ディートフリートのお話。
「いやぁ、それにしても。今日はここ数年で一番の、綺麗な青空ですなぁ」
―――――
人間とは、学ばない生き物なのだなと、決して反省などしないのだなと、そんなことを考えていた。
美しい碧をたたえる、ライデンの海。風もなく、波も小さな、穏やかな海。その海を、鋭利に研ぎ澄まされた鋼鉄が割いていく。海軍伝統のバウ・スプリットも、ドルフィン・ストライカも、一切を排除した直立艦首に、風情などありはしない。鈍色の舳先はただ乱暴に、残酷に、容赦なく、身勝手極まりないエゴで蒼海を砕いていく。その様を眺めていると、どうしても、眉間の強張りを消し去ることができなかった。
エメラルドグリーンの海には、いつだって弟の姿が重なる。そして遠い水平線のマリンブルーには、最近彼女の姿が重なるようになった。
今日という日は、そんな二人の、新たな門出の日であり、あたかもそれを祝福するような青空を、我ながらきつい表情で見つめていた。
「浮かない表情ですなぁ、大佐」
そんな顔を見られていたのか、隣に立つ男が俺にだけ聞こえる声で話しかける。鋼鉄の檻のような艦橋の中、付き添いとして俺の隣に立つ中佐は、肩幅に開いた足を踏ん張り、やたらといい姿勢でこちらを見ていた。
「物思いに耽るとは珍しい。本艦に、何かご不満な点でも?」
「いや、なに。――あれだけの戦争を経験しておきながら、我々は全く、反省する気などないのだと思ってな」
空と海の彼方へ向いていた意識を、すぐ目の前の現実へ戻す。俺が立つのは、鋼鉄の箱、その中。
ライデンシャフトリヒ海軍が産み出した、
直立不動の中佐は、やはり俺にだけ聞こえる笑い声を小さく上げ、答える。
「大佐らしいお言葉です。――元造船技官として言い訳をさせていただきますと、本艦含めた新鋭戦艦の建造計画が立ち上がったのは、戦争が終結する一年前。まだ、講和の糸口すら、掴めていなかった頃です。本艦の建造は、時流としては必然だったかと」
「……だとしても、だ。戦争が終わってなお、こんなものを造る海軍も、それを止められない我々も……随分と愚かなものだな」
「容赦ないですなぁ。――しかし、なるほど。大佐のおっしゃることも、一理ある」
中佐がそう言って目を細めた瞬間、百雷にも勝る砲声が艦上に轟いた。新鋭戦艦の主砲が、右舷に向けて砲炎を噴き上げた瞬間だった。右舷へ指向可能な四基の連装主砲塔、その内の右砲が、揃って彼方の目標へ砲弾を撃ち出す。幸いというべきか、目標は敵の水上艦艇ではなく、ただの浮標だ。今日は海上公試。完成したばかりの新鋭戦艦の、その性能を確かめる通過儀礼だ。主砲の射撃も、その一環に過ぎない。
つんと漂った硝煙の香りに、思わず天を仰いだ。しかし、目にしたかった空はそこにはなく、俺の前には、無機質な鋼鉄の天井が広がるばかり。
ああ。ここは鋼鉄の牢獄なのだ。やはり空は見えない。
そして、やはり。雲一つない澄んで晴れ渡る空の蒼にも、光と命をたたえて育む海の碧にも、俺という男は相応しくない。
「――『Fleet in Being』」
砲声が収まる頃、特に前置きなく、中佐が口を開いた。見えない天を仰ぐのをやめ、俺は視線を彼へと戻す。
「……なんだ、それは」
「父がよく口にしていた言葉です」
中佐の父といえば、それなりに名の通った海軍軍人だ。多くの
先人の言葉が、妙に耳に引っかかった。
「どういう意味だ」
「『動かざる艦隊』、あるいは『静かなる海軍』といったところでしょうか。海軍の意義とは、戦うことではなく、ただそこに存在し続けることにある、と」
現場主義者らしからぬ言葉に、ほうと、思わず感心する。続きを促すと、中佐はさらに言葉を繋げた。元から、話をするのが好きな
「我々は、確かに軍人ですが――多くの者は、大佐と同じように、戦闘を望んではおりません。戦えば誰かが死にます。それは自分かもしれない。自分でなくても、誰かの命が代わりに奪われる。最初から、負けが決まっている勝負です。そんなもの、誰も望んではいないはずです」
