恋姫星霜譚   作:大島海峡

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劉表(七・終):新編 夏口の戦い ー幕は下りず―

「……それは、どういう意味かしら」

 雪蓮は嫣然と笑んだまま、冥琳が色を変えるほどの殺気を飛ばした。

「イヤですねぇ、言葉通りの意味ですよ」

 それを知ってか知らずか、張勲がすっとぼけた様子で足下を指で示した。

 なるほど確かに、その爪先に水蛙が沈んで、グェグェと喉を震わせた。

 

 こちらの怒りは伝わっているだろうが、武術の心得など最低限、あるやなしやという女に殺意を察知する感覚など持ち合わせてはいないだろう。

 伝わらぬ恫喝の無意味さを悟った雪蓮はため息とともに衝動的な怒気を吐き捨てると、顔を上げてあらためて言った。

 

「それで、どういうことなのか説明していただけるかしら。盟友殿」

 

 盟友、こと張勲もとい袁術軍。星が降り、異人たちが現れる前よりの友好勢力である。属する個々の感情は別としても、ずっと誼を通じてきた。

 その物言いは以下の通りである。

「いえね、荊州擾乱の話は元より聞こえてたんですが、そこに来て黄祖さんを始め多くの方からもどうにかしてもらえないかと届け出がありまして。そこで我らが袁術様、揚州攻めの間際にありながらもこれは捨て置けぬと英断なされまして、そこで我々がこの騒動を預かるべく馳せ参じたと言うわけです」

 

 なるほど、と珍しく抑揚のない声で雪蓮は相槌を打った。

 つまりは言葉の裏を返せば、黄祖は劉表と荊州を売ったというわけか。

(そして)

 城外に設けられた会談の場。

 その陣幕の裏には、先に逃れていた黄忠がいる。追討の折に見かけた創面の軍人、蒋欽などが憮然と立っている。劉表も、黄祖が連れ去ったに相違あるまい。

 察した。彼女らとその兵力の仲介こそが、そして劉景升という荊州鎮定の大義名分こそが、黄祖が袁術軍に鞍替えし、かつ己の所領を安堵してもらうことへの条件であったと。

 

 あらためて相対した黄祖はと言えば、微妙な表情である。間違いなく勝利を得た優越を感じさせるが、一方で多分に苦みもある。

 まがりなりにも武人ならば、袁術ごときの下風に立つことは良しとすまい。だが、背に腹は代えられない、という心境であり、かつ知っているのだろう。

 自分が江夏に留まり続ける。しかも表向きは盟友として。

 そのことが、孫家にとってどれほどの苦痛を与えることになるのかを。

 

「まったく、孫家の皆さんには困ったものですねぇ。袁術様に面倒ばかりかけて足引っ張って。孫武の裔と称するならもうちょっと……ねぇ、らしい振る舞いを心得てもらいたいものですよ」

 うわべばかりの情感たっぷりに、張勲は嘆いて見せる。

 だがどことなく勝ち誇った響きを想わせるのは、雪蓮自身の僻目か。

 

「ふざけるな」

 

 知れず、声が漏れる。

 ここまでの戦いは、敵味方の英雄たちが流した血は、それを弁えぬ小人どもの供物として捧げられるものだったというのか。そんなことは断じてあってはならない。でなければ、彼らの死はなんだったのか。

 

 その独語を、隣で蓮華も思春も耳聡く拾ったらしい。

 後押しするがごとき強い眼差しを送って来る。

「斬り捨てますか」

 思春に至っては、そんなことを口語で囁き、腰に回した剣把に後ろ手をかけている。ヘタをすれば、黄祖や張勲と刺し違えても、という腹積もりらしい。

 

 だが、自分よりも激した相手が傍にいれば、我が身に立ち返って冷静になれるのが人情の奇妙さである。

 そして彼女らに拮抗しうる無言の諌止を、雪蓮を挟んで隣に座す冥琳と雷火が送ってきている。

 

 戦略的には今調子づく袁術軍ともコトを構えるは剣呑。そして今この時においても、思春の凶刃は両名に届くまい。

 背後に控える益良雄どもが、その前に返り討ちとするだろう。ひとりはほっそりした金髪の優男だが、その細やかな身体はすなわち、無駄のなさの顕れである。獅子のごとき、猛々しさを内に秘めた野生の美だ。

 

 もうひとりがそれ以上に厄介だ。

 唇も、骨も、放つ気も厚い漢。身体も武人としての位格も、この場の誰よりも巨きい。

 

 まったく何故これほどの者らが袁術ごときに侍らされているか。

 この場はさておくとしても、厄介で、かつ心躍る。彼らと剣を交わらせるのもまた良いと思ったが、さすがに講和の席で腰のものを抜くほどの不分別はない。相手があからさまに舐めた口を叩けば、椅子の脚の一本でも斬り落として転ばしてやろうものを。

