「愛してる」、をくれたのです。
失ったはずの右の目に、昨夜も夢を見た、そんな気がしていた。
それは遠く、しかし決して離れた場所ではない。ふとした時には思い出せる距離で、さして時間の経っていない記憶。
目が覚めてしまえば、夢は消えてしまう。寝ている間の映像は不鮮明だ。ひとたび起きてしまえば欠片も残りはしない。
あれはいつのことだったろうか。
一つ、たった一つだけ、憶えていたのは。
この腕の中に抱き留めた、温もりのことだった。
「――ま」
微睡みから少しずつ、意識が現実へと戻ってくる。軍をやめて以来、どうにも目覚めが遅くていけないとは、薄々感じてはいた。特に、ここ数か月は尚更。肩に触れられれば、あるいは靴音だけでも目を開けたのに、今は朝陽の色に少しずつ溶かされながら、夢を忘れつつ、目覚めていく。
「――な――ま」
どこかで鈴の音がする。ああそれとも、これは笛の音だろうか。あるいは単に、ガラス細工のコップを、子供が悪戯で鳴らすかのような。玲瓏な響きに耳を傾ける。ああ、なんて澄んだ、美しい音なのだろう。どれ程の名演奏者がこの音を奏でるのだろう。春の陽射しに包まれるような、柔らかな音の調べ。
「旦那様」
――ああ、いいや。違うな。
それが声だと、ようやく気づいた。そしてそれが、自分を呼んでいる声なのだとも。意識を少し現実へ近づければ、寝転んでいるベッドに誰かが手をつき、私の体を揺すっているのがわかった。
それがまた、不可思議な揺すり方だった。加減がわからないのか、野花でも撫ぜるような微かな揺すり方をする。かと思えば、夏に打ち付ける荒波の如く体を弄ばれる。そんな、何とも可笑しな起こし方に、私の意識は急速に現実へと引っ張られていった。
重たかった左の瞼を開く。
夢から私を引き上げた彼女は、島自慢の海にも負けずに澄んだ蒼い瞳で、こちらを見つめていた。
ゆるるかに揺れるのは金砂の髪。鼻先に触れそうな近さの髪からは、微かに整髪料の香りが漂う。
「旦那様」
私を呼ぶのは薄桃色の唇。細く薄く、けれど年相応に潤んだ唇が、澄んだ音色を奏でている。
ヴァイオレット。私がそう名付けた少女は、林檎色の頬をして私の顔を覗き込み、不器用な手つきで体を揺すっていた。
「お目覚めですか、旦那様」
目が合ったヴァイオレットは、微かに笑う。それこそ、本当に笑ったのかどうかがわからないくらい。よく見ていなければ見逃してしまうくらい。けれどその口角が、確かに持ち上がっているのを、すぐ近くにいる私は見て取ることができた。
「おはよう、ヴァイオレット。――すまない、起こしてくれてたのか」
「おはようございます。ええ、その――待っていたのですが、そろそろお時間が」
壁掛け時計を目で示すヴァイオレット。時計の示す時刻は、彼女の出勤する時間にはまだ余裕がある。けれど、毎朝の準備のことを考えれば、彼女の言う通りそろそろギリギリだ。
「ああ……とことん緩み切っているな、私は。全て君に任せっきりだ」
ヴァイオレットの助けを借りて体を起こした私は、情けなさ由来の恥ずかしさで頭を掻く。そんな私の様子に首を傾げ、ぱちくりと瞬きを一つした彼女は、
「いえ、お気になさらず。――旦那様の寝顔という、報酬もいただいていますので」
覚えたての冗談を、今度は満面の笑みで、囁くのだった。
隻眼隻腕の私にとって、朝の支度というのは一苦労だった。
まず、距離感というのがうまく測れない。それから片手では、シャツに袖を通して、ボタンを留めるだけでも多大な集中力を要求される。寝間着から着替えるだけでも、一人では最低三十分の時間がかかった。
ヴァイオレットは、そんな私の支度を、毎朝手伝ってくれた。
