人が全力で走る時とは、一体どういう時か、どう答えるかはそれぞれである。それは約束に遅れそうになるとき、特売セールが始まる前、電車に乗り遅れそうなとき、そしてーーー。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
ーーー何かから、逃げるとき。
葵はこの日、黄昏時のこの時間、人里の裏小路を全力で駆けていた。先ほども述べた『何か』、葵を追っているのは黒く燃えるような赤い目を持つ大きな犬に、追われている。当然、追われるだけなら空を飛べる葵は有利で、いくらでも逃げる事ができる。にも関わらず、それをせずに逃げているのは、何も犬にハンデを与えているからではなく、『飛べない』からである。
今現在、葵は理由もわからず、飛べない状態にある。ハンデを与えるどころか、葵に不利な状況である。そして、今は葵の側にいつもいるルカや鬼灯、想起はいない。葵としては、絶体絶命な状態にあった。
***
そもそもの始まりは夏真っ盛りなこの日、葵が慧音の頼みを受け、寺子屋で先生をし、その後に貸本屋へと行った際、小鈴に誘われ阿求の家へと遊びに行った事から始まった。
勿論、慧音の頼みは役に立つならという思いで行い、小鈴の誘いには「私が急に行ったら迷惑なのでは……」と断るも小鈴に押し切られる形でついて行ったのだが、そこはなにもおかしな事はない、葵にとってのいつもの極々普通な日常である。少し違うといっても阿求の家に遊びにいっただけなのだ。そして、話に夢中になりすぎて、帰りの時間が黄昏時になってしまっただけだった。
「葵さん、今は黄昏時ですから、帰りは気をつけてください」
阿求からの忠告も聞き、早く帰ろうと人通りが多い道を通り、神社へと帰る道を通っていた。そんな時、葵の耳に密かに聞こえる獣の唸り声。思わずその声の聞こえる後ろへと振り向けば、漆黒の毛に燃える赤い瞳を持つ大きな犬が、葵を見つめて唸りを上げていた。
初め、葵は人里を襲う為に訪れた妖怪か、もしくは餌をもらう為に来た野犬かと考えたが、しかし人里の人々は、まるでそんな犬などいないように見向きもしない。いや、それどころか、中にはその犬の体を通り抜ける人もいる。しかし、通り抜けたその瞬間、その人々の顔は青白くなり、巫女である葵から見れば、その犬が、通った人の生気を見境なく吸い取っていることがわかった。
その瞬間、葵は自分を狙っているのだとわかっているからこそ、人が逆にいない路地裏へと走り、犬をおびき寄せた。
葵の狙いとしては、まず人のいない場所までおびき寄せたあと、結界と鬼呪封印を使って拘束し、その状態のまま妖怪の山へと返す算段だった。それが、自ら『罠』へと飛び込むことになることも知らずに。
少し走り、そして人がいないことを確認し、その場で結界と鬼呪封印で犬を拘束する。そこまでは葵の作戦通りだった。しかし、そこから一度飛ぼうとしたが、葵は飛ぶことができなくなっていた。
「え!?な、なんで……」
もう一度と、今度は昔、初めて飛んだ時のように、自身が鳥となって飛ぶイメージを頭に浮かべながら霊力を流せば、しかし飛ぶことが出来なかった。
「なんで……どういうこと?」
葵は混乱した頭のまま考えようとするが、さらに葵にとって不利な状況が起こる。
黒犬が、黒色の弾幕を作り、それを飛ばした。そしてその弾幕が結界に触れたその瞬間、葵の結界がいとも容易く粉々に割れてしまったのである。
「!?」
葵はそれに目を見開いて驚きながら、四重結界を自身の周りに張り、頭の抱えるようにして座る。結界はやはり触れた瞬間に粉々に割れ、葵の頭上を真っ直ぐに飛んでいった。それを確認し、今度は黒犬をみれば、犬を縛っていた札が黒く染められ、地面へと全て落ちており、それに縛られていたはずの黒犬は、不気味で歪な笑みを浮かべながら、葵を見ていた。
それを視認した途端、葵は背筋がゾッと泡立ち、まるで跳ぶようにしてその場から走り出した。犬もその後を追う。そうして出来たのが初めの状況である。
葵も追われ始めて時間が経ち、少し頭が冷静になりましたが、だからこそ、不可解に思うことがあるのである。
(この裏小路、こんなに出口が見つからないものでしたっけ……?)
今の状況は葵にとっても好ましくなく、このままでは一方的にやられる状況にある。葵も反撃が出来るのであればしているのだが、生憎と彼女に攻撃の才能は皆無、反撃だろうが妖怪だろうが敵意ある獣だろうが、それが相手に怪我を負わせる行為は、カウンター効果のある結界以外、葵には出来ないことである。あの弾幕でさえ、補助効果をつけなければ打てないし、ましてそれで相手にダメージを与えれるわけでもない。そして、相手の能力を下げるような効果付き弾幕は、あの犬には効果がないことは実は実証済みである。
だからこそ、葵は迷惑をかけることを頭の中で謝りながら慧音の住む家へと向かうため、裏小路を出ようと必死に走っているのだが、いくらは走れど出口は見えて来ず、葵の体力が減るばかりである。
それを理解したからなのか、黒犬はそこで後ろからあの黒弾幕を撃ち始めた。それも、葵にはもっとも効く、穢れが大量に詰め込まれた弾幕である。
葵自身も、巫女としているのにこの耐性のなさは駄目だろうと考え、なんどか耐性を付けようとしたが、結局それらは失敗し、そして現在の結界で防ぐ戦法が出来ていたのだが、今の相手はその結界さえいとも容易く壊す。葵を防ぐ壁は、防御の役割も果たせない紙も同じである。そんな状態だからこそ、葵はその弾幕に当たらないように避けながら走り続ける。そうして、ようやく目の前に出口が見えた。
(!早く、早く出ないと!)