 

 そんな己の勝手を知ったる冥琳が眼鏡を光らせているので、とうとう雪蓮も折れて「ふぅ」と息をついて脚を地に投げ出す。そんな姉の様子を合図に、不本意そうに他二名も乗り出しがちであった身を退いた。

 

「それで、和睦の条件は?」

 雪蓮はあらためて問い質した。

 答えたのは、すらりとした長躯の女……否、少女である。

 身体的特徴と張勲の左隣という立ち位置から判ずるに、おそらくは満伯寧。近頃名を聞くようになった袁術軍の幕僚である。

 

「孫軍の江陵までの撤収。襄陽以北は袁術様の名代として黄祖将軍が江夏太守と兼任し、経営。そして捕虜としている文聘殿、魏延殿、三成殿らの身柄を返還いただきたい」

「ずいぶんと欲を張るわね」

 

 雪蓮は冷えた声を浴びせかけた。

 剣呑なその雰囲気に続いて、雷火が告げた。

 

「天の御遣いや捕虜を交易品か何かと勘違いされておるようじゃが、あくまであの御仁らは己の意思で我らに降ったのじゃ。しかも劉表殿に見捨てられ。それを今になって返還せよとは、乱暴な物言いではないか」

 

 冥琳も続いた。

 

「そもそも事の発端は、先代と当代の荊州刺史の無用の怯懦。王叡はこちらが自分を追い落とさんとしていると怯えてこちらを貶めようと兵を動かし、後任の劉表殿も、同じ理由で区星(おうせい)討伐中の背後を突いて我らの本拠を奪った。こちらの軍事行動は、いわば正当防衛だ」

「ずいぶん過剰な正当防衛ですね」

「そうね、だって私たち、お行儀が悪いみたいだから」

 

 ちらりと視線を外して、雪蓮は続けた。

 

「だから袁術閣下が揚州に行ってる間に、あるいは董卓が来襲したりした時、ついまたイタズラしちゃうかも」

「……とにもかくにも、持ち帰って孫堅様にお伝えいただきたい。容れられない場合の譲歩案もこちらの書簡に示してありますゆえ」

「そうね……まぁ、和睦自体は受け入れるとは思うけど」

 

 雪蓮は苦く笑った。

 満寵の条件があえて高く見積もった吹っ掛けだとしても、ある程度の妥協であれば。

 

 炎蓮は何かと袁術に甘い。

 その孺子(クソガキ)っぷりを、珍獣か何かのごとく愛でているフシがある。

 親というのは実の子には厳しくとも他家の子には甘いというヤツか。

 

「まぁなんだかよく分かりませんけど? わずらわしいことも何もなくなったようですし、一件落着、ですね♪」

 すっかり場の流れ作りやおそらく草案も任せきりだった張勲が、再度に締めくくりだけ持っていった。

「じゃ、仲直りの証に抱擁でも」

「やらないわよ」

「するかよ」

 

 〜〜〜

 

「……待てっ、黄祖!」

 座を立った宿敵に、鋭く蓮華が制止をかけた。

 わずらわしげに顧みた黄祖に、妹はさらに畳みかける。

 

「とにかく和が成ったのだ! 凌統を返せ!」

「返せとは、また物のごとき言い様よな」

「またつまらぬ言葉遊びを……っ!」

「おらぬ」

「なに?」

「我らが盟友ともなれば、甘寧を討てぬ。見切りをつけて早々と出奔したわ」

 

 いちいち言葉尻を捉えては揶揄するような黄祖ではあったが、あからさまな虚妄を吐くことはするようには思えない。おそらくは事実であろう。

 

「くくっ、まったく生き急ぐことよ。少しずつ着実に、執拗に準備して、相手が破滅する様を見ながら事の成就を噛みしめる。それもまた復讐の醍醐味であろうに」

 

 そしてやはり黄祖もまた、因縁を捨て手を取り合う気など毛頭ないらしい。

 絡みつく悪意は、程なくしてまた孫家に仇を為すだろう。

 

「まぁそう気を揉まずとも、いずれ奴めは貴様らの前に立つ……今度こそ明瞭に、孫家の敵として、な」

 

 この邪将、あえて無法を犯してでもこの場で討つべきではないのか。

 蓮華はそう思ったが、その逡巡の間に黄祖の背は射程外にまで離れていた。

 いや、悩みはしたものの、やはり袁術と事を構える時機に非ずと結論が出ていたことだろう。

 一族の家名は重きもの。己の意思ひとつで曲げて良いものでは、ない。

 

 〜〜〜

 

