恋姫星霜譚   作:大島海峡

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曹操(八):理と仁

 司馬懿が其処に至った時には、すでに全てが終わっていた。

 戦には勝ち、己の戴く主将が死んだ。

 

 その間に何にも関与できず、そして今も我から何事かを言い出す権利などあろうはずもなく、黙し、俯いたままにその悲劇の従姉妹を見守る環に加わるよりほかなかった。

 

「仲達」

 

 そうしているうちに呼ばれた彼女の声は、仮病を使っていた時の比ではない、尋常ならざるものであった。

 そしてあの曲者に命を狙われた時以上の恐怖を、『彼』は今感じていた。

 

「……は」

 

 拒むわけにもいかず、大罪のうえでの出頭するがごとき心地で進み出る。

 少女は顧みることなく続けた。

 

「先の高説の割に、ずいぶんと情けない顛末だったようね」

「……面目次第もありません」

 

 望まずして前に進み出た司馬懿に、擁護者は現れない。

 とりわけ嫌われる振る舞いをしたわけではないが、庇ってくれる友を作っていなかったこともまた事実である。均等に他者との距離感を持っていたツケが、ここに来て回ってきた。

 

(死んだか、これは?)

 

 冷汗にまみれ司馬懿が思ったのもまた無理らしからぬことであった。

 そして剣風が彼の喉を撫でた。

 

 敵の御遣いの、否曹純の剣が、それを抜き放った曹操が、本来女性であればないはずの咽頭の突起を指している。が、貫くつもりはないらしい。司馬懿の薄い胸板に峰を押し当て、少女は言った。

 

「戦も、理も、結局は人が作り上げしもの。故にこそ絶対はない。今回の戦は、そこが抜け落ちていたわね。貴方も、私も」

 

 言葉もなく、司馬懿は顎を引いた。

 

「青狼、この剣を象徴とし、虎豹の残兵を結束させよ。この戦においては、隊の指揮は、貴方が執り挽回しなさい」

「お、お待ちください!」

 その決断に待ったをかけたのは、荀彧であった。

「いくら隊における次席と言えども、未だ客分の域でしかない司馬懿に御一門の部隊を委ねるなど! どうか曹純様の代わりは……そう、たとえば姉君の曹仁様など、然るべき方に」

「柳琳の代わりなんていないわ!!」

 

 彼女にしては珍しい、感情に任せたその一喝は、軍師のみならず周囲の武官たちまでをも凍りつかせた。

 だがそれを至近で浴びた司馬懿、真名を青狼と持つ()()は……有り体に言えば醒めた。汗が急激に引いていくのを感じた。

 

 そして曹孟徳が少女の面を露呈させたのは、その一瞬のみである。

 それを恥じるかのように唇を結び直した後、首を振って続けた。

 

「……この戦だけの、臨時の処置よ。以後その兵は我が近衛に組み入れる。それで文句はないでしょう」

「…………はい」

「御下命、承りました」

 

 司馬懿に先に覚えた恐懼はない。しれっとその意を遺刀とともに受け入れ、引き下がった。

 それを冷ややかに見送った後、華琳は例の酔いどれ異人を呼びつけた。

 

「ロブ・スターク」

 

 進み出た男の足取りはまだ、多少はおぼつかないものではあった。だが、その眼からいくらかの酒気は抜けている。

 

「長政から話は聞いている。高い酒で引き留めておいた甲斐があったというものね」

「でも守れなかった」

 

 毛まみれの顔を手で覆いながら、男は感傷のままに嘆いた。

 

「いつもそうだ、おれは……感情に任せて、誰かを犠牲にしたことを、骸を目にするまで気づかない」

「泣き言ならもう聞き飽きたわ」

 

 男の愚痴をぴしゃりと言い止め、そして女王は続けた。

 

「おれに、どうしろと」、

「今回に関して言えば不明は私にあり、貴方はそれを救ってくれた。それでも己に不足を感じるというのであれば、その戦才を研ぎ直しなさい」

「……少し、時間が欲しい」

 

 年頃としては、五つ以上は離れているだろうに。それほどに年下の娘に訓戒を垂れられれば腹のひとつも普通は立つだろうに。そこは華琳の大器を認めたのか、あるいはまだ酒が残っているためか。逆らいもせず、ロブなる北の王は鷹揚に頷いて見せた。

 

 曹孟徳は身を切り返す。

 すでに持ち上げた視野の中に、曹子和の姿はない。

 

「司馬懿、ロブ」

 『反省会』を終えた両者の名を呼び、

「長政、藏覇」

 とさらに新参者たちの名をそこに付け加える。

 

 そして命を下す。

 

「お前たちの隊を合わせ一軍と成す。大将は仲達。他はその者の剣となりその策戦を支えよ。そして、ただいまより、公孫賛を追撃し、以てこれを初任とする」

 

 否はない。あろうはずもない。己の無力さを噛みしめている者たちに、その雪辱の機を与えられたのだ。奮わぬ道理などあろうか。

 

