恋姫星霜譚   作:大島海峡

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凋落 ~南陽悲憤~
袁術(四):巨星去りし後


 曹操軍の特使として浅井長政なる美丈夫が、袁術軍徐州を訪れていた。

 ちょうど張勲は何やら荊州に変事ありとして宛へと出向き、代わりにそこを守る真田幸村が予備外交官として応じて迎え、そして袁紹の死を告げられた。

 

「そしてこれが、袁家の宝刀と、家督を正式に袁術殿にお譲りする旨の遺言書だ」

「たしかに。遠路はるばるかたじけない」

「……奇妙な感覚だな。官渡の戦いは起こらず、本来であれば河北の王者であった袁紹殿が先に斃れ、袁術殿は天地人に恵まれ長江の覇者か。この時点で歴史は我らの知る本道とは遠くかけ離れている」

 

 諸々の受け渡しを終えた長政が感慨深げに息を漏らすのを、話半分に幸村はその眉目を探るように見返していた。

 

「? なにか」

「いえ、やはり茶々様に似ておられると思いまして」

 

 愛娘の名が挙がり少なからず驚く近江太守に、幸村は鬚の下の口元を綻ばせた。

 

「そなた、茶々の知己であったか」

「はい、我が魂、我が命、一度ならずあの方に救われました」

 

 見かけ、幸村の方がはるかに年長者なのだが、幸村にしてみればより多難な群雄割拠の世を生き抜いた大先達である。自然、彼が長政を上に置く姿勢を見せた。

 

 ……もっとも、彼らの世界は微妙に世界線を異とする。あるいは彼らの思い描く娘の像は別物かもしれないが、多少の齟齬には寛容に解釈して、やり取りは違和感なく成立していた。

 

「某は良いとしても母親ともども息災であってくれたのなら、嬉しいのだが。天下に恥ずべき裏切者の妻子などと、謗られてはいなかったか?」

「……お市様のことは存じませんが、利発で、繊細で不器用ながらも優しく、それゆえ多くのご友人に恵まれておられます。ご安心を」

 

 幸村はそうとのみ告げ、多くを語らなかった。

 無事で居てほしい、というのは父親のみの願いではない。諦めず、最後までおのれの信念を貫き通し、生きて欲しいと幸村も想った。

 

