恋姫星霜譚   作:大島海峡

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曹操(九):手向けの譜

 曹操軍守将、許昌太守夏侯惇に、禁忌が二つあり。

 一に鏡。二に『盲夏侯』。

 前者投影されれば破壊され、後者を口にすればその者は容赦なく叩きのめされる。

 戦傷は武人の誉。それが強者相手であればなおのこと。

 しかし一方でそれは彼女の不覚の証でもあり、それが原因で愛する宗主の供が出来なかった後悔の象徴でもあったからだ。

 

 だが、袁紹の死と並行してもたらされたその訃報を耳にした後に砕かれた姿見は、殴った彼女は、不器用ながらも喜劇めいた愛嬌とは無縁の、見るも痛ましい光景であった。

 

 その様子に彼女を敬慕する許褚さえも怯えている。

 無理らしからぬことであった。

 

 冀州攻めの厄災を吸い上げたゆえの、名誉の負傷。

 それは秋蘭が戯れついでに言った願掛けであったが、そんなものは現実の戰の無慈悲さの前ではまるで意味を為さず、華琳からも春蘭たちからも半身に等しき者を奪っていった。

 もし彼女が目を欠損せず予定どおり冀州に従軍していれば彼女……曹純子和は失わずに済んだ命ではなかったのかと。

 詰まるところは、激しい自己嫌悪が故である。

 

「……どうしましょう? 正直に報告します?」

 政庁は春蘭の居室の前。次なる報せを持ってきた典韋が少しおろおろとしながら尋ねた。

「そうするしかないでしょ」

 とは、剣里の弁。それに便乗するかたちでオシュトルが言った。

「もし知らせなかった場合、その後が怖い」

 率直なその一言と、そこに結びつく容易な想像とが、武将らの意見を一決させた。

 

 注進役を買って出たのは、佐将たるオシュトルである。役割以上に、来たりうる激発に対し理性と武力両面で抑え込めるのも、彼以外の適任はいなかった。

 

「失礼する」

 鏡の他に、多くの価値あろう武具や貢物が破壊された光景にあえて触れないようにしながら、オシュトルは部屋へと足を踏み入れた。

 

「事前のロイド殿の報告どおり、董卓軍、袁術軍が手薄になったのを狙い、宛へ進行中。救援を求める早馬が、太守代行のエルトシャン殿より遣わされてきた」

「……わかった、盟約は違えん」

 

 返ってきた反応は、意外にも平静なものであった。

 だがゆらりと幽鬼のごとく立ち上るその気は、尋常のものではない。

 

「逆賊にさえなり損ねた敗残兵どもなど、撫で斬りにしてくれる」

 と静かに息まきながら剣を掴み上げた春蘭であったが、その真正面にオシュトルは立った。

 

「いや、まだ春蘭殿は傷が癒えてはいまい。此度は我らが救援に赴くゆえ、養生されよ」

「はっ、眼などとうに痛みも引いた。隻眼の間合いにも慣れた。それでもなお本調子でないと思うのなら、貴様の身で試してくれようか」

 

 元より心を許した相手以外に愛想を振りまく娘ではないが、いつに増して剣呑である。

 剣把に手をかけた彼女の腕を逆に握り返し、オシュトルは首を振る。

 

「某が気にかけているのは、眼のことではない。心の方だ」

「……」

「その私憤を以て誰を斬るおつもりか。誰の仇を討つ気か。董卓軍に、柳琳殿を斬った者が紛れているとでも」

 

 夏候惇は歯を剥いてオシュトルの襟元を絞り上げた。そのままの勢いで壁に叩きつけ、その衝撃で棚より多くの品が零れ落ちた。

 

「貴様に何が分かる!? 貴様にッ」

 オシュトルはそれを受け流すことも真っ向から相手取ることもできたが、一旦は彼女の怒れるままに任せた。

 そしてその目当ての通り、春蘭は己で今この激情の無意味さと虚しさを悟り得たようだった。

 

「どうして、あんな娘が……っ」

 あれほどに純良な娘が、乱世の犠牲にならなければならないのか、という問いかけは、嗚咽の中に沈んだ。

 

