旗色、著しく悪し。
自陣の不利に蔡瑁が気づいたのは、いよいよその勝敗が決さんとしていた時分であった。
(馬鹿な)
荊州には、多くの学が集まっていた。才が溢れていた。天に祝福され、その御遣いの多くを得た。文治の国といえ、兵も多く居た。刺史劉表は皇族にして、益州の劉焉、荊南の劉度も同族にして交わりを持っていた。
(にも関わらず、何故南方の無作法な田舎武者ども、その単軍に押されるのか!?)
彼にはその結果が信じられなかった。そして、そこへと至るまでの原因と過程は、彼の認知の中にない。
(いや……まだだ)
こちらには劉表がいる。
反孫の旗頭にして、いと尊き劉氏の麗人。そして己は荊州における大長者であり、彼女の忠良なる臣下である。
この両名が存命である限り、荊州は他の奴輩のものにはならない。その存在が楔となり続ける。故にこそ孫家の者どもは躍起になってかくも猛攻を仕掛けてきているのだ。
「……景升様、宝夢様」
後方で青ざめた顔で憂える女主人に、蔡瑁はぎこちなく振り返った。
「不甲斐なき味方ゆえに、戦況は著しく不利です。ここは一時、屈辱に甘んじても荊州をお捨てあそばし、回天の機を窺うのが妥当であるかと」
「……任地を、捨てるの?」
宝夢の顔がグッと強張った。
「まことに残念ながら。されども、一旦都にお帰りとなって、奴らの非を朝廷に上訴申し上げて、然るのち捲土重来を果たしますよう」
「都……」
「そうです。洛陽までお守りいたします。宝夢様」
失意に沈んでいた劉表の目が、わずかに光を取り戻した。
……そう、彼女にはそも荊州になど未練はあるまい。間抜けな前太守王叡の、対孫という負債を無理やり押し付けられた、悲運な女。
それを救えるのは己だけだ。彼女を理解できるのはこの蔡瑁のみだ。
黄祖ずれに何ができようか。シグルドが何だ。文聘が何だ。
己が、己こそが……
「まるで己のみは違う、とでも言いたげだな。蔡瑁殿」
――蜜のごときその甘やかな時間に、蛇の言葉が紛れ込み、まとわりついてきた。
腰に手を当て、紅の双眸に陰と険をありありと浮かべ、いやな笑いを口に浮かべている。劉表とは対極に位置するその姿形は、ある種の嗜好者にとっては蠱惑的なものなのだろうが、蔡瑁にとりては妖怪のそれだ。
「これはこれは、さしたる武働きもせず、ずいぶんと早いお戻りですな、黄祖殿」
などと蔡瑁も負けじと皮肉を飛ばしたが、宝夢をそれとなく黄祖の視界の死角へと追いやった。
前線から遠い男の、なけなしの武心と本能がそうさせた。
しかし黄祖はその必死な嘲りを無視し、身体も素通りした。そして怯える劉表の前へと膝を折った。
「されども、この者の申す通り、これ以上の抵抗は意味を成しませぬ。どうか御身はしかるべき場所へと落ち延びるべきかと」
「う、うむ……」
ふたたび委縮してしまった荊州刺史に代わり、蔡瑁は相槌を打ちつつも軽く安堵した。
みずからが打ち立てた方針に、この女とて異論はないらしい。さきに感じた不穏な空気は、杞憂に過ぎなかったと判断した。
「されば黄祖殿にはこの地に殿軍として留まっていただき、江夏太守としての任を全うし、どうか華々しく、劉表麾下の兵として見事なご最期を遂げられますようお祈り」
「されども」
今度こそ、黄祖は蔡瑁をいないものとして扱った。
無防備に背をさらしつつ、さらに言上する。
「この大乱世に都に引きこもり続ける朝廷に、失地を取り返す意志などありましょうや。亡命先とはすでに段取りをつけておりますゆえ、どうぞ劉表様には思い煩うことなどなく、お心安くそこでお暮らし下さいませ」