「他の将は飲食物への毒や伏兵に気をつけつつ城内を制圧。言うまでもなく、子和の仇討ちなどと称して捕虜や投降兵を虐待することも禁ずる」

 

 その厳命により、そして曹純の亡骸を収容したことで、その場は解散となった。

 

「あらためまして、司馬仲達にございます。奇縁ではございますが、どうか歴戦の士たる皆さまには、お引き立てのほど何卒よろしくお願いいたします」

 

 無難な言い回しとともに挨拶をした司馬懿だったが、そのうちの一画、浅井長政の目が気になった。

 

「あの、わたくしの名が何か?」

「いや……気にしないでくれ。こちらこそよろしく頼む」

 

 問いを向けられた金髪の貴公子は、すぐに表情を改めてややぎこちなく笑いかけた。

 それは、我に返ったよいうよりも、彼の内で何かしらの判断を下した、という塩梅の変化だった。

 

(何を想った……?)

 見るからに純朴そうなこの青年が、ほぼ初対面の己の『擬態』を見破ったとも思えない。

 とすれば彼の世界において、『司馬懿』の名は尋常ならざる意味を持つのか。

 ――先の世にて、何を為した? 司馬懿。

 

 まぁそれでも、今の自分にはかかわりのない話だ。理さえあればいずれは行き着く末路(こたえ)。そこに寄せる期待も恐れもない。

 

「――が」

 ぐるんと首を真逆に捻り、少年は主君を狼の眼差しで顧みた。

 先に、刹那的に見せた少女の顔を、彼は決して見逃さなかった。

 

「あんたも結局は感情の人間だったなぁ、曹操殿」

 合理的な為政者に徹さんとする努力や良し。子を成せるはずもなく女と交わる奇癖も、まぁ嗜好の範囲として許容しよう。だが存外に内容物は脆いのやもしれぬ。

 その鉄仮面が割れてその少女の相が露わとなった時、果たしてどうなるか。己はどうするか。

 

 だが決して今の己も過大に見てはいない。

 認めよう。理が足らぬ。智が足りぬ。

 やれ武人の矜持だの意地だのが時として理外の、不完全な結果を生むとするなら、それさえ呑んでより精度の高い術理を形成するのみ。そしてそんな無意味な感情論などは総ておのが理合にて屈服させる。

 

『……何故お前は男として生まれてきてしまったのですか、懿よ』

『女として生まれなば、寵も受けられようものに』

『何故女の身の丈、顔で生まれてきてしまったのか』

『そのような体躯では、乱世では組み敷かれるぐらいしか価値があるまい』

『――いいや、お前は不完全なればこそ美しいのだ。矛盾しているからこそこの肌はかくも冷たく心地良いのだ、仲達』

『兄は、兄は決してそなたの躰を離さぬぞ……!』

 

 ――嗚呼、嗚呼、嗚呼まったくもって苛立たしい。

 おしなべてこの世は、不合理なことがあまりに多すぎる。

 

 ~~~

 

 かくして司馬懿は、虎豹騎の喪失感が復讐心で埋まっている間に、公孫賛勢力の駆逐を開始した。

 ロブ・スタークの戦勘と、そして北方の騎士であるがゆえの経験則、そして藏覇の情報網をもとにその動きを予測し、反撃の芽をことごとく踏み潰していく。

 

 公孫賛を逃すべく、鳥丸への警戒を放棄して転身してきた従弟の公孫範(こうそんはん)を邀撃の後殲滅。それに合わせるべく、同盟者であった斉国(せいこく)田楷(でんかい)が合わせて蜂起したのを長政に急襲させて壊滅。

 白馬長史の威風などとうに消し飛び、孤立をした……かに見えたその時、司馬懿軍の追撃が止まる。

 

 それと対するは、界橋(かいきょう)

 公孫軍が渡り切った橋向かいに、二人の娘が立っている。

 いや、少数の部隊を率いてはいるが、まず注目の必要があるのはその先頭の二名だろう。

 

 黒髪と凛とした面立ちの美しき少女が地を突くのは、青龍偃月刀。

 紅とも橙とも思える短髪で、溌剌とした小柄な少女が抱くのは、蛇のごとき矛。

 共通して言えるのは、自分たちのその行いが正しいと信じて疑う余地がないあたりだろうか。

 

 長短一対の神像かと見間違えんばかりに屹立する、ふたりの猛者たち発する武気が、並々ならぬものであることは、さしもの司馬懿も悟り得る。

 いわんや歴戦の武将たちは。

 

長生(ちょうせい)か」

 と、藏覇がそのいずれかの名をそう呼んだ。

 知らぬ名だが、暗黒界では畏怖された異名なのだろうか。

 だが今は何処かの軍勢に属しているのかは、その少女たちの後方に控える副官……片眼鏡の華奢な小娘が旗手として掲げる一字から把握できた。

 

 麻布に染め抜かれたのは『劉』。

 劉備。劉玄徳。幽州で旗揚げした、公孫賛の妹弟子と聞いている。

 

「今更かよ」

 司馬懿は誰に聞かせるでもなく、低く毒づいた。

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