 自分の剣が護るべき人々に届かなかった無念さ、痛いほどによく分かる。少なくともオシュトル自身としてはそう思っている。

 もし生き残ったのが()であったのなら、生死の狭間にあってそう仮定しなかったと言えば嘘になる。

 

 だが、きっと武人の枠組みから出られぬ自分では、きっと自分を陥れたであろうあの賢将には太刀打ちできなかった。

 そしてより大切な者達を犠牲にしながら敗退を重ね、己のみが生き延びてしまう。それは肌寒くなるような夢想であった。

 

 ――ともなれば、やがては何も果たせなかった不義人(フギト)などと己を揶揄しながら、空しい余生を送っていたのではないか。

 

 そう思うがゆえに、暴力性の裏に秘めた彼女の恐れを知るがゆえに、今、己が胸の内に額を叩きつけて哭く春蘭を征かせる訳にはいかなかった。

 その悔恨は、無関係の相手に発散させるのではなく、将器を育てる糧とすべきだ。

 天下を資する人材たちの養成。そのために華琳は自身の右腕をあえて留守居に置いたのではなかったのか。純良なる柳琳をあえて前線に立たせたのではなかったか。

 

「そなたは曹孟徳が剣なのだろう」

 オシュトルは強い口調で言った。

「ならばその刃を私怨で曇らせるな。何者にも揺らぐことなく輝き続ける、直ぐなる一筋の銀閃で在れ」

 

 〜〜〜

 

「どうだった? 太守殿の様子は」

 どうにか部屋を出てより一番に話しかけてきたのは、上杉景虎であった。

 オシュトルが黙して首を振ると、

「そうか……」

 と我がことのように痛ましげに目を伏せた。

 

「家族が離れ離れになるのは、辛いからな」

 と感受性を隠さない面持ちで呟いた彼には、生別か死別か、そういう経験があるのだろう。

「でも、散った花のためにも、幹は枯らしてはいけない。次の春に、新しい花を咲かせるために、太く強くなければいけない」

 だから、と紅顔の若武者は拳を突き出した。

「今は俺たちでその幹を支えよう、オシュトル」

 やや青臭い言葉も、芝居がかった所作も、爽やかなこの青年がやれば、ごく自然に受け入れてしまう。

 苦笑とともに、オシュトルはその拳を打ち鳴らした。

 

「あ、そこ」

 典韋が目ざとくオシュトルの装束の一端を指で示した。

 ちょうど胸板か肩口のあたり、春蘭に哭かれたあたりで、涙の痕がにじんでいる。空の眼窩からは、悲憤のあまり血も滲んでいたのか紅いものもぽつぽつと混じっている。

 

「どうします? 出陣するならその前に、着替えたほうが」

「いや、このまま行こう。春蘭殿の無念も、柳琳殿の死も、すべて抱いて我らは戦場に赴く」

 

 そう言い放つと、許褚も典韋も、初陣の気負いも程よく抜けた表情で強く頷き返してくれた。

 彼女らを伴い、政庁を出る。

 すでにして展開を読んでいた剣里により、オシュトルを主将として戴くべく、援軍は編成されている。

 

 許褚、典韋、景虎、徐庶、李典、朱桓、久秀と黄巾残党、丁奉、オフレッサー。今こそ姿は見せないが、この軍容の裏にはロイドの隠密部隊がある。

 背より抜け出た武将らがそれらの持ち回りの兵の前に列し、その仮面の士の下知を厳かに待つ。

 

 オシュトルは息を深く吸った。

 ただし、厳命を下すためではない。

 胸中に去りし者のため、はにかみながら自分に手料理を振る舞ってくれると言ってくれた、あの可憐な娘を自分なりに送別するために。

 

 ――今はただ、安らかに眠れ。

 ――この世の果てに常世(コトゥアハムル)があるかは知らず。

 ――されどいずれまた、馳走になることもあろう。

 

 そう謳い終えた後、剣を抜き放つ。

 鍔鳴りの残響とともに諸将を引きしめた彼は、

「では、参ろう」

 と短く言った。

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