北海国の御殿。
そこは仮でありながらも斉の桓公を気取るがごとく、豪勢な佇まいであった。
だが、豪奢であるのは見てくれだけ。敗亡を間近に控えた今時分となっては衛士も少なく、ただでさえ寡兵というのに、
世話をする女官や奴婢も乏しく、財の多くは流散した彼らに奪われて、ただ広さ大きさだけがその分だけ目立つという有様であった。
「おーほっほっほ! ようやく来ましたわね。ご覧になりなさいこの壮麗なる佇まいを! いつか陛下の別邸として使うことになろうとも何ら恥じることのない、見事な造りでしょう!?」
にも関わらず、いやだからこそか。
この空疎な御殿の王の笑い声は、よく通る。耳に響く。
彼女の寝室まで通された華琳は、呆れつつも軽く驚いて彼女を正視し、そして複雑そうな笑みを貼りつかせたまま俯く顔良を顧みてから、一度大きくため息をついた。
「わざわざこんな場所を見せびらかすために呼びつけたっていうの? 誰の尻拭いのために冀州入りしたと思っているのよ」
「まッ、品も教養もないセリフですこと」
「そっちもいい趣味とは言えないでしょう? まぁ如何にも貴女らしい虚栄心の象徴だとは思うけど。そもそも、その品性下劣な女とやらと一緒に花嫁泥棒したのはどこの誰だったかしら?」
「あ、あれは華琳さんが無理矢理……!」
何という事のない、他愛無い会話。
互いに立場ある身となってからは久しく、してこなかった交流。
……よくよく考えたら平素よりソリが合わず、悪態はつけても軽口を笑って言い合えるほど昵懇の仲でもなかったが。
そんな相手に、
「……貴女は、全てを託すというの?」
寝台に伏す袁本初に、揶揄の笑みを収めた華琳は問いを投げた。
背後で顔良が血の気を抜く音を、聞いた気がした。間違いなく息は呑んだ。
目の前の令嬢は、また甲高く笑った。
贅沢により得た肉付きの良かった肢体は長く続く戦闘の日々により痩せこけて、窶れは頬と目元にまで達している。
せめてもの矜持と嗜みか、あの無駄に存在感のある金髪の手入れは行き届いているが、それでもなお、やはりどこか鈍く曇りがかかっている。
城壁にあって残兵を鼓舞する袁家宗主。彼女の脇腹を射抜いた鉛玉はそのまま一部が摘出し切れず内に収まり続け、それが毒を発してこの娘の肉体を着実に死へと近づけつつあるという。
「えぇ! 光栄に思いなさいな!」
もはや一語を放つことさえ苦痛であろうに。この声量と明るさを保てるのは見上げた根性と思わねばなるまい。
「何故私なの」
その虚勢を無視して、華琳はあらためて尋ねる。
「家督もろともに袁術に譲り渡すのが筋目じゃない」
「あら、そうして欲しいのかしら?」
「その時は真っ向から踏み潰すまでよ。そもそも貴女と私は、盟友でもなんでもない、というかつい先頃まで敵よ」
死にゆくものに忖度しても媚の一つでも売って良いのかも知れないが、そうしたくないというのが曹孟徳の性分だ。
「せめてものケジメ、というものでしょうね」
熱に浮かされたゆえか。ぼんやりとした目を高い天井へと移した。
「戦国のならいとは言え、美羽さんは真直さんを討った。おいそれとその仇に降ることは許されませんわ」
心なしか、麗羽の声量が常人並みに静まっているような気がした。
華琳はそっと寝台に腰を置いた。
「貴女も」
と、ふたたび幼馴染に視線を戻して麗羽は言った。
「従妹さんのこと、聞きましたわ。なんでもかんでもご自分の頭に詰め込んでいるような貴女にも、手落ちというものがあったのね」
そう言われた瞬間、死した柳琳の影が痛みとともに脳裏をよぎる。
「そうね」
短く少女は答えた。言われるまでもなく、落ち度は趙雲の侠気と武威を侮った己の油断にある。それこそ、死にゆく者には取り繕う必要もなかろう。
「斗詩さんは」
と、麗羽は本題に取って返した。
「なんというかワタワタしていて落ち着きがないですし、猪々子さんは……あら、そう言えば猪々子さんはどこかしら?」
「は、はい……外でずっと泣……お稽古を」
「もう、こんな時までオツムが筋肉で出来てるような娘なんですから、部屋に来るときにはきちんと汗を落としていらっしゃいと伝えなさい……で、円さんは掴みどころがなくて鉄火さんも戦いのことしか頭になくて、あと……よく分からない方もいらっしゃるけど、それでもとっても賑やかで……楽しい方々。きっと貴女の痛みを和らげてくれますわ」
「――つまり、何?」
華琳は眉を吊り上げて言った。
「私に面倒を見ろ、というのではなく……私を、慰めるために?」
「えぇえぇ、これも旧友のお情けというものですわ! ついでに運も分けて差し上げるから、感謝なさい、オーホホホホ!」
「呆れた。でもまぁ、貰えるものは貰っておくわ」
果たしてこの時の呆れ声が聞こえていたかどうか。
かつての河北の名族が意識を手放したのは、この前後であった。
まったく喪心する直前まで、騒がしい女であるが、
「人の心配をしている立場じゃないでしょう」
未だかすかに脈打つ手をそっと握りながら、華琳は目を伏せた。
人は袁紹という人物のことを恵まれた側の人間だという。天運の持ち主であるとも。
だが、実際はどうだろうか。
確かに、素寒貧になっても一財を築くような、妙なツキの持ち主ではあるだろう。
だが妾腹として生まれた彼女は、多くのものの蔑視に晒されていた。そして今、逆賊公孫賛に追われ、友を喪い、戦乱の煽りと頻出する賊とによって荒らされた国に逃げ込み、ついには悪運にも見放されて銃弾を喰らった。
「……ずっと良いことがなかったのは、貴女も同じじゃない」
「そういう、人なんです」
掌で顔を覆った顔良が、涙で濡れた声で言い添えた。
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袁紹が目覚めたのは、それから数日して後のことだった。
何を想ったのか、やおら曹操や顔良文醜などを呼び集めるや、愚にもつかぬ、傍から聴いていれば頭の痛くなるような漫才じみた応酬に花を咲かせたかと思えば、ふと疲れたがごとく枕に後頭部を沈めて目を閉じて、そのまま目覚めることはなかった。
その永い眠りにつく間際。
最後に放ったのは、やはり彼女らしい、底抜けに明るい高笑いであった。
【袁紹/麗羽/恋姫……死亡】