軍人らしからぬ言葉を聞いているのは、この場では俺だけだ。咎めはしない。しかし、それ以上の言葉を遮るかのように、新鋭戦艦の主砲が二度目の咆哮を上げた。砲声が収まるまでの間、中佐は目を細めて黙る。
雷鳴の余韻が消えると、彼はまた口を開いた。
「ですが、我々は軍人です。軍人が平和を望むのなら、そのために選ぶ手段は、最も現実的で、最も非人道的で、最も非平和的にならざるを得ない。すなわち、より強大な武力を保有することで、敵が侵攻しようという意志を削ぐ」
「抑止力、だな。それが『Fleet in Being』か」
「半分は。残り半分を、父はこう言っておりました。『俺が望まない限り、俺の
彼女、と中佐はいつでも船をそう呼ぶ。あたかも自分を戒めるかのように。そして今は、その響きが俺の中にも深々と突き刺さる。
彼女は武器だ。かつて俺がそう断じた――そう思おうとした少女の姿が、頭を過った。
ふと、俺は中佐に、尋ねてみたくなった。
「では――武器が意志を持ったら、どうなる」
中佐は、一瞬目を見開いたのち、特に考える素振りもなく答える。
「さて――どうでしょうか。案外、戦争を嫌って、戦いを拒み――愛することを、選ぶかもしれません」
断定しない言葉ではあったが、どこか確信じみたものを、感じずにはいられなかった。
それからしばらくは、お互いに無言だった。ただ艦橋に立ち、次々に撃ち出される主砲の砲声を、聞いていた。
それも一段落する頃、改まって中佐が口を開く。
「しかし――やはり、今日の大佐は珍しい。職務中に、これほど私のおしゃべりに付き合ってくださるとは。何かあったのですか?」
「いや……別段、何もない。たまたま、今日はそういう気分だっただけだ」
「さようですか。たまたま、ね」
含みを持たせた笑みが、俺を見ている。常々思っているが、俺などより余程、この男の方が冴えているし、切れる。しかも、それを完璧に隠しながら、しかし時折冗談めかして混ぜ込んで見せてくる、性格の悪さ。
大きく息を吐き、目を逸らす。それをどう解釈したのか、中佐は半歩俺の方へと近づき、さらに小さな声で――蒸気タービンの音に紛れそうな囁きで、言った。
「……そういえば、今日は弟君の――ギルベルト・ブーゲンビリア元陸軍少佐の、ご結婚式のはずでは?」
思わず目を見開いた。大きな声を上げそうになり、慌ててボリュームを下げる。
「な――ぜ、貴様がそれを知っている」
「これでも一応、大佐の右腕を自負しておりますので。大佐のご予定は、なんでも把握しております」
「……物好きめ」
せめてもの抗議で吐いた悪態は、朗らかな笑みに軽々と流された。
中佐は、尚も小さな声で、話を続ける。
「生きていらっしゃると聞いた時も驚きましたが、まさか心に決めた方までおられるとは。お相手は確か、」
「ヴァイオレット。ヴァイオレット・エヴァーガーデンだ」
中佐よりも先に、彼女の名前を口にした。
碧い瞳の女性。ギルベルトを、ずっと探していた少女。一度はあいつを失い、挫け、悲しみ、それでも生きて、忘れず、願い、信じ、そうして再会できた女性。ギルベルトが、憚ることなく愛を注ぐ、女性。
言葉を遮ったことに気を悪くした様子はなく、中佐はやはり微笑を張り付けたまま、さらに小さな声で続けた。
「元少女兵で――以前、大佐が拾い、弟君に預けた少女、ですよね」
……嫌なことを、思い出させる。俺は返事をすることも、頷くこともなく、自分の足元に視線を移した。
「行かなくて、よろしかったのですか」
一番、訊かれたくなかったことを、中佐は口にした。軽く睨んでも、この男には無意味だ。涼しい笑顔で全て流されてしまう。半ば諦めて溜息を吐くが、中佐が追撃の手を弱めることはなかった。
「海上公試など、お断りしてもよかったのに。私だけでも事足ります」
ぐうの音も出ない、正論だ。海上公試への誘いはあったが、断るのは簡単だった。事実、忙しさや私事を理由に断ったことは何度もある。それで、俺の心証が悪くなることもない。
だが、今回ばかりは――今日ばかりは、俺はここへいなければならないのだ。
