恋姫星霜譚   作:大島海峡

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韓遂(二):総て是玉関の情(後)

「師、ご無事ですかっ、師!」

 

 本陣一帯の安全を確保するや、赫光は一番に踊り込んで半兵衛の落下地点のあたりをすぐさま捜索した。

 天の御遣いと言えど、その高さまで自ら舞い上がったといえど、高順と交錯の後の急速な落下速度は尋常のものではない。

 

 急く心臓を抑えつつ駆けずり回る彼女の頭上から、

 

「こっちこっち」

 と、戦場には場違いな、のほほんとした声が聞こえて来た。

 仰ぎ見れば、枯れ木の枝に半兵衛が腰周りを絡め取られている。

 

 一先ずは目立った傷もなく、五体満足なその姿を認めて安堵の息を漏らす。韓遂が死んでも、ここまで動揺することはないだろう。

 

「心配しましたよ。遠目であの高順と一騎打ちとなった時には……ともあれ、ご無事で何よりです」

「ごめんごめん。いやー、次からは居場所を分かってもらえるよう鼓でも打つことにするかな」

 

 などと本気か冗談か分からない調子で言う。

 だが、そこまで彼を追い詰めてしまったのは、ひとえに前線を指揮していた自分たちの不手際や甘さのゆえだ。

 

「ニ張の隊が、突破されました。馬家本隊にも離脱を許したようです」

 

 半兵衛は枝の間から抜け出ると、ひらりと飛び上がった。

 それを地上で万全の姿勢で抱き止めた赫光はしかし、申し訳なさでいっぱいだった。

 

「すみません……せっかくここまで膳立てしていただきながら、力及ばず」

 

 そして半兵衛を下ろすと、あらためて周囲の状況を目視する。

 復帰した馬超の参入は特に予想外の出来事で、長安より急行してきたと思われる彼女率いる決死隊は、たまさか、ここに行き当たり、孤軍奮闘する降将を救ったのだろう。

 先の失敗で懲りたらしく必要以上のことはせず、真っ直ぐに斬り行ったのち、また同じ道をまっすぐに脱していった。

 

 彼女たちと、そしてあの細目の御遣いが方々に切り開いた血路は、それこそ幾重にも、紅く広げた錦の帯のようでさえあった。

 

「なに言ってんの、上出来だよ」

 あっけらかんと、軍師は答えた。

 

「でも、韓遂……いえ金蘭さまは、殲滅をお命じに」

「それは金蘭さんの考え。俺としては、これからも馬騰さんたちには曹操に董卓に袁術と、抑え役になってもらう程度の戦力を残してもらわなくちゃ困るんだよ」

 

 その弁は果たして、誰にも打ち明けていなかった真の狙いであったのか。それとも弟子の不始末を擁護するためだけの方便なのか。

 ひとつ確かなことは、事の真偽は別として、自分は師に託され、全力でその策を実行に移した。そのうえで、当初の目的を果たせなかった。その無念さのみである。

 

 気落ちする少女に、半兵衛は時を見計らうがごとくに、こう訓示を垂れた。

 

「百戦百勝は、善の善なるものにあらず」

 孫氏謀攻篇。

「……戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」

 幾度となく誦じた舌が、歌い合すがごとくに続きを紡ぐ。

 

「つまりはそういうこと。同郷人で潰し合っても、得なんてないよ。それよりも大切なのは人の心を治めること……でしょ?」

 

 この半兵衛の問いかけに、柔らかな眼差しに、少女は自らの背を顧みる。そして、そこに込められた二重の意味を思い知る。

 

 まず勢力においては、生乾きの領内を固める必要があり、この勝利は馬家を締め出し韓遂の声望を高めるための手段であった。

 

 そして未完の大器、姜伯約に向けられた問いかけ。

 いかな俊英が天下の大局を描こうとも、将兵に心情を寄り添わなければ所詮は画餅。今回の自分の動向が、それであった。そも、張翼張嶷と呼び分けずニ張などと一括りに語るその口が、奢りでなくて何なのか。

 

 その未熟さを知ればこそ、師匠はあえて失敗を予期しつつも見送ったのであろう。

 語らう必要がある。ともに高め合う必要がある。

 張翼、張嶷、王平、馬忠。

 続々と集まって来る、新時代の星々たちと。

 

