公孫賛の夜襲は退けた。
本隊および別動隊の追撃を打診する桂花に対し、その追跡のみを命じて後、華琳は自軍の背後。北の餓狼たちの『噛み痕』を見に向かった。
首を獲られた武士の死があった。命果たしてもなおその士魂に燃えよと命ずるがごとく、剣が突き立っていた。
華琳の背には桂花のほかにもうひとり、最大の功労者たる少女が影のごとくに控えている。
波打つ銀髪を結わえ上げたその小柄な身に向かい、大地よりその見事な利刀を抜き放って投げ与えた。
「
事もなげにそれを掴んだ彼女に、再度投げるは問いかけ。
「最強の軍、その戦とは何ぞや」
「戦うべき時と地とを過たぬこと。過不足なく、遊兵を作らぬ兵力の投入、展開。明確に設定した最終目標。そこから逸脱することなく細かな状況に対応できる柔軟性」
「面白味のない答えをためらわず言うのね」
他の若き才子であれば妙に分別くさったことを言うか、でなければ誇らしげに持論を振るったであろうに。
司馬の俊英は淡々と、息を吸うがごとくに淀みなく答えた後で、ふわりと口元を綻ばせ、裾を軽くつまみ上げた。
「出題があまりに広義に過ぎますわ曹操様。陳腐、凡庸、普遍。しかしながらそうして嘲る者ほど、それさえ出来ぬもの。孫子が等身大の範を文章にしてすでに示しているというのに、何故世の将はやたらと己の智勇を誇りそれを蔑ろにするのか。理解ができません」
「そう、ならば……その論をもって、この歴戦とおぼしき武士の智勇を否定し、討ったか、
対して透き通るような肌と銀髪を持つ少女は糖蜜のごとき笑みを浮かべ、どこか錆びのようなものを感じさせる、抑揚のついた声で言った。
「まさか。ただの僥倖ですわ。それこそ公孫賛が総軍で仕掛けてきたのなら、一溜りもなかったでしょう」
そう言って、男の骸、その革の腰帯より鞘を奪い取るや、剣を納めてその若き虎豹の副長、司馬懿仲達は辞去した。
「なるほど……尾は掴ませない、ということ」
その背を目で追いつつ、心ながら愉しげに言い捨てた愛主を脇目に見つつ、わざとらしく桂花は咳払いした。
「しかしながら、隠しても隠しきれない、怜悧に過ぎる娘です。緒戦で天の御遣いを討ち取るという大功を立てたことですし、他の軍との均衡も鑑みて、また次は城攻めということにもなることでしょうし、休憩も兼ねて柳琳さまの軍は後方に回すのがよろしいかと」
「なぁに、嫉妬?」
からかう華琳に、桂花は、他には見せぬ紅潮した顔を晒して慌てふためいた。
笑い声を転がせながら遠のいていく主の背より数歩遅れ、ようやく理性を取り戻した彼女は、自分でも奇妙な感覚に囚われていた。
「なんでかしら……あの娘、なんか好きになれないのよね」
あの余裕を含んだ笑みを思い返し、桂花は自身の袂の内に生じた鳥肌をそっと撫でた。
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柳琳が姉や親族に囲われ慰労され、軽い宴状態となっているところに、件の司馬懿が紛れ込んで来た。
温まっていたその空気を阻害したり水を差したりすることなく、ごくさりげない体で我が身を中枢に滑り込ませてきた少女は、ふわふわとした、極端に露出の少ない衣装の裾を軽くつまみ上げて、主将である曹子和へと祝辞を述べた。
その腰に、不釣り合いな無骨な刀が納まっている。
それを鞘ぐるみに抜き取るや、柳琳の無沙汰気味になっていた掌に置いた。
「曹操様より拝領いたしました。されども、これは本来殊勲を立てた柳琳様が頂くもの。どうかお受けくださいまし」