我ながら、自嘲気味な笑みが漏れる。
「……行けるわけがないだろう」
そうだ、行けるわけがない。行ってはいけないのだ。俺のような男は。
強く、両の拳を握る。
ギルベルトにも、ヴァイオレットにも、多くのものを押し付けてきた。都合の悪いもの、全てを二人に押し付けた。いらぬ苦労を、全て、全て、押し付けた。
俺が、二人を、不幸にしたのだ。
例え今、二人がめでたく結ばれようと、その事実に変わりはない。二人の門出に、これからの幸福に、俺という男は必要ない。いてはいけないのだ。俺がいては、また、二人が不幸になるかもしれない。
ようやく、自由になったのだ。ようやく、愛することができたのだ。ようやく、幸せを掴めたのだ。
もう、それを、壊してほしくない。どうか静かに、けれど確かに、愛を育んでほしい。
本来、その願いすらも、烏滸がましい。
「……なるほど。拗らせていらっしゃる」
どこまで悟っているのか。あるいは全て知った上で言っているのか。どこか呆れ気味な響きを伴う中佐の言葉に、今度こそ本気で睨みつけた。しかし、やはり彼に効果はなく、剽軽に肩を竦めて微笑を作り、中佐は別の方へと顔を向けた。近くにいた男を、彼は呼び止める。
「通信長。一つ、頼みがあるのだが」
「はっ。いかがされましたか」
それまでの微笑を隠し、真面目腐った表情を作る中佐は、やはりわざとらしく腕時計を確かめた。直立不動の通信長へ、彼は口を開く。
「実は、司令部宛に電文を打つことになっているのだが」
「はっ。すぐに電信室へ伝えます。文面は、なんと」
「それなんだが……なにしろ、極秘の文面でな。私の職権では、君に内容を告げることもできない。悪いが、電信室まで案内してくれないか」
中佐の言葉は、全て初耳だった。何も聞かされていない俺は、ただ黙ってそのやり取りを聞いていた。だが、そんな俺を、中佐は手招く。
「さ、大佐。急いで参りましょう」
彼に急かされるまま、俺は艦橋を後にした。
「どういうつもりだ」
電信室への道すがら、目線だけで尋ねる。しかし返ってきたのは、軽やかなウィンクが一つ。「任せてください」とでも言いたげな所作に、気づかれないよう溜息を吐くしかなかった。
案内された電信室から人払いをし、近代軍艦らしく通信機器が敷き詰められた部屋に、俺と中佐だけが残される。人がいなくなったのを確かめると、中佐は早速、並んだ通信機を弄り始めた。無線電話はすぐに立ち上がり、受話器を肩と頭で挟んだ中佐は、メモ帳を器用に開いてダイヤルを回す。
「――もしもし。ああ、そうだ、私だ。――ああ。――ああ、そうだ。手筈通りに頼む。――ああ。――よし、繋いでくれ」
交換局に問い合わせていたのだろう。短いやり取りの後、中佐は再び黙る。その目が、メモ帳と腕時計を、交互に行ったり来たりしていた。
一分ほどがして、ようやく、中佐が口を開いた。
「――もしもし。――はい。――はい、そうです」
丁寧な口調からして、相手は彼よりも目上の――つまり、俺と同等かそれ以上の階級を持つ人物だろうか。俺が思考を巡らせる間も、中佐は短い返事とやり取りを繰り返す。
彼の目が、俺を捉えた。
「――はい、おります。――畏まりました。今、替わります。――大佐、お電話です」
そう言って、中佐は俺に、椅子と受話器を勧めた。状況説明はいまだゼロだ。だが、渡された受話器を取らないわけにもいかず、椅子に腰かける。受話器へ口を開くまでの少しの間に、「相手は誰か」と小声で尋ねたが、「守秘義務がありますので」と笑顔ではぐらかされてしまった。
「……もしもし」
やや身構えつつ、受話器へ定型文を投げかけた。すぐに返事はない。耳に当てた受話器からは、顔の見えない誰かの気配を感じるが、それだけだ。声は聞こえてこなかった。
もう一度、呼びかけようとして、口を開きかけたその時。電話の相手は、ようやく、声を発した。
『……兄さん、なんだな』
電気信号の伝えた声は、今日一番の衝撃を、俺に与えた。両の目をかっと見開く。
