程なくして、白蓮の籠もる鄴城を、曹操の軍勢が取り巻いた。
普段は優しい良人に、頬を打たれた妻がごとく、大将公孫賛はなおも忘我と動揺を隠しきれないままに、待ち構えている。
その心の乱れを、趙雲出城の報がより激しいものとした。
まして、包囲軍の後尾から、悠然とその部隊が現れた時などは。
彼女に従うのは、常日頃、劉虞の一件以降より自分への不平を憚りなく漏らしていた士卒ばかりであった。
味方の兵たちも、それを認知したようだった。
「おう、あれって趙雲殿じゃねぇのか……」
「それにうちの兵まで」
やや憚った様子もなくささめき合う側で、白蓮もまた城壁に在って低く、
「星……」
と呟いた。
だが、一方で
(嗚呼、やはり)
とも心の何処かで思っていた。
彼女ほどの烈士もまた、自分の甲斐性のなさにほとほと呆れ果てて、ついには敵に回ったのだと。
咎めるべきは彼女ではない。自分なのだろう、と。
〜〜〜
順風の中、『趙』の旗指物をたなびかせて、その五百騎は悠然と曹操軍の側背に着到した。
「我が名は常山の趙子竜。曹操殿に目通り願いたい」
娘にしてはやや重みと力があるが、それでもよく通る声で近頃耳にする武名を名乗り上げた。
応対したのは、後方に在って予備兵力として待機していた曹純の部隊である。
「どう見ますか、軍師」
一応の体裁を保ちつつ、柳琳は司馬懿に尋ねた。
だが、この時ばかりは当意即妙、というわけにもいかず、しばし沈思した。
「城に紛れさせた間者によれば、顔を合わせれば口論に発展するほど公孫賛と彼女の間に亀裂が生じていることは確かです。ですけども、趙雲ほどの武人が容易に、かつ自ら進んで鞍替えするとも思いがたい」
では一度降ったと見せかけて、機を見て再度表返って内部より敵を引っ掻き回す腹積りか、と考えたがそれも断定はできない。
降る手土産にしては敵が少なすぎるし、そもそも公孫賛陣営の最大の主力を敵中に割いて留めおく意味が薄い。
その上で城兵の動揺も紛い物とも思えない。
真意はどうあれ、この行動自体は趙雲の独断であるようにも思える。
「……とにもかくにも、今の段階では、判断材料に欠けます。まずは様子見し、そのうえで重要な場所には置かず、兵と切り離しつつ城兵に向けて投降を呼びかけさせる、というところが妥当な対応ではないかと。もっともそれを判断するのは曹操殿とその参謀たる荀彧殿でありますれば、我らは取次のみに従事すればよろしいかと」
柳琳は重く頷き、前へと進み出んとする。それを留めて司馬懿は言った。
「お待ちを。御一門があえて降将の相手をすることもありませんわ。ここは然るべき者に」
「曹一門だからよ。それに趙雲殿は音に聞こえた上将。これを遇するに不足などあるものでしょうか」
答える少女の口ぶりは、どことなく強張りがある。
彼女が恐るるは、出迎えを待つ騎将に非ず。曹家に名を連ねておきながら使番ひとつ出来ぬのかという、あるかなしかという周囲の目であっただろう。
(やれやれ)
司馬懿は胸中で嘆息する。理ではなく意地や感情に準じた思考は、己の望むべくところではない。
一応は彼女の判断を尊重しつつ、周囲の兵へ、
「万一のことがあってはいけないわ。弓馬の備えをしておきなさい」
とそれとなく命じておいた。
そして眼前に、趙雲が伴われてきた。
女のかたちをした武神である。気高さと華麗さを備え、余裕の笑みを浮かべているが、そこには増長による隙というものがまるで感じられない。
「出迎え感謝する。貴殿は?」
「曹家の純と申します」
ほう、という呼気とともに趙雲の目が品定めするかの如くに細められる。
こうして並ぶ構図が出来れば、曹子和と趙子竜、同じく美貌の女丈夫ながらも好対照の二人だと分かる。
一方は馬上、堂々たる振る舞いであるが、もう一方はそんな相手にどことなく気後れするかの如くに、馬にも乗らず肩を窄ませ萎縮の兆しを見せている。これではどちらが降将なのやらと言った塩梅だ。
「趙雲殿におかれましては、さぞ苦渋の決断であったこと、察するに余ります。ですが我が陣営にお招きできたことは我らその勇名に憧れた武人にとっては無上の喜びであり、我らが宗主曹孟徳もまた快く貴殿を受け入れることかと」
即興とは思えない見事な歓待の辞と笑みをもって、柳琳は趙雲に伝えた。
だが、返ってきたのは曰くありげな、含み笑いであった。
「――なにを、勘違いしておられるか」
え、と下げていた目線を柳琳は客人に持ち上げた。
そして視た。知った。その獰猛な鷹の表情を、意気を。彼女みずからが語る、来訪の意図を。
「趙子竜が敵陣に用があるとすればそれは唯一つ。すなわち敵将の首級である」
あっと至近の曹兵らより声が漏れた時にはもう遅い。
平素神槍を扱き出すであろうその腕が、反応が遅れた柳琳の襟髪を掴んだ。
一瞬浮き上がったその身に、拳を食わせる。
衝撃や力それ自体は大したことがなかったが、丹田を的確に打ち抜いている。
たちまちの呼吸不全に陥った少女の手足より力が抜け落ち、それを軽やかに拾い上げた敵将は嬰児のごとく彼女の身柄を胸の内に抱き絡め、背に回していた愛槍を掴むや、
「押し通ォォる!!」
竜の一哮とともに、自らの手勢とともに陣中奥深くまで一気呵成に吶喊していった。
「言わんこっちゃない」
誰に聞かせるまでもなく、舌打ちとともに毒づいたのは司馬懿である。
素早く切り返して
「何をしている! 射なさい! 追撃なさい!!」
と命じた。最悪、質とされた柳琳を傷つけても仕方ないと腹を括り。
だが、顧みて司馬懿もまた、自分たちが遭遇した変事が
そもおかしかったのだ。すでに配備していた兵らが、愛する主将の危機をただ棒立ちで見守ることなど。
虚ろな顔をしたままに立ちすくんでいた兵士たち。
彼らはまるで司馬懿が自分たちの方を見るのを待っていたかのごとく、思い思いの方角へと崩れていく。
皆、すでにして殺されていた。
それも一撃の致命傷。彼らを討ったのは、それぞれ一個ずつの、十字にも似た奇妙な鉄片である。
「軍師、見ー付けた、でござる」
軽やかな、まるで児戯にひたる童のごとき声がした。
気配はしない。影も形もない。だが、居る。嗤っている。
この陣営の闇に。幕間に。兵士たちの影に。
そして今、筋道から判ずるに間違いなく司馬懿の後尾に立っている。背の窪に冷汗が伝う。
――対しているのは、本当に人か?
「……」
浅い一呼吸の後、司馬懿は袖口ごとその腕を伸ばした。
その袂より、格納されていた暗器が飛び出、司馬懿の手に収まった。
そして振り向きざま、それらを投げ放った。
だが、むなしく空を裂いたのみ。振り返った先には骸以外の何物もなく、代わり、南蛮の怪蛇のごとく、司馬懿の首に褐色の股が絡みついた。
「えいっ」
今、頭上にいる刺客が気の抜けるような掛け声を放つ。だが、抗いがたいほどの回転と負荷によって、司馬懿の面は、みずからの背の方、前後真逆にねじ回され、そしてその小柄な身体はどう、と血も流すことなく地に伏したのだった。