最初のうちは、ベッドに横たえた体を起こすところから、寝間着を脱がして、シャツを着せてと、全部がヴァイオレットに任せきりだった。ズボンまでやらせるのはさすがに気が引けたから遠慮したが、結局半ば強引に脱がされた。下着だけは自分で取り換えた。そんなやり取りがしばらく続いた。
今は少し違う。
「――終わりました、旦那様」
「ああ」
私の背後へ回っていたヴァイオレットが、離れる気配がする。朝起きて、彼女が真っ先に私へ身に着けてくれたものを――鈍色をした金属の手を、私は改めて見つめる。
試しに、親指を動かしてみる。動いた。
人差し指も動かしてみる。動いた。
中指、薬指、小指、全部を動かしてみて、どれも問題なく動くことを確かめた。
「問題なく、動くな」
「はい。問題なく動きます」
薄明の髪を陽射しの中で揺らして、ヴァイオレットは笑った。
インテンスの戦いで両腕をなくしたヴァイオレットが、そうしたように。今は私も、機械仕掛けの義手を相棒としている。兄さんからの強い勧めがあったからだ。
――「女一人、抱きかかえてやれないでどうする」
手紙に綴られた言葉は相変わらずの調子で、しかしそれがどうにもむず痒く、そして無性に喜ばしかったのを今でも覚えている。
義手をすることには、ヴァイオレットも賛成していた。彼女の義手も用立てた職人の下で世話になり、初めて義手をつけた時には、
――「少佐とお揃いです」
と、何とも無邪気に頬を染めていた。
義手のおかげで、随分と生活は様変わりした。
まず、朝の支度に使う時間が、随分と短くなったし、自分一人でもできるようになった。ある程度片手間でもボタンを留められるようになって、そうするとちょっとした言葉を交わす余裕が産まれた。島で代筆業を続けるヴァイオレットも、そんなちょっとしたおしゃべりに付き合ってくれた。
料理ができるようになった。……いいや、これは少し――かなり、語弊がある。元々まともに料理なんてしたことはなかった。カルボナーラ一つ、作ることさえできなかった。この点に関しては、私はまだまだヴァイオレットの足元にも及ばない。せめてオムレツくらい、作れるようになりたい。これはこれからの課題だ。
ブドウの収穫もできるようになった。右手で鋏を使って、左手で葡萄を支える。瑞々しい果実を扱うのはまだおっかなびっくりだが、郵便業の合間にやって来たヴァイオレットが隣にいたりして、それに言葉にはできない幸せを感じている。
兄さんの言ったように、ヴァイオレットを抱きかかえることもできた。かつてそうした時は、細くて軽い体に驚いて、そして震える瞳でこちらを見る小さな存在に、ただ笑いかける他なかった。数年の時を経て、立派に成長したヴァイオレットは、その時間の分と義手の分だけ重みを増していて、私の腕には収まりきらず、しかし翠玉の瞳だけは、あの頃と同じように私を見つめていた。けれどしばらくすると、ヴァイオレットは薔薇色に頬を染めて、そんな顔を両の手で覆い、微かな声で「幸せです」と呟いた。私はそんな彼女に、ただ笑いかける以外のことができなかった。
――変わったと言えば。
「朝食の支度もできていますよ、旦那様」
ヴァイオレットからの呼び方も、いつの間にか変わっている。
――「少佐」
私を見つめるマリンブルーの宝石は、いつも私を、その肩につけた階級で呼んでいた。
再会してしばらくも、ヴァイオレットは私を少佐と呼び続けていた。軍をやめている私をそう呼び続けるのも何だか妙だなと思っていたが、それがある日、「少佐」から「旦那様」に変わっていた。
「ヴァイオレット――」
どうして、私を旦那様と呼ぶんだ。そんなことを訊きそうになって、慌てて口を噤んだ。
今更、確かめることではないはずだ。
「旦那様?」
ヴァイオレットはまたも首を傾げている。かぶりを振った私は、彼女の用意した朝食の前に腰掛けて、わざとらしい言い訳を考えた。
