恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉表(七):新編 夏口の戦い ー愛讐並行ー

「孫軍、出撃ー!」

 鉦が鳴る。水面が荒れる。

 おそらく文聘軍から鹵獲したであろう軍船を引き具して、孫の旗が風を切って現れた。

 

「馬鹿な、速い、速すぎる」

 とりわけ蔡瑁の狼狽ぶりが顕著であったが、漏らした言葉が劉表軍の総意であった。

 シグルドはすぐに追撃が来るであろうと言っていたが、流石に連戦はあるまい、その間に軍事的、外交的に体勢を整えれば良いとたかを括っていたのだから。総大将の劉表などは平服のまま。その補佐役にして実質上の総司令官たる蔡瑁も軍装を解いていたのだから、立て直すには時間がかかることは明白であった。

 

 先陣を切って現れたのは、蒙衝である。

 それが一隻、悠然と水流に沿って右翼に突っ切っていく。

 

「まずいっ、強襲揚陸するつもりかっ、整った戦力よりあの船へ投入なさい!」

「あれは餌よ」

 

 黄祖と蔡瑁の意見が、衝突する。彼は嫌そうな顔を振り向けた。

 

「黄祖殿、私はそうは思わない。謀多き周瑜めのこと。必ずや何らかの作為あってあの船を向かわせたに相違ないではありませんか」

 

 なるほど周瑜の策ではあるだろう。だが、今や兵力においてはこちらをすでに上回り、また実をもって虚を突くの優位を得た孫軍が、今更別働兵力をもって陽動もあるまい。この男は自他の立場に踊らされて本質を見失っている。

 

「そも、この戦の指揮はこの蔡瑁めに委ねられております。我らを受け入れて変わらぬ忠義を尽くしてくれることには感謝しておりますが……臣としての立場をお忘れなきよう」

 

 そしてその口舌を、兵への叱咤ではなく身内の恫喝に用いる。

 黄祖は転じてその主君とやらの目を見た。

 顔を伏せ、かたく身体を強張らせながら現より全力で目を背ける劉表の、群雄としての生命が終わりを迎えているのが、まざまざと見えた。

 文聘がいればかくも不細工な戦をしなければならぬ道理もないが。いや、彼女と荊南の御遣いたちを見殺しにした時点で、この勢力は己が手足をもがれるのを痛みを感じず傍観していたに等しい。

 

「……いや、失敬した。まったくもって仰る通りだ」

「分かればよろしい。では、貴殿も迎撃に向かいなさい」

 

 だが、そんな態度はおくびにも出さず、男の自尊心を満たさせてやりながら黄祖は紫苑ともうひとりの佐将を伴い、背を翻す。

 その殺意の眼差しを決して気取られぬように努めながら。

 

 ――果たして先の船は、藁人形を詰めただけの空船。

 本命を載せた闘艦らが正面と左翼より突入して着岸。シグルドら荊南残存兵がそれを寡兵で迎え撃つ。

 