電話越しでだって、聞き間違えるはずはない。この世界でただ一人、俺のことをそんな風に呼ぶのは――
「……ギルベルト」
よもや、今日、その声を聞けるとは思っていなかった。ゆえに、何度も口にしてきたはずの弟の名前は、随分と掠れた音になって、俺の口から漏れ出る。海軍のどんな高官と言葉を交わすよりも強い緊張感が、体を支配する。
中佐に抗議の視線を送るが、彼は電信室の入り口に立ったまま、「何も聞いていません」とでも言いたげに余所を向いていた。
『何をしてるんだ、兄さん』
電話越しのギルベルトが、俺に問いかける。全神経を耳に集め、言葉を選びながら、口を開いた。
「お前、これから結婚式だろう」
『そうだ。もう、会場にいる。ヴァイオレットも、直に準備ができる。――兄さんこそ、どこで、何をしてるんだ』
どう、言い訳をしようかと、考えている。この期に及んで、俺はまだ、弟に嫌われたくないと思っている。そんな自分に、心底反吐が出る。
ごまかしはなしだ。どうせ、聡明なギルベルトには、すぐにばれる。
「……新鋭戦艦の、海上公試中だ。場所は……まあ、軍機だ」
『……どうして、結婚式に来てくれないんだ』
そんなこと、訊いてくれるなよ。お前だってわかってるだろ、ギル。
「……わかってるだろう。俺が行くべきじゃない」
『どうして?』
幼い子供みたいなことを言わないでくれ、ギル。頼むから。
「……行ってはいけないんだ、ギル」
『私は兄さんに来て欲しい。だから招待状を出したんじゃないか』
「俺は……っ」
噛み締めた歯の奥から、声が漏れる。
俺だって行きたいさ、ギル。行って、お前の晴れ姿を、見たいんだ。どうせ俺のことだから、かっこつけて「幸せになれよ」なんて言って。お前はきっと、ちょっと呆れたような顔をして、それから苦笑いして、それでも――それでも、ヴァイオレットの肩を抱いて、「ありがとう」なんて言うんだろう。
俺だって、そうしたいさ、ギル。
だけどな。
「俺が、お前たちを不幸にしたんだ」
『私もヴァイオレットも、今、幸せだ』
「だとしても……っ!……今は、そうだと、しても。俺が、二人を不幸にした事実は変わらない」
お前たちに、数えきれない苦しみを押し付け、背負わせたことは、消せないんだ。
「お前に、ブーゲンビリアの責務を、押し付けて。手に余るからと、幼いヴァイオレットを、武器として押し付けて。お前が――お前が、いなくなったら。今度は、お前の死を、ヴァイオレットに押し付けた。散々押し付けて、苦しめて――それで、祝うのか。そんな資格、俺にはないだろう」
ギルベルトは何も言わない。電話口の向こうで、ただ静かに、俺の言葉を聞いている。
いいか、ギル。不出来な俺を、兄と呼び続ける必要はない。お前も、ヴァイオレットも、もう自由だ。俺という過去は捨てて、幸せになれ。もう、俺という不幸を、招き入れるな。
「俺に会うべきではないんだ、ギル」
兄らしいことなど、何一つ、してやれなかった。ならせめて、その責任くらい、果たすべきだ。
ギルベルトは、最後まで、黙ったままだった。もう、これ以上の言葉は、いらないはずだ。
「じゃあな、ギル。切るぞ」
『――それでも』
離そうとした受話器から、ようやく、ギルベルトの声が聞こえてきた。
ああ、くそ。俺という男は、この期に及んでなお、弟の言葉を途中で切ることができない。
『それでも、来てほしい』
聞こえてきたのは、有無を言わせぬ言葉だった。決して譲るつもりはないと、頑固な響きは、どこか親父そっくりだった。
『兄さんの言いたいことはわかる。正直に言えば、兄さんを殴りたいと思ったことも、一度や二度じゃない。――だけど。それでも、今、会いたいんだ』
「……ギル」
声が、詰まる。突っぱねる言葉が、喉から出てこない。
『兄さんに、見てほしいんだ。兄さんに、祝ってほしいんだ』
口が乾く。半開きのまま動かない唇が震える。
「どうして……」
どうして、そんなことを言うんだ。
どうして、わかってくれないんだ。
どうして、わがままを言うんだ。
