「曹純さまが狼藉者に人質にされたぞーっ!」
……その急報と並走するかのごとく、公孫賛より離脱した五百騎と一つの影は曹操陣中を疾駆する。
その兵差、実に十倍とも二十倍とも思われる。
だが遠き曹軍は「如何にせん」だの「虚報か、虚報としてもしや城より打って出るための策か」と余計な思慮を巡らせ、近き者は鬼気迫るその武威と、曹一門の身柄を傷つけてしまうのではないかという気おくれから容易に手出しができず、また己がやらずとも誰かがやるという、自分たちが多勢ゆえの慢心、億劫。
――だがそうした物理的、精神的な間隙こそが彼女たちの進む道となる。
まるで、服の間に飛び込んだ雀蜂のごとく、大なるものの手をかいくぐって。
むろん、精鋭曹操軍。ただ雁首を右往左往させるばかりではない。
軍中において真っ先に動いたのは、夏侯淵であった。
把握が速い。判断が速い。陣立てが速く、そして狙いを定めるのも速い。
すでに物見を要所に、的確に放ちおおよその状況を掴むや、深くに斬り込む趙雲隊の進路を先読みして弓騎兵を引き具して側面に回り込む。
実際であれば出鼻を打ち砕きたかったところだったが、敵の侵攻が思いのほかに速い。
射かけたのは秋蘭自身である。
横に並べた三本の矢をつがえて、偏差をも読んだ、線による狙撃。
それは従妹の身をすり抜けて、趙雲の白帽子の下のこめかみを抜くはずだった。
だがその射線上に、横合いから同じ本数の鉄片が飛び入り、秋蘭の必中を期したそれらのことごとく墜とされた
「ちぃっ」
秋蘭は舌打ちした。
撃った者の影はない。だが、趙雲とはまた別行動を取る異物が入り込んでいることは確認できた。
「まずは他の曲者を探るぞ……でなければ到底おぼつかん」
そう下知を飛ばして、秋蘭は部隊を移す。
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横に回り込んだ夏侯淵の狙撃には気づいていたが、星にしても「さてどうしようか」と持て余していたことは事実だった。そこに、思わぬ援護が入った。
孤立無援と思われていた己らに、味方がいるとは読めなかった。
おそらくは奏鳴の手引きによるものだろうがしかし、余計な世話と怒れば良いのか、今なおそんな戦力を隠匿していた彼女の不義理を詰るべきか。
いずれにせよ、すべては曹操を討ち、そしてこの場を切り抜けられればの話だ。
次いで迫ってきたのは、曹仁であった。
「
と、大刀を掲げて、自身の兵をも置いてきぼりに、馬にも負けぬ脚力で星へと挑みかかる。
悪くはない。さすがに妹の危機に躊躇もなくこちらに追いすがる。
それに勢いのある直剣だ。だが工夫が足りぬ。
事もなげにそれをいなした星。曹仁の両断の一撃は、旋回する槍の柄を薄く削ったのみだった。それ以上は構わずに、彼女の眼前を素通りしていく。
だがその衝撃と大音声により、意識を取り戻したらしい。
手の内の曹純が、まだ力の戻り切らない肉体を必死に蠢動させて、抵抗を始めた。
「はなし、なさい……卑怯者!」
そう罵る曹純を、星はせせら笑った。
「卑怯? これは武略というものだ。お主に案内するだけさせて曹操の首を獲ることもできたが、それでは芸がないのでな」
そして馬脚を止めぬままに続けて言った。
「そも卑怯と言うのはな、曹賊。謂れなき罪を被せて己が野心がために他者の地を侵す、貴様らのごときを言う」
「貴女には、判らない……! お姉様の覚悟も、気高さも!」
「そうだ、分かりあえぬがゆえに我らはこうして争っている」
だが目覚めたとあっては、もはや潮であろう。
手早く判断した星は、曹純の身をぞんざいに地へと投げ下ろした。
「同伴ご苦労。本陣の位置も目星をつけたゆえ、ここからは我らのみで行く」
「ふざけないで……っ!」
衣裳にまぶされた土を払うこともせず、生まれたての鹿のように必死に身体を奮い立たせる曹純。そしてそんな彼女の健気さに応じるかのごとく、その精鋭虎豹騎が追いついて来る。
