恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉表(六):愛憎混淆

 曹家と公孫家相克ち、互いの骨肉を削る前哨戦を終えた頃、視点は荊州へと移る。

 孫家の追撃を振り切って生存した荊南駐留部隊。その生き残りを劉表は、逃亡先の江夏の港で歓喜の表情で出迎えた。

 

 彼らこそ、そして軍馬を喪いつつもそれを先頭で率いていたシグルドは、如何な苦難を乗り越えてでも裏切ることなく()()()助けにきてくれる救い主に見えたのであろう。

 

「あぁ、やはり貴方こそが、真に信じられる者です。仲業も三成殿も文長も、敵に降ったと聞きます。こと魏延などはやはり人相見の評どおり、叛骨の相という」

 陶然となってその身体に飛びつこうとした女を、

「……では貴公は何をしていたのかッ」

 という、そのシグルドの怒号が遮った。

 

「兵も民も見捨てて、自分とその供回りのみ逃れる領主がどこにおられる!? 貴方のために身を尽くして戦った波濤殿は、士としての誇りを喪わず戦った三成や左近や焔耶は、不義理か、不忠者か!?」

 

 金槌で頭を横合いから受けたかのような表情で立ちすくむ劉表を見て、はっとシグルドは息を呑んだ。

 つい荒い言葉が出てしまったところで、もう遅い。

 一歩遅れて、アーダンが両者の間に割って入った。

 

「もう行きましょう、シグルド様……意味ないですよ、こんなこと言ったところで」

 そう言いつつも、女領主と、色めき立つ荊州豪族たちを顧みる彼の目線は、主人と意を同じくして冷ややかだった。

 

「無礼な……っ、いかな御遣い殿とは言え、その暴言は見過ごせませんぞ! 我々は、確固たる戦略にもとづいて……」

 蔡瑁が何がしかを吼えているのを無視して、マントを翻す。

 

 『生前』は、大陸を征旅していた頃はまだ良かった。

 その最期はともかくとして、()()()()()()()、戦う敵がはっきりしていた。世を乱す蛮族、野心に取り付かれた悪漢、謀略によって不名誉な死を遂げた父の仇。

 だが、今はこんな非力な女を面罵し、善悪を超えて気高き虎の群れと対峙している。

 

「……ほどなくして、此処にも孫家の軍が北上してくるでしょう。防備を早急に整えられよ」

 いったい、己が何のために戦っているのか。無事逃げおおせて考える暇ができたがゆえに、シグルドは言いながらも重く苦悩するのだった。

 

 ~~~

 

「ふっ、色惚け領主、腐れ儒者とその腰巾着がために、色男もその白皙を歪めざるを得ぬ、というわけか」

 その小規模な衝突の現場より少し離れた陣幕の内、本来の江夏の王はその様子を見て冷笑していた。

 

 くすんだ海の髪色。均整のとれた腰つき。

 顔は全盛の頃であれば美貌であったろうが、武人としても女としても盛りを過ぎた今は、世を拗ねたような狷介と偏執さが目立つようになってきていた。

 同じ年頃であろうはずなのだが、経産婦である紫苑よりも、一回りほど老けてみえた。

 

 その女が、背より招いた小柄な少女……否、未だ童女に過ぎぬそれを、対峙したその紫苑のもとへと突き返した。

 

「おかーさーん!」

 黄漢升が死線をくぐり抜け、そして今また戦地になるであろうこの地へ還ってきたきたのは、すべてはこの小動物のためであった。

璃々(りり)!」

 弓を放った腕で娘を抱きとめた紫苑は、再び彼女に会えたこの幸福に感謝をしていたようだった。もっとも、それを『保護』していた者を見上げたその眼差しには、わずかながらも険が潜んでいたが。

 元より仲良く談笑をする仲でもあるまい。割り切ったうえで、

 

「この恩は必ず返せ……紫苑」

「……えぇ、言われるまでもありませんわ。太守さま」

 

 江夏太守黄祖(こうそ)は、低く喉奥を鳴らした。

 

「といっても、はや大勢は決した。返すならこの戦以外のところにしてもらおうか」

「では、孫家に降ると」

「まさか」

 

 眉を吊り上げて黄祖は答えた。

 

「奴らは、この私から大切な者を奪った……どれほど時を費やし、如何な手段を用いようとも、必ずあの娘を奪い返し、その者の眼前にて孫に連なる者どもの首を並べてやろう……っ」

 

 あの娘、と言ったが何も自身の愛娘を孫家に殺された、というわけではないことは周知の事実である。もとより、夫も子も彼女にはいない。

 枯れてもなお、否枯れているがゆえに偏狂に燃える双眸に、ふだんは天真爛漫に誰もに懐く璃々が怯えを見せた。幼けな女には、理解しえぬ感情ではあった。

 

「私が言わんとするのはこの後のことよ。分かったのなら、せいぜい弓の弦でも張り直すが良かろう」

 

 黄祖はそう言って母娘を追い払った。

 それと入れ替わるように入り口に立った影に、黄祖は目を眇めた。

 尋常ならざるその殺気に、つい腕が反応しそうになる。

 

「ついに念願叶うというわけか? 裏切者」

「あたしは裏切っていない」

 この者もまた、頼ってきた割にはそれを恩に思わぬような語調であった。

 

「裏切ったのは、孫家だ」

 と言い切るその翠緑の双眸には、愛憎反転した激しさがある。つまりは、黄祖と同じ質のものだ。

 

「まぁ良い」

 椅子にもたれかかり、軋む音を背に聞きながら、黄祖は言った。

 

「愛憎の別はあれど、あの者に執着するは私も貴様も同じ。だがそれぞれ孤立して追っていてはその影さえ踏めぬがゆえに、貴様は孫呉を見限り我らと組んだ。そうであろう?」

「……あんたがどう思うが知ったことじゃない。あたしは、あの賊を殺す。父上の仇を討ち果たす。それだけだ。それだけ再確認しに来た」

 

 言うだけ言うや、その少女は踵を返した。

 その熱量においては、確かに己の『愛』に等しいやもしれぬ。だが、

 

「貴様程度の技量で思春(ししゅん)を討てるものかよ」

 と女は哂った。

「せいぜい役に立て……捨て石としてな」

 そして、愛しき彼女と戦場で逢うに備え、紅を取り出しあらためて唇に引き直すのであった。


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