「おぉっ! やったじゃないっすか柳琳! いーなぁー!」
姉が囃し立て、羨ましがる傍らで、やや緊張の奔った手で朱塗りの鞘より剣を抜いた。
重い。硬い。そして強く、熱い。
如何な練り上げ方をした鉄なのだろう。この世のものとも思えぬ……いや実際異界からの賜り物なのだろうが、それを置いても、工匠の作の中でもとびきりの一口には違いあるまい。
それを打った者、振るった者の意志を感じさせた。
己はどうか、
焚火を舐める刃。薄く浮き出る紋に照らし出された柳琳の目元は、いかにも消え入りそうだ。
軽く未練と、己に対する羞恥を噛みしめながらそれを司馬懿へと捧げ返した。
「……いいえ、受け取れない。私は何もしていないわ」
先に敵の奇襲を看破したのも司馬懿。半包囲して彼らを壊滅せしめたのもその方策。正直、機動戦以外で虎豹騎が武功を立てられるなどとは、柳琳自身思い及びもしなかったことだ。
すべて、軍師司馬懿がいたからこその幸運であった。
「そう思っているからこそ、お姉様も私ではなく貴女にこれを譲ったのよ」
「虎豹騎なくして、そして子和様が策を容れて下さらなければ、あの御遣いは討ち取れませんでした。将士の功は、それを指揮する者の手に渡るべきもの、そうではなくて?」
皆を代弁するかのごとく、柳琳に対して微笑を称えたままに彼女の客将は説いた。されども少女は容易に肯じない。曹家としての誇りあればこそ、自身に功なくしてかくも熱情を宿す名刀を手にして良いものかと懊悩する。
「……では、こういたしましょう」
と、一旦はそれを返してもらってから副官は、座る彼女の腰元に改めて置き直した。
「これは柳琳様のみならず、虎豹騎全員で勝ち取った功。その全員の名代として、貴方がこれを佩くのです。……わたくしひとりの手にもまた、これは余りありますわ」
声に抑揚が入るたび、どこか不自然な力みや錆びついたような調子が混じり、それがかえって奇妙な聞き取りやすさ、不思議な魅力を帯びている。魔性とも言って良い。
ゆえにそれ以上は柳琳も拒むことができず、コクリと頷き返した。
「……では、わたくしは準備がありますので」
と、目元を細めて来た時の同じように、場の空気をそれ以上は見出すことなくするりと少女は退出していった。
はぁー、と両脚を野に投げ出し、華侖は息をついた。
「綺麗なコだったっすねぇ、いや可愛いというかなんというか……」
そしておもむろに隣でその跡をじっと見つめる曹洪こと栄華に
「いくらなんでも戦場で手出しちゃだめっすよ」
と釘を刺した。
「なっ、人を見境なしのケダモノがごとく言わないで下さいまし!?」
茶々、というよりかは本気で案じているかのような調子に、ムキになって栄華は否定する。
大股を開く華侖と、きちんと持参の絨毯を敷いて脚を畳む栄華の座る姿は、好対照と言って良い。
「……けど、そうですわね」
栄華は歯切れ悪く呟いた。
いくらなんでも従姉妹の言い草は誇張に過ぎるが、華琳のそれとはまた違った意味で色が盛んであるとはまた栄華自身認めるところだ。
あどけない口元。やや鋭過ぎるきらいもあるが美しい虹彩。それを天蓋のごとく隠す長い睫毛。小柄で華奢で、それこそ纏う衣の良く似合う俗世離れした人形的な全体像。
司馬懿という少女性の全てが、栄華の嗜好に的中している。
常ならば戦場とは言わずとも、私室に引き込んであれやこれやと着せ替えていただろう。
にも、関わらずだ。
自身の感覚に戸惑いを覚えつつ、愛玩する縫いぐるみを抱きすくめて、その頭部に口元を埋めた。
「何故だかあの方、妙ーに食指が伸びませんわ」