 そして長政もあえて深くは踏み込まず、娘の『現状』を報せてくれたことに感謝と安堵を示して、再び河北へと還っていった。

 

 ~~~

 

 幸村はさっそくその足で、袁術の宿を訪れていた。

 政庁は質素そのもの、滞在していて芸者の類も未だ戻らぬということで、大酒家を貸し切り、そこで揚州出立の間まで惰眠と飽食の日々を送っている。

 

「七乃かえ?」

「いえ、幸村殿に」

「なんじゃ、むさくるしいのが来おって。会いとうはない、帰りや」

 

 紀霊が来訪者の名を告げると、深く寝台に身を沈め、温州蜜柑の蜂蜜漬けを頬張りながら、娘はにべもなく手を振った。

 

「いえ、是非にもお耳に入れなければならぬ急報です」

 と、紀霊が押し留める暇を与えず、幸村は部屋に乗り込んだ。

 そして無礼者めが、と怒るのを中途で遮り、幸村はあえて平坦な声で、

 

「袁紹公、北海の地にてご逝去あそばしました」

 

 従姉の訃報を、直截に告げた。

 美羽は食いさしの菓子を吐き出し、咽こみながら寝所を転がり出た。

 その彼女の目に映り込んだもの。それは一口の刀と印綬と文書。

 文字は一読できる量ではないが、刀は瞭然である。

 

 袁家伝来の刀。嫡子たる者の所有物として、袁本初が肌身離さず帯びていたもの。そしておそらくは、この娘が喉から手が出るほどに渇望していた、袁家の長としての証であった。

 

 目線を合わせて屈みこんだ幸村が差し出したその一刀を、震える指を近づけ、そして豪壮なつくりの鞘に触れるや、一転して脱兎のごとく胸に掻き抱いた。

 

「ほ、ホホホホホ……」

 

 暗澹と目元に陰をため、唇は何か見えざる者の仕業のごとく、端が吊り上がって歪む。

 喉を震わせていた笑声はやがて大なるものとなって、持参して誂えさせた部屋の調度品を共鳴させるほどであった。

 

「死におった……あやつめ、死におったか!! ザマを見よッ、妾腹の分際で、袁家の長子などとうそぶきおったがゆえに、天罰が下ったのじゃ!」

「……袁術殿」

「じゃが……じゃがこれで! 袁家はまごうことなく妾のものじゃ!」

「美羽殿っ」

 幸村のあげた声が、その狂喜を妨げた。眼を見開く

「な、なんじゃいきなり……しかも、許してもおらぬ真名など呼びおって無礼者、妾は、妾こそが真の袁家の長なるぞ」

 

 そうは言いつつも、正式に袁家の主となりしも、そうでなかった時より語気はどことなく弱い。

 ここまで表立って幸村が食い下がることがなかったというのもあるのだろう。聞く耳を持ってもらうために、幸村はあえて真名を出してまです踏み込んだのだ。ともかくも当惑した美羽の前に屈した幸村は深く頭を垂れながら言った。

 

「無礼の段、お許しあれ。されど、御身のためにあえて申し上げます。どうか、ご自身を傷つけるがごとき無理などなさいますな」

「な、何を言っておるか!? 妾は別に……憎っくきあの女が死したのであれば、むしろ喜ぶべきところじゃ! そしてそちらは素直にそれを寿げば良いのじゃ!」

 

 なるほど天下を伺う群雄として、それもまた一個の見方であろう。戦人として、そうした考え方に理解はある。

 だが年端もいかぬ少女に、そうした乱世の理を押しつけて良いものか。その理に馴れていくに任せて良いものか。

 まして、血を分けた者の死に、虚心や喜悦でいて良い訳がない。他事は知らず、せめてその一線は、越えさせてはならぬのだ。

 

「……たしかに、互いに譲れぬ信念がため、兄弟姉妹で争わねばならぬことはたしかにあります。かく言う幸村も、兄や姉と争わねばなりませんでした」

「ほれ見よ。言えた義理ではなかろう」

 

 と否定せんとかかる仮の主に

「されど」

 と幸村は続けた。

 落とした先、空の掌に、三文の古銭を幻視した。夜に兄と交わした拳の感触が、蘇った。

 

「やはり兄弟で争うのは、寂しいものです」

 

 朴訥な言葉。しかし、今幸村が彼女に捧げられるのは、その一語のみである。

 兄、信之に旧主茶々。振り返ることもあるまいと思い定めていた人々の顔が、今日はやけに思い返された。

 

「なっ、なんなのじゃ……そちは!? いつもは口やかましく言わぬくせに、このような時のみ……!」

 苦虫を噛むがごとく顔をしかめ歪む少女の目にはしかし、うっすらと涙の膜が張っている。声が怒り以外の情により震えている。

「そう、私は貴方にとっては木石のごときもの。そして紀霊殿も、戦時以外にはかくあるべしと心得、かくも寡黙に侍しておられるのでしょう」

「え、いや別に……」

「故に、ここには美羽殿以外の何者も居りませぬ。どうぞ、心置きなく」

 

 最後は何も言わず、和らげた目元にて促す。表裏比興と謳われた父とも、天下を見据える展望と柔軟性を併せ持つ兄とも違う、生来の無骨者なれども、それぐらいの気遣いは出来た。

 

「ううう、うああぁ……うわああああっん」

 ついに、目先の我欲にて秘していた少女の感情が決壊した。

 剣を打ち捨て珠のごとき涙を流し、言われた通りこの武者を木の幹にでも見立ててその首っ丈にかじりつく。

 

「何故死んだのじゃ麗羽! 何故妾を呼ばなんだのじゃ!? 我が言葉を聞け、我が国を見よ、我が大軍を見よッ、我が威光を見よ! せめてその一端なりともに触れ、敗北の言葉を口に上らせてより死ねッ、うう、うううううう!!」

 

 ぶち撒ける感情の中には、純良な想いばかりではない。

 嫉妬、悔恨、虚栄心。そう言った暗いものも深く根を張っている。だがその中心に眠るのはやはり、良くも悪くも『姉』への強い感情であった。

 

