劉表軍の予想よりも三日早く、陸口にて陣容を再編成した孫堅軍は長江を遡上。
夏口へとその狙いを絞った。読んで字のごとく、江夏の門口であり、そして江夏、寿春を制すれば長江の水運はほぼすべてが孫呉に帰するものとなる。その運航に荊州ならびに孫家の船を動員すれば、それは経済的にも軍事的にも大いに主導権を握ることになるはずだった。
「おー、慌ててる慌ててる」
対岸で忙しなく左右する兵を眺望しながら、孫策雪蓮は上機嫌だ。
理由は二つ。
一つには、この荊州の戦の締めくくりの総指揮が己に委ねられたこと。
もはや死に体となった荊州閥などより、江陵での主釣りにこそ愉しみを見出したらしい母炎蓮に丸投げにされた形ではあるが、それでもやはりそこには信頼が前提にあると思いたい。
もう一つには、まさかここまで速く再出撃が適うとは、彼女自身が望んではいても思いもよらぬことではあったからだ。
勢いに任せて全てを刈り取るのが孫家の風。そう思いつつも、兵站には限界が来ているというのが、再戦に難色を示す叔母らの意見ではあった。
だが、そこに別の意見を
「試しに言ってみるものねぇ」
「ずいぶんと
呟くように言う彼女に、補佐する義妹が応じた。彼女も消極的ながらも再戦肯定派である。
一方で名の挙がった幼台こと
台所を担う者として、これ以上の出費は見過ごせぬと言い、主要都市をこちらのものとしたのを落とし所として劉表と和解せよと主張する。
和睦のことは容れられないにしても、物資に不安を覚え体勢を整える必要はあるとは皆考えていたため、強いては継戦を主張できなかった。
だが、そこに待ったをかける者がいた。いや、無理を承知で雪蓮に頼み込まれつつも、それに応じて数の理をもって反証を示した者が引き出された。
「まったく、誰ぞのせいで余計なことになったわい」
などと、雷火の小言。その目は持ち上げるかたちで、新たに加わった男の痩躯へと寄せられた。
「『出来るか』と問われたがために『出来る』と答え、それを机上と罵られたので証明と実践をしたまで。尋ねたのも決めたのもそこの孫策であって、それを俺が余計なことをしたとは心外だ」
新参者、投降者とは思えない、辛辣な物言いに、さしもの雪蓮と冥琳の笑みにも苦みが奔る。
石田三成。
死に際し左近が推しただけはあり、孫家に不足しがちな部分を補って余りある。
元より荊州に留まってそこでも算用方の面倒も見ていたというのもあるが、まさか戸籍の整理からせいかくな収支の割り出し、豪族の隠し田など不正の摘発まで、ほぼすべて短期間にやってしまうとは思いもしなかった。
いや、劉表に属していた頃より、『出来た』のだろう。
だが蔡瑁ら豪族、他名士らの影響力が多大な劉表勢力は、彼ら豪族たちの反発が強く実施が阻まれ続けてきた。着手できたのは、他ならぬ孫家軍閥なる侵略者が風穴を開けたからに過ぎない。
そしてこの能吏の頭脳は、『三日で決着が着くのなら』損得勘定の上では追撃は益、と判断を下したのだった。そして三日で劉表を仕留める陣立てを、周瑜と諸葛瑾ら首脳陣で同時並行で立案し、再出兵に至る、というわけだ。
「……なんでも数や利で割り切るものではないわ」
が、口舌にろ吏才にしろ、切れすぎる。
このような男を下につけられた孫静が、そして今の雷火が苦言を漏らすのも無理らしからぬことであった。
「無論、言葉のみで解決できるような時代ではない。だが徳をもって人の心を治めて、礼を説いて荒みし心を癒してこそ、真の王政は成るのじゃ。千乗の国を
「事を敬しんで而して信あり、用を節し而して人を愛し、民を使うに時をもってす……ふん、ここにきて論語か」
「ほう、一応は修めておったか……が、お主も儒は処世の術などという戯けた見方をする者か?」
「別にそのようなことは考えてはいない」
三成は不敵に哂った。
「何しろ、当の孔丘自身が大の世渡り下手だろう」
「…………孔子もお主にだけは言われなくないわっ、つい先ごろまでしょぼくれておった喪家の犬めが!」
中華の美徳の祖たる聖人を真っ向から非難にかかる三成の暴言に、さしもの義姉妹も苦笑を強めに、雷火の怒髪が冠を衝く。
(仲が良いのか悪いのか)
だが、果たして石田三成自身は不義者か。
そうではあるまい。そうであれば、左近ほどの男が忠命を尽くすまい。その死に悲痛な声をあげまい。その挺身に報いるべく、恥辱を惜しんで孫家に仕え、彼の遺志に応えまい。
おそらくは、この男は非情に見えて誰よりも義を貴ぶ者であろう。孔子の言を学びつつその真意を汲まず、栄達の種とし盾とする儒者どもより、誰をも憚らぬ直言こそが、生きづらくも好ましい。
雪蓮はそこで助け舟を出した。
「まぁまぁ。心を治めるって意味でも、この戦は重要でしょ?」
「策殿……」
「この期に及んでどっちに就くか迷ってる荊州の学者先生たちに、誰がこの地の主に相応か知らしめる。これは荊州の民心をきっちり定めるための戦、でしょ冥琳?」
「まぁ、あけすけに言えばな」
む、と眉根を吊り上げながらもこれといった反論は返ってこない。そういう面も認めたがゆえに、小言を絶えずこぼしながらも最終的には賛同したのだろう。
だが心を治めることの難しさは、戦に臨んで雪蓮もまた重々に承知していた。否、痛感していた。
「甘寧様、合流いたしました」
朱羅からの控えめな声量での報告があり、その方角を雪蓮は遠望した。
出迎えに行ったのは旧友たる蓮華。岸にて膝を折り、剣を捧げる甘寧一党を見て、本来は曇りなく喜ぶべきところを、妹の碧眼はどこか物憂い。
その甘寧の受け入れにおいて、孫家において衝突があった。譜代の家臣が、出奔した。
いくら宥めても気性の烈しい彼女はついに折れず、劉表軍に与したという凶報がもたらされたのは、つい先ごろのことだ。
いかな理由や事情があれ、裏切者に一たび戦場で邂逅すれば慈悲などない。一息に斬り伏せよ、とは母の厳命。
だが、明確に孫家に仇をなしていない今ならまだ間に合うはずだ。力づくでも、連れ戻す。その復讐の足場たる劉表軍を一片残さず粉砕する。
「……容赦はしないわ。
水平線の向こうで、こちらを待ち受けているであろうかつての仲間。
彼女の真名を呼び、雪蓮は用意された軍船へと乗り込み、長江を渡った。