袁紹が這々の体にて北海に逃げ帰ったところを、河北をほぼ手中に収めた公孫賛軍は見逃さなかった。
先にはその東進を阻んでいた教経の死んだことで苦戦もなく、
だが、その軍中に思いもかけぬ震撼が奔った。
「なにっ、曹操が動いた!?」
「はい、濮陽を突破し、渡河の準備を進めております。ほどなく、鄴都へ攻め込むのでしょう」
袁紹に止めを刺すべく陣頭に立って北海を攻囲していた公孫賛は、その報を触れた時に愕然としたようだった。
田豫もとい奏鳴としては案のうちであった。警戒も表明した。だが返事は「その可能性は薄い」というものだった。
だが、そうならないだろうという客観的判断と、そうあって欲しくないという逃亡的願望は、自分では容易に区別のつき難いものの似て非なるものだ。
そして現実は得てしてこういった願望とは逆をいくものだ。
もっとも、奏鳴としては白蓮の母親ではないので、そこまで訓戒を垂れて諌める義理はない。内心煙たがれていることも知っている。
良識的ではあっても徹頭徹尾武人である公孫白珪は、武断的思考を持つ天の御遣いを信任し切り、趙雲とは距離を取りつつもその武勇に頼むことが多い。
事実、彼らの立案は今のところ順調だった。過ぎたるほどに。つい今しがたまでは。
とは言え、彼らが大きな失態をしたわけではなく、それに小言を言えば、公孫賛の目には、すでに自分は、口先ばかりで己は動かぬ横着者だの不平屋だのとしか映らないだろう。
だから、もはや忠言無用。
無駄な思慮も言動も切り捨てる。それこそが『氷の頭脳』という、賛否の入り混じる人物評の所以だ。
「ど、どんな名分を以て、曹操はこちらに宣戦布告したんだ?」
「ひとつには、『旧友』袁紹を救わんがためと」
「あいつらつい先ごろまで争っていただろう!?」
しかし自分がもたらした情報ということもあり、求められたことに対しては雪女は返答した。
たとえそれが激しい怒りを呼び込むことになろうとも。
「そしてもうひとつには、皇族であり次期の帝とも目されていた劉虞殿の死に対し責任を求める、と」
「劉虞! ……劉虞劉虞劉虞ッ!」
死してもなお憎悪有り余る、そして今また己を縛る怨敵の名に、公孫賛は顔を赤くして怒鳴り散らした。
「いつまで奴に縛られてなくてはならないんだ!? どいつもこいつも、都合よくあいつの名を使って私ばかり責め立てて……どうして私ばかりこんな目に遭わなくてはならないんだ!? 私はただ、幽州の静謐がために戦ってただけだ!」
布陣図に拳を叩きつけ、らしくもない赫怒を見せる。
それを冷ややかに見遣り、黒衣の色男が鼻を鳴らす。
「今更殺ってしまったものを嘆いても仕方なかろう」
「殺してなどいないッ!! それはお前の調べで証明されただろう、
土方、と呼ばれたのは抜き身の如き、独立した硬質な美しさを持つ成人男性である。
「だからその真偽に拘っていても意味などないと言っている。問題は、それを理由に黄河を渡ろうとしている奴らをどう捌くかだ」
切長の目を鋭く雇用者へと投げかける。その軍紀の厳しさから部下の兵たちからは鬼神の如く畏敬される男の視線である。敵意がなくとも、白蓮を萎縮させるには充分だった。とは言え、これではどちらが主従か分からぬ。
「……謂れなきことで相手を貶め、大義を我が手にせんとする。この国においてもそれは変わりなきか」
鬼、と言えばひとつ置いて右にいる大男もそれ相応の形容であろう。
仏僧を自称してはいるが、恐ろしい形相に、物々しい大得物。甲冑と法衣に覆われた屈強な肉体。とても常人のそれではない。
それが隣にいる優男の郎党というのだから、傍目には主従関係の成り立ちとはよく分からないものである。
「控えよ、弁慶」
土方と怪僧
「されど、土方の申すことは道理。ただちに取って返して鄴城を守るか、それともこのまま青州を落とした後に劉備殿と連携して冀州に攻め入った曹操軍を挟撃するか、決めねばなるまい」
土方の声が多少の陰を含んでいるのに比して、この線の細い甲冑武者は透き通った声をしている。
だが戦に長く否数多く身を置いていたことは、一本筋の通ったような語気の太さからよく伝わってくる。
「攻めればあと少しで落ちるだろう。袁紹が被弾して負傷したという噂も立っている。……あの悪目立ちする格好だ。あながちデマカセとも言い切れん」
「されど、あくまで風評に頼って無理攻めをすれば。曹操との戦いに支障を来たす」
ここにおいて進退を争点に御遣い二将の意見は対立した。
それからニ、三言議論を重ねた後、彼らの視線は一様に総大将へと注がれた。
「私に、今ここで決めろというのか……」
呟いた彼女の面持ちは、今までになく物憂い。
どうして自分ばかりがこんな決断ばかり強いられるのか。最低限の矜持としてそれだけは口にすまいが、それでも他者の耳目がなければそう嘆きたかったところだろう。
同情はする。置かれた情勢、取り巻く敵軍容、果てには己が手駒でさえ。
それらは完全に、公孫賛という一大名の器量の分限を超えていた。
あるいは袁紹が如く血統のみを恃みとした尊大なまでの鈍さがあればまだ良かったのかもしれないが、なまじ優秀で自分を過少気味に客観視できることが不幸であった。
たとえ勝ちを重ねていっても、いずれは膨れ上がる勢力を管理できず、高転びに瓦解する。漢朝に帰順しあらためて忠誠を誓おうとも、もはや彼女の一存だけで解散できるような勢力の規模でも指揮系統でもなくなっていた。
何より、彼女はただ掛かる火の粉を必死に振り払っていただけで、天下に確固たる展望など持ち合わせてはいないのだ。その未来図の空虚さはいずれ高い壁に行き当たることになろう。
――すなわち、詰みである。
自身の影の薄さ、華のなさ。そういってものにまだ一喜一憂していた頃は可愛げがあったが、いざ舞台の上に立たせられると、及び腰になってしまった。いちじるしく精神の軟性を欠くようになった。
「……っ、土方に一任する」
熟考――らしきものの末、妹の公孫越の咳払いを機に絞り出した方針が、それだった。