 ~~~

 

 ――実のところ、憚りないその泣き声は、部屋の外まで達していた。

 そして、急ぎ戻ってきていた七乃もその声を耳にし、愛すべき幼君が何を知ってしまったのかを悟り、その足を速めた。

 

 だが、借宿のその一室の傍まで来た時、その声が止んだ。

 代わり、可愛らしい寝息を立て始め、そっと足音を忍ばせて部屋から出て来たのは、客将幸村と実三牙である。

 

「あぁ、これは張勲殿。早いお戻りでしたな」

 嫌味もないこざっぱりとした調子で、幸村は先んじて声をあげた。

「先ほど、お嬢様の胸張り裂けんばかりの慟哭が聞こえてきたように思ったんですけど……もしかして、袁紹さんの件、話しちゃいました?」

「張勲殿も、その件でしたか」

「まぁ、孫策さんから聞いちゃいまして。でもですよ? そういう重大事は私を介してもらわないと、ねぇ?」

「それは申し訳ない。知らぬことの方が、不幸ではないかと愚考ゆえ気を急いて粗忽なことをしてしまいました。お許しあれ」

 

 幸村、これまた愚直に頭を垂れる。

 両者ともに口調は穏やかで、幸村の側は心底より謝しているのだろう。

 

 ――故にこそ、忌まわしい。到底、分かりあえぬ生き方だ。

 

「まぁ良いですよ。お嬢様もなんだかんだ平気そうですし」

「平気、ですか」

「おや、違うと?」

 自分が美羽のことで判断を過つはずがない。その自負もあって、七乃は曰くありげに苦笑したその武者へ問い返した。

 

「平気なのではなく、ただ受け入れる度量をお持ちなのでしょう。貴殿の主は、日々成長されておられる。失礼ながら、あらためてその器を見直した次第。貴殿もどうか、その成長ぶりを見守っては如何か」

「…………はいー、反省します」

「では、御免」

 

 いつになく踏み込んで来て直言を呈して来た幸村は、飄々と首をすぼめておどけてみせた七乃に暇を告げて、その場を後にした。紀霊も一礼の後、それに続いた。

 

 彼らの背を顧みた張勲の顔に、常の余裕にして鈍重な笑みはない。

「――人のいない間に、勝手な真似を」

 舌打ちとともに眇めた眼差しは、他の何者に対する以上に敵意に満ちていた。

 

 ~~~

 

 いくら零落したと言えども、袁本初は四世三公の名家の巨星であった。

 よって中身はどうあれ、その輝きと大きさが喪われたと知れた時の天下の動揺は大層なものであった。

 

「――袁紹が、死んだ?」

 

 そしてそれは、拠るべき地を喪ったある集団にとりても衝撃で、かつそれを率いる軍師にとっては挙兵よりこの方かつてない吉報であった。

 

 少女、董卓軍の実質的司令官たる詠は小躍りせんばかりに喜んだ。

 それは彼女とその友人が設定した目標が曲りなりとも達成されたというのと同時に、戦略的にも大いに意義があることであったゆえだ。

 

 北の脅威が取り払われたうえは、袁術軍の視線は東の陶謙か、南の劉耀へとより傾くことであるだろう。

 その同盟相手である曹操は曹操で、公孫賛との対決に。

 こちらの牽制に当てられた馬軍は韓遂との攻防にかかりきり。

 

 ――となれば、軍を再動させるのはこの瞬間をおいてほかない。

 月はどことなく物憂げで何か言いたそうであったが、許しは得た。確固たる地を得て身を休めることが出来れば、その愁眉を開くことができるだろう。

 

「者ども、これは国の興亡を賭けた一戦であるっ! すでに命無き者として奮励せよ!」

 張遼、徐栄以下諸将の陣頭に立った詠は、采を手に馬を棹立ちにさせて声を枯らす。

 狙うは袁術軍本拠。本来の目標たる帝都との連絡線。

 

「我らは手薄となった宛城を、あらためて制圧するッ!」


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