「速いな。それに、皆必死だ」
一応はそう称めつつも、曹純の抜いた刀剣を、土方の遺品だと認めた時だった。
星の目に、感情に、暗い怒りが灯った。
「だがそれは返してもらおうか、お主には過ぎた品だ。それを振れば、児戯では済まなくなるぞ」
「ここまではお遊びだったというの!? 見くびらないでっ、私とて曹家一門、容易に敵に与えるものなどありません」
だが本人も多分に自覚のあるのだろう。
その瞳の閃きが大きく揺らぐ。声が上ずる。
「――よほど、大事にされているのだな」
虎豹騎が迫る。
星は、馬首を返し、突き出されんとした銀穂の前に踊り込んだ。
「待っ」
曹純が声をあげんとしたが、最早遅い。集団としてはともかく、個人の勇では敵であろうはずもない。
彼女に合流せんとしていた精鋭の騎兵らは、一瞬の交錯のうちにたちまちのうちに龍牙の餌食となって屠られていった。
「あ……あぁ」
あえて出血の激しい致命箇所を狙って突いた。
ばたばたと燻された羽虫のごとく、落馬して散っていく味方の血を浴びて、曹一門とうそぶいた少女は震えて膝を突いた。
「そして戦場において、かくも大事にされる将など、本来であれば居はしない」
その様子を冷ややかに見下し、星は言った。
「剣を捨てろ、武から身を退け、『お嬢さん』……お主のような者は、戦場に立つべきではない」
それは敵味方を超えた――否――己と敵するような相手ではないと評価を下したがゆえの、心よりの忠告であった。
だが少々時間を使いすぎたようだった。
夏侯淵か曹仁か。虎豹騎の後続か。はたまた外部に控えていた意図不明の遊軍か。いずれかの部隊かが、差し迫る軍馬の音が聞こえる。
ふんと軽く息を吐くと、趙雲とその決死隊は猛進を再開した。
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曹純隊の割り当てられていた陣所に、死屍の山が築かれている。
この大半は一人の隠密の手によって作られしものなどと、いったい誰が信じようか。
中でも悲惨であったのは、それこそ軍師司馬懿であっただろう。
首はあらぬ方向に捻じ曲げられ、そのまま抵抗らしい抵抗もできずに斃れ伏している。
これが先の緒戦において的確に敵方の狙いを看破し、かつ主将を討ち取った名参謀の末路などとは、諸行の無常とはまさにこのことである。
一気に佐官と指揮官とを喪った残存兵たちは、彼らなりに混乱を収拾しつつも、彼女の死体を前にしてそう思わざるをえなかった。
「……そが」
――その折、であった。
誰ぞの呼気が、いや不明瞭だが間違いなく声が、暗澹とした空気の中に落ちた。
皆が首を傾げたのは言うまでもない。誰も何も言えるような状況ではなかったうえに、不審がる彼らの前には例の司馬懿の骸しかないのである。
気のせいか、と思った矢先。
「クソがぁっ!!」
今度は誰しも疑う余地のない、大声量が轟いた。死んだはずの司馬懿が、起き上がった。我が手でおのが頭部をあるべき角度へと、まるで鋲でも回すがごとくに引き戻した。
兵士たちは身をのけぞらせて彼女から距離を取った。
――『彼女』。
否、と。
男としての本能が、平素とは様変わりした乱暴な怒号を聞いた瞬間にその前提に否と言う。
「馬鹿どもが! 全然理屈じゃねぇっ! 今この瞬間に公孫賛の死兵となることになんの意義がある!? 今更奴に忠義立てしてっ、自分の功名を顕したとして、いったいどんな得があるってんだ、あぁあぁ畜生!! 理不尽で不条理すぎて苛々する!」
何しろその荒げられた声は、
愕然とする曹純隊の前で深々とため息をつくと、その怒情はたちまちナリをひそめた。裾を払いつつ起き上がり、髪を漉き上げ歩き出す。
「――何をしているのかしら」
どことなく不本意そうに――よくよく思い返せば不自然きわまる女口調に戻った司馬懿は、虎豹騎を顧みて、静かに冷淡に言った。
「曹純さまを追わねば彼女、死を選びかねませんことよ」