 

 ~~~

 

 その偽装船を除けば、いち早く敵陣に切り込んだのは軽装船により左翼より突入した甘寧と孫権であった。

 

「甘寧一番乗りっ!」

 本来であれば、甘寧こと思春(ししゅん)は、先陣を争うことも、高らかに名乗りを挙げることもしない。

 闇影に紛れ、一撃離脱を旨とし、軽妙な機動戦を得意とする者である。

 今回に関しそうせねばならないのは、己らがまだ孫家においては信を置くに足らぬ新参であるという自覚のため。

 そして、独立小勢力であった彼女ら錦帆賊が、孫家と敵した際、『あの女』とも関わりを持っていたがため。想像するだにおぞましき女とのありもしない蜜月を、疑われることを良しとしないがため。

 

 ――そして、お互いのそうした執着を知るがゆえに、彼女たちは採るべき道を採り、出逢うべくして邂逅した。

 

 鈴音(りんいん)を逆手に振るい斬り入った敵陣。その兵の間より、

「私を探しているのか?」

 などと見えない糸が絡むがごとく、声がかかった。

 

 一度聞けば忘れもしない、その耳障りな音調。その眼差し。その姿。

 暗刃を傾けながら、思春はその女……黄祖を顧みた。

 

「このような無粋な場においても、お前は懸命に私を求めてくれるか……まったく、愛いことよな」

 違う、と怒喝を浴びせたくなるも、その姿を追い求めていたことは事実なので、思春、苦く唇を噛みしめる。

 

「……あぁ、確かに貴様に用はある……ただし、その首だけにだがな!」

 返す返答はそれと、振りかざした刃のみ。

 黄祖は緩慢に後ずさりしながら、紅を縫った唇を曰くありげに吊り上げた。

 

「ただ残念ながら、此度は先を譲れと希う者がおってな。悪いがその者の相手をしてくれ」

 

 このまま直進すれば、この切っ先は黄祖の喉首に届く。

 だが、一抹の不吉な予感が彼女の足を留めた。果たして、一個の影が両者の間に割って入った。

 

「見つけたぞ、水賊」

 

 燃ゆる夏草がごとき髪、双眸を持つ少女。その彼女が突き出した手甲には、鋭く尖らせた刃が取り付けられていて、思春は寸毫の間にて避けた。なお少女の連撃が続き、思春は押された。

 

 まともな呼吸や間さえ測りもしない。

 技量はともかく、熱量はある。

 彼女が先んじて行動することが出来たのは、娘の全身より放出された気焔ゆえであり、同時にそれがゆえに、一瞬遅れをとった。

 

(一体何者だ? 何がこの者をそうさせる?)

 思い当たるフシはない。否、山が築ける程にある。

 だがかくも烈しい殺気には、思春は初めて触れた想いがした。

 

 追いついてきた蓮華の顔が、その少女を認めた瞬間さっと血色を喪った。

「蓮華様?」

 訝る思春の問いかけをよそに、主は少女のものらしきその名を、震える唇より紡いだ。

 

 

 

凌統(りょうとう)……」

 

 

 

 ――その名を聞いて、得心がいった。そして、侮蔑もした。

 武人としての責務として、主だって殺めた将の名と顔は、決して忘れはしない。

 

 長江の覇権と自由をめぐり孫家と争っていた頃、夜討ちにて仕留めた将が、ちょうどこのような、夜でも目立つ髪色をしていた。

 後で調べたところによらば、それこそが凌操(りょうそう)

 常に先陣を任せられた孫家譜代の臣にして……そしておそらくは、この凌統の父。

「そうか、貴様か……私と入れ替わって孫家を裏切った臣とは」

 刃を絡め合わせるその裏で、蓮華は我に返って心火を灯し直して吼えた。

 

「おのれ黄祖! 貴様か、貴様が我らが臣を、友を、家族を! 言葉を弄して誑かしたかッ」

「私が? これは異なことを! この娘をかくも追い詰めたのは孫権、その家族とやらの父の仇と承知で甘寧を組み入れた貴様ではないか」

「……っ」

「私に操られたかどうか、その者に問うてみるが良いわ」

 

 蓮華の目元は、それとなく、気弱げに凌統を視る。

 甘寧の急所を狙い続ける鋭さを喪わないまま、凌統は言った。

 

「孫権さま、ではお尋ねしますが……もしこの甘寧が討ったのが父凌操ではなく、孫堅さまやご姉妹であったら、今のように受け入れましたか?」

「それは……っ」

「あるいは、そこな黄祖が勝頼とやらの言ったとおりにお母上を殺し、そのうえで降伏したらどうです?」

 

 甘寧と凌統の応酬は、剣のみに限らず拡張していく。凌統が死角より脚を撃ち込んで払おうとするのを千手をとって潰し、思春は代わり、回し蹴りで頚の脈を狙う。寸手のところでそれを逸らして躱した凌統は、やはり技練と経験の差で次第に押され始めていた。

 

 同時に、俯き答えぬ旧主の娘に、

 ――ほらみたことか

 と言わんばかりの冷ややかな目を、甘寧の背ごしに向けた。

 

「結局、あなた方の家族なんて言葉は口先だけ。本当に大事なのは自分と血のつながりのあるものだけ。それ以外はあたしたちのように、より便利で使い勝手の良い駒を得れば体よく入れ替える」

「……違う」

「違う? どうせ孫家を脱けたあたしには、殺害命令が出てるでしょうに」

「……それ、は」

「いずれあなたは、その偏愛ゆえに本当に大事なものさえ破壊するんだ」

「戯言を!!」

 

 嚇怒したのは蓮華本人ではなく、思春であった。

 

「さっきから聞いていれば己に都合の良い言い訳ばかり! 私怨に駆られ大道を見誤り、恩義ある孫家に弓引く愚か者、もはや仲謀様の視界に入れることさえ汚らわしい! 今ここで葬ってくれる!」

「貴様がそれを言うなぁッ!」

 

 互いの刃風に弾き飛ばされるかたちで飛び退いた凶手ふたり。

「はぁッ」

「死ねぇっ、賊が!」

 再度必殺の構えをとって肉薄せんとする彼女たちの間に、蓮華が割って入った。

 

「やめ、ろ……やめて、薄荷」

 凌統の凶刃の前に立ちながらもその挺身は、彼女自身を思春より護るためのものであった。

 そして凌統は、何か見えざる腕に後ろ髪を掴まれたがごとく、苦悶の表情で刃を留めた。

 

「何故なのです、蓮華さま……何故ッ」

 

 敵方の鐘の音がする。

 老人のような、枯れた声を絞り出した凌統は、甘寧を討つ機を逸したという判断か、それを合図にそのまま身を翻して塁壁の内へと走り去っていった。

 

「薄荷!」

 真名とおぼしきその名を呼び、単身追わんと駆け出す蓮華の袖口を、思春は引いた。彼女たちのわずかな隙間を、矢が通過していき、浜に突き立つ。

 

 この時機を的確に狙い定めた精妙さ。こちらの因縁とそこより生じる心理的な空白を読み切って利用する老獪さ。おそらく射手は黄漢升。

 

「では私も見たいものは見たゆえ帰るとしよう。我が心と同じ傷、奪われる痛みを孫家のご令嬢にも堪能いただけたようで何よりだ」

 

 などと抜かして悠然と後退していく黄祖への殺意を押し殺し、自身もろともに味方の垣根の内に蓮華を押し戻した思春は、そのまま彼女の頬を張った。

 

「今、孫仲謀の果たさねばならぬ務めとは、何だ!?」

 

 声を荒げて友を叱咤する。碧眼の動揺は、その喝破によって多少は収まったようだった。それを見届けた後、思春は臣下として、万死に値する振る舞いをしたおのが頭を垂れた。

 

「ご無礼の段、お許しください。しかしながら、あの時私に語った孫家の夢、天下の論。それらがどうか虚言でないことをお示しいただきたい」

 

 その諫言を受けて、袖口を目元を拭ってシャンと少女が屹立する。

「……敵は退いた! 大盾隊、前に押し出し矢石を防ぎ、我らで後続の友軍の橋頭堡を作るぞ、急げ!」

 そう素早く思考を切り替え檄を飛ばす主に、思春は死角にて静かに、一瞬笑み返し、そして彼女のために改めて剣を揮うのだった。

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