 孫軍と離別の最中、エルトシャンが興味半分にその軍に投げかけた視線が、ある影を捉えた。

「なっ……」

 言葉を喪う。否、止めどなく脳内に迸る。

 まさか。そんな。ありえない。

 

 捕虜と思われる暗澹とした一人の敗将。

 その身ばかりでなく心までも擦り切れたらしく、力なく項垂れて、むしろまたがる馬の方が気遣い、彼を運んでいるかという惨めな有様ではあったが、見間違えるはずがない。

 

 慌てて馬を駆って再接近を図るエルトシャンではあったが、先方の陣列より褐色の弓取りが進み出て彼の前途を遮った。

 

「何の御用か、美丈夫殿」

「い、いや……」

 

 友の面影に肖たその虜囚の顔が、見えるか見えぬかという間合いである。

 その射手――たしか黄蓋なる老臣だったか――の背越しに何とかその素顔を見んとしたが、その性急さがかえって彼女の不興を買った。

 

「確かにそちらの条件を聞き入れはしたが、すべてではない。正式に取り決めもしておらんうちに『我らが将』を連れていくのは、遠慮いただこう」

「そうではないっ! ただ、遠目には知己に見えたゆえ、もしやと思い……お願いだ! せめて面会を、話をさせてはくれないだろうかっ」

 

 ほう? と眇めた黄蓋の目の色に興が乗る。だがそれでも、こちらに対する険しい感情が勝る。

 無理らしからぬことではあった。何しろ、死闘の果てに横合いから旨味だけをかっさらっていった袁術軍、エルトシャンはその走狗に見えたことだろう。

 

 それに、

(仮に友人だとしたらなおのこと厄介。言葉など交わして翻意させられてはたまらん)

 という思惑もあるにはあったのかもしれない。

 

「事情は承った。が、儂の一存ではどうにもならん。満寵なり張勲なりを通して正式に申し出るが良かろう」

 そう言ってからふと、艶の残る目元を緩ませた。

「……そもそも、今は股肱と恃んでおった者を喪ったばかりゆえ、まともな会話さえできるかどうか。しばらくはそっとしておくが良かろうよ」

 降将を顧みたその眼差しには、紛れもない惻隠の情があった。

「……不躾であった。許されよ、黄蓋殿」

 その良心を信じて、引き下がったエルトシャンではあったが、その実確かめることが怖かったからではないか、とも自己分析をする。

 

 もし彼が、朋友(シグルド)本人であったとして。

 何故、この世界にいる?

 何故、あんな有様になっている?

 己が死を賭して決して容れられぬであろう諫言をした後、彼らに何があったというのだ?

 

 見えたものは別として、あれは他人の空似と思いたかった。

 シグルドは自分たちの世界で、エルトシャンの死を乗り越えて、世に正しきを顕したはずだ。光輝く王道を突き進んだはずだ。そうでなければならない、はずだった。

 

 満寵こと海防が呼び戻しに来るまで、馬上のままエルトシャンはその場で愕然とし続けていた。

 

 ~~~

 

 母に復命した後、結局和睦自体は受け入れることとなったが、それでも第三案となった。

 すなわち、分捕った領地は孫家の所領として認め、かつ袁術よりそれを朝廷に奏上することで公に認めさせる。将もまた同様である。

 だが一方で黄祖と江夏一帯、博望(はくぼう)新野(しんや)といった荊北の大半は袁術方の預かりとするという。

 一応はかなりの好条件……と思いたいところだが、雪蓮らにしてみれば、納得など出来ようはずもない。

 北上の道が閉ざされたばかりか、そもそもは労せずして得られるはずだった土地は、憎き敵の下に帰するのだから。

 

 朱羅を伴って再び彼女が会合に赴いたのは、今度は宛の地であった。

「やっとですか。しかも第三案。まぁ良いですけど」

 約定の誓紙を仰ぐようにして弄びながら、張勲は口を尖らせた。

「大人しく最初の条件を受け入れた方が、後々得だと思いますけどねぇー」

 つまり彼女の言い分としては、今の内に袁術に媚を売っておいた方が、後に彼女が天下を席捲するようになってから美味い汁を吸える、ということらしい。

 

 それこそ反吐が出る提案だ。

(殺す)

 常ならばそれこそ自身の矜持に衝き動かされるかたちでこの女を斬っていただろうが、今日のところは気分ではない。ただ一応の礼節として、

()()()()()()()、残念だったわね。貴女たちには、複雑な事情もあるでしょうけど」

 と告げておく。

 

 はい? と張勲は小首を傾げる。

 腹の底の読めないところのある黒い女だが、この当惑は本物のようだった。

 

「まさか、まだ知らなかったの?」

 

 だがそのことに雪蓮みずからが教えてやることも、そして無知を当てこするような真似も、躊躇われた。

 

 

【劉表……滅亡】

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