葵はそこからまた力を振り絞り、全力で駆け出す。それを弾幕を撃ちながら追う犬。その弾幕は、葵が出口を出る直前、葵の肩を擦ったが外れてしまい、葵も無事、裏小路から出ることが出来た。
***
まず結果から言えば、裏小路を出たと思ったその場所は、葵が犬に追われて入った入り口で、結構な追いかけっこをした事を考えればすでに夜になっていてもおかしくないのだが、時間は黄昏時のまま、過ぎていなかった。
それに驚愕するも、葵の頭はすでに疲れからか働かず、重い体を引きずって神社へと帰った。そんな葵を見れば、ルカも鬼灯も想起も心配し、普段の葵の仕事を率先してやり、葵は休むことになった。そして、その夜、神無月神社での縁側では、鬼灯がレティシアにその事を話していた。
「……なるほど。そんなことがあったのね」
「……珍しく真面目だな、レティシア」
月見酒をしながら話していたが、いつもはクスクスと胡散臭い笑顔を向けるレティシアが真面目に答え、鬼灯はそれに少しだけ茶化しを混ぜながらしかし同じく真面目な態度で返した。
「……レティシア、お前、人里で起こってたこと、認識していなかったのか?」
「それは貴女もでしょう?……でも、そうね。人里でそんなことがあれば、ある程度は私も知る事が出来るけれど、今回はそれを認知出来なかったわ」
「私もだ。そして、お前が出来なかった以上、紫の奴もだろうな」
「もしかしたら、あの茜にも出来なかったかもしれないわね。というか、出来てないわね。存在を認識出来ていれば、まず間違いなく紫に連絡が行くはずだもの」
「……今、何が起こっているんだ?」
「……明日、その場所を調べましょう」
「……そうだな」
その次の朝、鬼灯とレティシア、そして紫は、葵が通ったという裏小路を調べに人里まだ来ていた。が、しかし三人はその入り口手前で足を止めて路地を見つめた。その先にあるのは、黒い毛並みの大きな犬の死体。
「……アレが、葵を襲ったという犬だろうが……死んでいるな」
「ええ。とても分かりやすく腐敗臭がしますもの。むしろ、これがどうやって葵を追ったのか、知りたいものですわ」
「……」
レティシアは犬に近付き、見つめ、情報を読み取り始める。
「……死んだのは外ね。いつかは分からないけれど……山の中、野犬ね。そこで寿命がくるまで生きたみたい」
「やはり、この犬がどうやって葵を襲ったのか、謎ね」
紫は珍しく真面目な顔で考え出した。
「……鬼灯から聞いたときは、『ブラックドッグ』かとも思ったけれど、その場合、そもそも死体は残らないし、何より葵を裏小路にずっと閉じ込めておくことも、ましてあの結界を紙同然に壊すことも出来ないわ」
「それが能力の可能性は?」
「否定はしないけれど、『ブラックドッグ』の能力の中に、『犬に憑依する』なんて意味の分からない能力があるかしら?」
「犬限定じゃなくて、他の動物も可能かもしれないわよ?」
「それもそうね。けれど、『ブラックドッグ』は妖精の一種。死ぬことはないし、消されれば少しの間出てくることが出来なくなる。そんなリスクを負うようなこと、やはりするとは思えないわね」
「……レティシアはどう考えているんだ?」
鬼灯がずっと背を向けて犬を見続けているレティシアに問えば、真剣な声が返される。
「……そうね。私は、これは『ブラックドッグ』もどきだと思うわ」
「ブラックドッグ『もどき』?」
「ええ。正確に言えば、誰か、第三者にこの死体は使われ、操られ、その上で第三者は葵を閉じ込め、飛べなくし、逃げられないようにした。とても悪質な計画的犯行ね」
「……それ、葵の力の方が上だった場合、閉じ込めることも出来なかったぞ」
「ええ。けれど、戸惑いがなかったようね。つまり、相手は自分の方が葵の力より強いことを知っていた……まず、人里の人達のせいじゃないわね」
「可能性はあるが、しかし確かに、難しいな」
「となると……妖怪?」
「……」
紫の言葉に、レティシアは答えなかった。それは否定も出来なかったが肯定もできなかった。何より、レティシアの中で、何かが語りかけているのである。『これはお前も知ってるやつの犯行だ』と。
(……もしかして、『アレ』の所為?けれど、『アレ』が葵を狙う理由は何?)
レティシアは頭の中でぐるぐると回り続ける思考を止めずに、鬼灯に伝える。
「……鬼灯」
「なんだ?」
「……暫く、葵をちゃんと見ておいて」
「…………分かった」
鬼灯はレティシアが何故そういったのか、その理由は聞かなかった。何故なら、この場で何より、レティシアが信用出来るからである。あのレティシアが、理由もなしに身内を疑わせるような行動を取らせる筈はないと。そして、身内である鬼灯にそれを言うのであれば、それは遠回りに紫にも手伝うようにとの達しでもある。
鬼灯と紫は互いに頷きあう。そして、その日は此処で解散となった。
その姿を、黒猫が見ていたことも知らずに。