『ーー悪いな』
世界が重なって黒く変わる。
顔もしれない男がいた。
この瞬間に小鳥遊《たかなし》
「んあ、寝ちまってたのか……」
小鳥遊は目を覚ました。
心地よい風がふく河川敷。そこに彼は寝転がっていた。どうしてかなんて覚えてはいないが、きっと寝心地が良かったからだろう。辺りは赤くなり始めている。
寝そべっていると頭上に白が見えた。それは女性ものの下着である。
脳の理解が追いつかない。
「響。危ないわよ、こんなところで寝てたら」
その声を聞いて、小鳥遊は少しだけ取り乱しそうになっていた心を落ち着けた。
空色の髪をセミショートの長さに伸ばした少女。服装は黒いセーラー服と短めのスカート。
その姿には見覚えがある。
「小夜《さよ》姉……」
「オークとかエルフに襲われても知らないわよ?」
「オーク?エルフ?」
突然のファンタジーに小鳥遊は理解が追いつかない。
「何、ボケてるの?ほら、あそこに見えるでしょ、空島」
そう言って彼女は指を指して小鳥遊に教える。小鳥遊の目には確かに空に浮かぶ巨大な島が見える。
「響も戦士《ウォーリア》じゃないでしょ?」
小鳥遊には何も理解できない。いつも頼りになる小夜が突然、頭がおかしくなったとしか思えないのだ。
「ほら、帰ろ」
そう言われて、座ったままの小鳥遊の脇に腕を突っ込んで無理やり立たせる。
「あのさ、小夜姉」
河川敷近くの堤防を歩きながら、小鳥遊は尋ねる。
「どうしたの?」
「エルフとかオークって何のこと?」
「……覚えてないの?」
「いや、全く何のことか分からなくてさ」
「あの空島が出てきてから、オークとかコボルトとか出て来る様になったことも覚えてない?」
そんな事を言われても全く分からない。そんな話に現実味だなんて湧かない。小夜の言葉を信じたくとも、信じられないのだ。
「何それ、何のゲーム?」
「本当にわからないの?」
その言葉に頷いた。
どうやら、小鳥遊と小夜の間では記憶に食い違いがあるようだ。
「戦士のことも?」
「戦士?」
「異種族と戦う人たちの事」
何のことかさっぱり。聞けば聞くほどその話はどこか作り物のように思えてならない。
「はあ、どうしたのよ。頭でも打った?」
「そんな覚えはないけどさ」
そんな事をする時間なんてなかったはずだ。思い返してみてもやはり、あり得ない。
「それより、早く帰ろう。シェルターに帰らなきゃ、死んじゃうわよ」
「家じゃなくて?」
何故シェルターで有る必要があるのか。それはどことなく予想がついていた。それでも尋ねずにはいられなかった。
「私たちの家はもう無いでしょ。それまで忘れちゃったの?」
家がもう無いなんて、それは流石に信じられない。
「ーーちょっと見てくる」
だから、小鳥遊はその目で見て、初めてその情報を信じたいと思うのだ。
「ダメよ、危ない」
小夜はそう言って、小鳥遊の服の袖を引く。
「子供扱いしないでくれ、小夜姉」
そう言って掴む腕を振り解き、小鳥遊は自分の家に向かおうとする。
「……響まで死なないでよ」
その言葉に小鳥遊は家に向かおうとしていた足を止めて、小夜の方へと振り返った。
「俺までってどういーー」
その言葉は最後まで呟くことができなかった。
突然に突き飛ばされて、小鳥遊はその一部始終を目の前で見ていた。
目の前で小夜が血を吹き出しながら、二つに分かれてしまった。突然、突き飛ばされたこと。目の前で人が血だらけになっていくこと。その二つが要因で、小鳥遊の声は尻すぼみになっていき、そして搔き消える。
「脆いナ、人間ハ」
「……何だよ、それ」
小夜を切り裂いた正体を見た瞬間に、全てが真実であると理解した。何もかもが繋がった。確かに小夜は嘘をついていなかった。
小鳥遊の目の前には豚鼻の桃色の巨人が立っていたのだから。
「アア、しまっタ。殺シてしまっタ」
その手に握る、小鳥遊以上の大きさのある斧を振るい、付着した血を払う。
「女は生け捕リダって言われテタのニ」
「なあ、何だよそれ……」
信じられない。信じたく無い。あのままであれば小夜は死ななくとも良かった。彼女が死ぬ必要なんてなかった。
「小夜姉!」
「ーーごめんね……、響。一人にしちゃうなんて、私最低だ……」
違う。
そんなわけがない。
いつだって頼りになるのが小夜だ。そう言いたかった。それでも喉の奥が張り付いたかのように苦しそうな息が漏れるだけだ。
「響はちゃんと生きて、ね……」
血だらけの手で小鳥遊の頬を撫でる。斜めに切られた体は内臓ごとすりつぶされたかのように断面はぐちゃぐちゃで、それは見ていて気分が良いものではない。
これでは生きていられない。どれだけの医療技術があったとしても、直すことなんてできるわけがない。
「あ、ああ……」
こみ上げてくる吐き気と嗅覚を蹂躙する鉄の匂い、視界は赤一色に染まる。
小鳥遊はその場で嘔吐した。耐え切れなかった。気持ちが悪かった。
そして、それは思わぬ結果を引き起こす。
「臭イ、臭イゾ!」
吐瀉物の匂いと血の匂いが混じり合ってそれは、さぞ最悪な匂いだったはずだ。オークの鼻は人間以上に効き、その臭いに鼻をつまむ。
「ああああああああ!!」
叫んで逃げる。
逃げながらに叫ぶ。ダメだ、嫌だ、怖い。そんな感情に支配されている。
「小夜姉っ、小夜姉っ!」
叫んで、その存在を思い返してもどうにもならない。失った者、モノ、物。その全てが取り返せないのだと理解する。
「待て、小僧!」
オークが黒髪の少年を追いかける。
「っ!」
オークはその巨体に似合わず凄まじい速度で小鳥遊に迫る。その大きな腕が小鳥遊の背中に届く。そう思った瞬間にゴトリと鮮血を撒き散らしながら、オークの伸ばした左腕が落ちた。
「ちっ、オークかよ。つまんねぇ。しかも弱えやつかよ。経験値少なっ。レベル上がんねぇしよ……。ついてねーな」
柄が悪い、男だ。ワイシャツを着崩した赤髪の男。年齢は小鳥遊より少し年上くらいだ。
「ははっ、オークに追いかけられて泣いてんのかよ、ダッセー」
馬鹿にしたような態度で彼はハルバードを振るって血を払いながら来た道を戻っていく。
「ーーいって……」
その途中で小夜の死体に躓く。
男が下を見て、それを確認すると小夜の体を蹴り飛ばした。
「こんなところで死んでんじゃねぇよ、邪魔くせえ」
それが許せなかった小鳥遊は男の背中を追いかけてその肩を掴んだ。
その瞬間に地面に叩きつけられた。
「触んじゃねぇよ、雑魚が」
そうして男は去り際に唾を吐きかける。
「うぐっ、あぁあ……」
あまりの悔しさと、不甲斐なさに自らの目を隠すように両手を押し当てる。その下には涙が浮かんでいたのだろう。