漏れた「どうして」の先に紡ぐべき質問は、いくつかあったはずだ。けれど、どうしようもない俺が、その先に弟へ問いかけたかったのは。
――どうして、俺に、来てほしいんだ。
『決まってるじゃないか』
中途半端な質問に、しかし答えなんてわかりきったことのように、ギルベルトは答える。
『兄さんは、兄さんじゃないか。――たった一人の、兄さんじゃないか』
……電話は、声を届ける。だが声だけだ。電気信号が遠くから届けてくれるのは、音という振動だけで、人の姿までは見えない。どんな態度も、目には入らない。
だが、態度は見えなくとも。
声には、表情が出る。
声には、感情が乗る。
そしてそれが、近しい者ならば。例えば――
産まれたばかりの姿を、愛おしいと思い。
初めての寝返りに、手を叩き。
よたよたした歩みに、頬を緩め。
俺を追いかける姿を、振り返り。
そうやって、育つところを見てきた者なら。たった一人の、愛する弟なら。
その姿は――電話口の向こうにある表情は、容易に、俺の脳裏へ浮かんでくる。
「ギル、ベルト……俺は……行って、いいのか」
『……だから、そう言ってる。兄さんは頑固だな』
呆れた声音が、笑ってる。
翡翠の瞳が、笑ってる。
何度も、何度も、何度も、何度も、数えるのも馬鹿らしいくらい、俺に向けてくれた笑顔が、目の前に浮かぶ。
奥歯を噛み締める。きつく目を瞑り――そして開く。さっきまでよりもずっと、強い覚悟が必要だった。
「わかった。――今行く」
受話器を置く。それを待っていたように、中佐が声をかけてきた。
「お話はついたようですね」
変化のない微笑みに頷く。
「ああ。……中佐」
「はい」
「本艦には、水上機が搭載されていたな」
「ええ。弾着観測と艦隊間連絡用に、二機」
新鋭戦艦に水上機の搭載を盛り込んだのは中佐だ。
「飛ばせるか」
俺の質問に、中佐は今日一番の笑顔を浮かべた。そこで俺は悟る。なるほど、ここまで織り込み済みか。
「すでに用意をさせています。あと三分ほどで発艦準備が整います」
「わかった。ここは任せる。急用ができた」
「承知しました。あとはお任せください。――急いだほうがよろしいですよ。ここから、航空作業甲板まで、二分はかかります」
言われるまでもない。中佐の開けた扉から廊下に出て、走り出す。水密扉をいくつもくぐり、タラップを登って、上甲板へと出る。水上機発艦用の航空作業甲板は、艦の一番後ろだ。そこまで一気に駆け抜ける。
ギルベルト。
ただその名前だけを、頭の中で何度も呼び続けていた。
ライデンが一望できる場所に、CH郵便社は建っている。一時代前の風情を残す、赤レンガの社屋。一日限定で結婚式の会場となった建物の前に車を止めさせて、俺は降り立つ。
海軍省で軍装は脱いできた。今袖を通しているのは、用意だけはしていた、この日のためのスーツ。
「ご武運を、大佐」
運転手を務めた少尉が、どこかおどけて言った。しかしその励ましは、半分近く本気だっただろう。今の俺の心持ちは、どんな戦場へ向かった時よりも、緊張の糸で張りつめている。
走り去る車を見送り、俺は改めて、郵便社の建物へ体を向けた。
玄関に、一つだけ、人影がある。建物の庇の下、影になったそこで、薄緑色の宝石が一つ、輝いている。
「……すぐに行くと、言っただろう」
俺の言葉に、影が動く。庇の下から現れたのは、随分久しぶりに見る弟の顔。やや険しい表情に今更募らせる言い訳もなく、俺は黙ってギルベルトと向き合っていた。
「……五分遅刻だ、兄さん」
「……そう、か。すまん」
まともに目を合わせられず、足元に視線を落とす。道中、色々と考えたはずの言葉は、一つも出て来はしなかった。
春の風が、沈黙の合間を吹き抜ける。
「……ギル。俺は、」
意を決して、唇の合間から、言葉を紡ごうとした。けれど、何一つまとまらない。弟に告げるべき言葉が、見つからない。結局、また口を噤んだ。まったく、どうしようもない。
「兄さん」
そんな俺のすぐ前に、ギルベルトが立つ。綺麗に磨かれた靴だけが、目に入る。
「兄さん。――来てくれて、ありがとう」