 息を吸う赫光の横隔膜を、半兵衛の指先が突いた。

 思いもよらぬ時と場所に受けた奇襲に、ひゃあっと頓狂な声をあげる。

 それを聞きつけた四将が驚きつつもやがて大笑いし、和んだ空気の中で怨みを込めて師を睨むと、彼は少年然とした、いたずらっぽい笑みとともに手を差し伸べた。

 

「帰ろうか、俺たちの天水(うち)に」

 

 韓遂に徴収された拠点。西域への交通路。

 自分の生地。母の居る場所。そして……夜天より振り落とされた師と、初めて出逢った運命の地。

 

「はいっ」

 天水の麒麟児は、その日初めて年相応の笑みを称えた。

 

 ~~~

 

 土煙を巻き上げて、分散した騎兵が東へ転身していく。

 対した時よりいくらか窄んだ義姉の軍容を、金蘭は高みより望んだ。

 

「あがけ、あがけ」

 

 投げた言葉は、ただそれのみ。

 だがそこには種々様々な情感と、韻があった。

 

 そんな主の耳目を寄すべく、成公英は意図的に咳を払った。

 

「殿に撫で斬りと仰せつかりながらも、主要な将どころか手負いの馬超さえも取りこぼすこの体たらく。いかな天の御遣いといえども、相応の処罰は必要でしょう」

「相応の処罰? 実数で上回る相手に連戦を強いられつつ、ほぼ無傷で傍観している我ら本隊の援けも得られないまま勝利する。これを罰する軍紀があるのか?」

 

 答えたのは、閻行であった。

 青銅色の髪を持つ武人は、その競り合いを間近で見させられながらも、そして馬超と再戦の機を得られながらもついに参入を許されなかったのが、大いに不満であるらしい。そしてその矛先は、成公英という分かりやすい嫌悪の対象へと集中していた。

 

「金蘭殿、獅子奮迅の働きを見せた客人たちか、ろくに動きもしないで嫉妬に駆られて大言を吐くのみの無能な軍師、罰せられるべきはどっちだ?」

「黙れ、まぐれ勝ちで馬超に一勝した程度で、殿と対等な口をきける立場でないことをわきまえなさい」

「おう利くともさ。あたしがこっちに就いたのは、ひとえに翠との再戦のためだけよ。あんたらの家臣になったおぼえはない」

 

 武人特有の傲然さでそう言い切った彼女に、成公英は苦い顔を隠さない。

 途端に剣呑な気を飛ばし合う両者の合間を、身を翻した金蘭が素通りした。

 

転輪(てんりん)

「はっ」

 真名で呼ばれた成公英は、葡萄色の頭髪と伸びあがった背を反らすようにして居住まいを正した。

 

「つまらんなぁ、お前だけは」

 嘲るがごとく、蔑むがごとく、憐れむがごとくに、主は眇を作ってみせる。

 転輪は反論などしない。ただ奥歯を噛みしめ、首を垂れるのみである。

 

 何とでも言え。

(わたしは間違っていない。ただ、殿の悪癖が過ぎるだけだ)

 相互不信のうえ、背を刺し合うような関係など、健全な主従の間柄ではない。それを是とするならば、この世は闇ではないか。

 

「帰るぞ」

 とだけ短く言い切って、反逆の涼王は帰郷の途に就いた。

 

 かくして涼州の戦は終わった。

 だが、董卓、馬騰、韓遂という、乱世の産み落とした巨影に涼州の人心は惑乱して定まることを知らず、かと言って衰退の道をひた進む漢朝に帰順などもってのほかであり、以後も国内外に常にくすぶる火種をもたらし続ける。

 

 あるいはそれは、関西という異国と都とをつなぐ要衝の、いわば宿命というべきなのかもしれない。

 後世、変わらず戦禍に呑まれこの地の民は嘆き、詩仙は謳う。

 

 長安一片月

(長安の空に月が浮かぶ)

 萬戸衣擣聲

(家々では絹を打ち)

 秋風吹不盡

(秋風は尽きることなど吹き渡る)

 總是玉關情

(その風があらゆる玉関の想いを運ぶ)

 何日胡虜平

(いつの日か夷を討ち平らげて)

 良人遠征罷

(あの人も遠く征旅より還ってくるだろうか)

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