「なんですと…………おいっ、誰がそんな勝手な真似を許した!?」
蔡瑁は黄祖へと掴みかかった。
だが強気な態度に出られたのは衝動的な怒りに駆られたのみにあらず。この女が余裕をもって武器を持たず、背などを晒すがゆえであり、すなわち自分が彼女を制するにあたっては、圧倒的に優位な立ち位置を確立できていると知るがゆえである。
――
だが、その蔡瑁の喉輪を、何者かの爪が……爪を模した武器が背より貫いた。
「がはっ……あが……!?」
詰まらせていた呼気が、血反吐とともに、口以外のあらぬ方向から漏れていく。
その返り血を後頭部より浴びながら、黄祖はゆったりと立ち上がった。
居合わせていた蔡瑁麾下の親衛隊も降り注ぐ矢に軒並み打ち倒されて、己と同じように血液の沼に沈んでいくさまを、おぼろげになっていく視界の中で蔡瑁は視た。
「ご苦労。まぁ私がやっても良かったが、それでは後々障りとなりそうなのでな」
悲鳴をあげて逃げようとする劉表の襟髪を掴み、黄祖は蔡瑁の背にいる何者かを軽く労った。
鉤縄を引き抜いたその女は、枯れ穂にも似た髪を振り乱し、蔡瑁の手前に回り込んだ。
見覚えがある娘将であった。
「……一応これでも孫家に鞍替えした身上なんで、あまり呼びつけないで欲しいんですがね、黄祖将軍」
「裏切る前にすでに前金は手渡したであろう。『一度は確実に、私の役に立て』と。その権利を使う機などここ以外にそうはあるまい」
という嘆きにも似た声で、思い出した。
たしか潘璋とかいう、江陵を易々と売り渡したという裏切者だ。
「それに、お前は孫家の将として晴れて劉表軍司令を討ち取ったのだ。そこになんの後ろめたいことやあらん」
「まぁ、特別報酬としていただいておきますがね……その頭花畑女を土産に孫家に寝返るつもりなら、口利きしてやっても良いですけど」
「申したであろう、すでに段取りはしてあると……奴らに頭を垂れるなど、想像だけでも反吐が出るわ」
「そりゃ安心しました。これで貸し借りなく敵同士ってわけだ」
などと勝手な申し状を繰り広げたすえに、彼女らは袂を別った。
そして半死の体の蔡瑁と、苦悶する劉表もまた、離れ離れにさせられつつある。
「あーあー、刺しどころが悪かった。こりゃもう助からんね……波濤殿やあたしらの無念、その一片たりとも残さず噛み締めながら絶望と苦痛の中で、死ね」
蔡瑁は潘璋に罵倒されつつふたたび身に爪を刺し込まれて地を引きずられ、宝夢も抗う力もなく引っ立てられていく。
「ほ、ほうむ……様!」
ごぽごぽと血の泡を喉の傷より溢れさせながら、蔡瑁は懸命に手を差し伸べる。
己が救わねばならぬのだ。己だけが愛せるのだ。己だけが、想われるだけのことをしたのだ。
――だが、宝夢の目は。
最後に見た彼女の
確かに恐怖はあった。嫌悪もあった。哀しみもあった。
だがそれはあくまで己独りに対して向けられたものであって、蔡瑁個人に対しては憐憫さえも寄せてはいなかった。
せいぜい、通りすがり様に死にゆく虫を見るそれだ。
そこで初めて蔡瑁は己の立ち位置を客観視できた。
彼女にとって、あくまで臣のひとりであり、口やかましく喋る駒であり、それどころか荊州豪族の筆頭として、事あるごとに意見をおのが望む方向に曲げる奸物。国政の障りとなる目の上の瘤に等しかったのだ、と。
――決して、救い主なのではなかった。
「わたし、は……あなたの、ため、に」
何が出来たのか、という自問も。何もできなかったという自答も。
彼の魂魄とともについに闇に沈み、そして外界に発せられることはとうとうなかった。
【蔡瑁/恋姫(オリジナル)……戦死】