ!?」
費耀はピンと伸びあがった足裏に強打されてそのまま蹴落とされた。
元気いっぱいに起き上がった張郃こと灘は、上下の半身を交互に屈伸させつつ、
「あー、死ぬかと思いました」
などと呑気に宣う。そこでようやく、自身を取り巻く部下たちと、逆に川岸に後頭部を打ちつけて伸びている費耀の存在に気が付いた。
「ってあれ? 何やってんですこんな場所で」
「CHOKOォォーッ」
「うわあああ、CHOKOが生きてるゥーッ」
「いや、なんで呼び捨て?」
錯乱のあまり張郃に奇妙な発言をする者あまた在り。
とにもかくにも当惑しつつも歓ぶ兵士たちに、酌然としてなさげに小首を傾げ、そのまま座り直して左右を見渡す。
「これはこれは……さすがは魏の五大将、張将軍。大敗を喫したと言えども見事な復活劇ですな」
その眼差しが、一角を捉えた。
砂利を、精巧に編まれた、見慣れぬ茶革の沓で踏みにじり、男が侵入してきた。
異装の外套、異相の広い額。冷たい容貌に好奇を滲ませつつ、接近してくる。
危機に至れば、さんざん死線をくぐり抜けてきた灘以下の将兵の動きは速い。号令も無しに彼女を中心とした円陣が組まれた。
「チョコさんを妙な呼び名で褒めるのは、はてさてどちら様ですか?」
と問い質す灘に、
「西へと移る者」
と男はまず短く切るようにして答えた。
嗅覚にて分かる。
男に敵意はない。が、利用をする肚を隠そうともしていない。
何より……この空気の違い。異物感は……天の御遣い。
射程のぎりぎり外の範囲で、男は踵を並べるようにして立ち止まって背を反らした。
「天の御遣い、志々雄真実が懐刀、『百識』の方治。西征の道中、張将軍にお会いできたのは何よりの僥倖。これより、貴殿に相応しき舞台を用意させていただく」