「ああ、いや、なんでもない。君の名前を呼んでみただけだ」
「そう、ですか」
不思議そうにしながらも、ヴァイオレットはそのまま席に着いた。二人きりの朝食が始まる。
きつね色のパンに、ママレードを塗る。まだ慣れない右手の扱いに苦戦し、眉間に力を入れながら、慎重に、明るい黄色のジャムを広げた。そんな私に、ヴァイオレットは穏やかな微笑を向けていた。
「どうしたんだ?」
「いえ。旦那様が、ママレードを塗っています」
「……ああ。私はママレードを塗っているよ」
「はい」
何とも中身のない会話と、端から人が聞いていれば思うかもしれない。しかし彼女に限って、それは違う。
ヴァイオレットは確かめているのだ。ただ目の前の出来事を、ありのまま言葉にして、そうして確かめている。
何を確かめるのか。
それは、多分、私という、存在のことだ。
「君は塗らないのか、ヴァイオレット」
「私も塗ります」
「そうか。――なら、君の分も、私が塗っていいだろうか」
ヴァイオレットの前、まだオレンジのドレスをまとっていないパンに目を遣った。彼女はわずかに迷う素振りを見せた後、こくんとその首を振る。左手を伸ばして彼女のパンを取り、スプーン山盛りにすくったママレードを、こんがり焼けた茶色いパンに乗せた。スプーンの腹で、ママレードを薄く広げると、柑橘類独特の、つんと鼻をくすぐる甘い香りが漂う。
「できたよ、ヴァイオレット」
「――旦那様に」
私の手からパンを受けとりながら、ヴァイオレットはぽつりと呟いた。朝陽を反射する黄色い宝石を、同じように朝を宿した翠の瞳が、穏やかに見つめている。
「旦那様に名前を呼ばれるのは、嬉しい、です」
「……そうか」
「私の名前は――ヴァイオレットは、旦那様にいただいた名前です。それがまた、一層、嬉しいのです」
「……そうか」
ヴァイオレットはなお、ママレードの塗られたパンを見つめている。翠玉を嵌め込んだ瞳を揺らめかせ、内なる輝きを映しこんで、ただ静かに。
その瞳を、同じように、私も見つめていた。
「旦那様には、たくさんのものをいただきました。ヴァイオレットという名前も。ママレードの塗ったパンも。数えきれない言葉も。代えがたい温もりも。――このブローチも」
彼女の胸元に輝く、エメラルドのブローチ。かつて少佐だった私が、彼女に贈ったものだ。それを、彼女はずっと大切に、持っていてくれた。
「『愛してる』も、くれました」
薄い唇が開いて、ママレードの乗ったパンにかじりついた。小さな口と同じ大きさの歯形がパンには残って、その欠けた分を口に含むヴァイオレットは、微かに口角を上げながら咀嚼する。二口目も、三口目も、彼女は同じようにしていた。
――「愛してる」
インテンスの戦い。薄らぐ意識の中、私はただその言葉だけを、彼女に伝えていた。伝えたかった。伝えなければと思った。そうすると、自然と口は動いていた。
ずっと、愛していた。初めて彼女をこの胸に抱いた時から、ずっと。
「愛してる」、をくれたのです。
ヴァイオレットはそう言う。
でも、少し違うんだ。
これほど人を愛したことはなかった。
これほど人を愛したいと思ったことはなかった。
だから、ヴァイオレット。どちらかと言えば。
「愛してる」のその言葉を、君が私にくれたんだ。
君が私にくれた感情を、私は君に、伝えたかったんだ。
二人きりの朝食の時間は、あっという間に過ぎていく。皿を片付けて、それぞれの仕事道具を詰めた鞄を取り、二人揃って家を出た。島の学校へ向かう私は、今日は代筆を頼まれているというヴァイオレットを途中まで送り届け、別れた。
手袋をした手を振って、ヴァイオレットは歩いていく。彼女は
私に「愛してる」をくれた君だから。君はきっと、たくさんの人の「愛してる」を汲み取る、よきドールであるだろう。