その言葉は、あまりにも弟らしい言葉で。俺は声に導かれるまま、顔を上げる。
春の日差しの中に、エメラルドが一粒。大きな大きな、エメラルドが一つ。世界中のどんな宝石より美しい、エメラルド。その翠の色が、純白の中で、一際強く輝いている。
「――ギル」
言葉は紡げない。だがその感覚は、数瞬前とは大きく異なった。言葉は見つかった。言いたいことは、喉のところまで出ている。問題は、その喉が詰まって、声が出ないこと。
代わりに、涙が、出そうだ。いつかのように、穏やかな笑みを浮かべるギルベルトに。もう二度と、そんな笑みを向けてくれるとは思えなかったのに。その微笑みを目にする資格が、俺にはないと思っていたのに。
お前は、今でも、そうやって、俺に笑いかけてくれるのか。
「……似合ってるじゃないか」
本当に言いたいことの替わりに、ギルベルトが着ているものへの感想を述べる。結婚式に相応しい、純白のタキシード。長い前髪を撫でつけて固める髪型は、陸軍時代のそれと同じ。だが今の方が――その衣装の方が、ずっと似合っている。
「ありがとう。兄さんに、見て欲しかった」
「あ、ああ。……お前の、その衣装を見るのが、ずっと、夢だった」
「大袈裟だな」
ああ、大袈裟だ。でも嘘じゃない。
ギルベルトが苦笑する。柔らかな眦が下がる。すっと穏やかな所作で踵を返し、ギルベルトは俺を手招いた。
「すぐに始まるから。兄さんも入って。――もう一人、見て欲しい人がいる」
郵便社の建物へ向かう背中。広い肩幅が、どうしようもなく、俺の弟だということを思い知らされる。
……大きく、なった。大きくなったな、ギル。
「なあ、ギル」
大きくなった背中に、呼びかける。
「何だよ、兄さん」
振り向く姿に、遠い夏の日が、重なる。
なあ、ギル。お前、どうして、俺を見るたびに、笑うんだ。
良い兄ではなかったはずだ。
お前に好かれるような人間じゃなかったはずだ。
お前に尊敬されるような人間じゃなかったはずだ。
ひどく出来損ないの、どうしようもない人間だったはずだ。
お前に何もかもを押し付けて。
ヴァイオレットに何もかもを押し付けて。
なあ、ギル。こんな俺でも、祝っていいのか。
こんな俺でも、お前は会えて嬉しいというのか。
こんな俺にも、お前は祝福して欲しいというのか。
こんな俺が、お前たちの幸福を、見守ってもいいというのか。
「幸せになれよ、ギル」
この、言葉は。その笑顔に、報いるものだろうか。
ずっと――ずっと、愛していた。
憎たらしく思ったこともある。
妬ましく思ったこともある。
けれど。だが。でも。しかし。
その全てが愛おしい。
俺の弟になってくれた、お前を。
俺を……不出来でも、兄にしてくれたお前を。
初めて、この腕に抱いた、あの日から。
ずっと、愛している。
「幸せになれよ、ギル」
同じ言葉を繰り返す。それ以外の言葉が出てこないからだ。
言いたいことはたくさんある。
言うべきこともたくさんある。
募り積もった感情を全て吐き出すには、言葉が足りない。
だからお願いだ、ギル。
今は、今だけは、一番伝えたい言葉を、伝えさせてくれ。
身勝手で、罪の意識もない、烏滸がましい俺の願いを、祈りを、口にさせてくれ。
ギルベルトが笑う。鼻から空気の抜ける、微かな音。それが、涙の混じる音だと、知っている。
「兄さんの願いは、もう、叶ってるよ」
ああ、そうだったな。もう、掴んだんだ。ようやく、手にしたんだ。
でもな、ギル。
お前はギルベルト・ブーゲンビリアだぞ。
俺の自慢の弟だ。
俺の最愛の弟だ。
世界で一番の、俺の弟だ。
だから。
だから。
――だから。
「なら、もっと幸せになれ。ヴァイオレットとともに、幸せになれ。世界で一番、幸せになれ。――お前は……お前は、俺の……たった一人の、弟なんだから」
だから、世界で一番、幸せになっていいんだ。
呆れたように、ギルベルトは苦笑いする。けれどすぐに、力強く、頷いた。
ライデンの風に吹かれる俺の頬を、熱いものが流れた気がした。だが気のせいだ。俺という男にも、今日という青空にも、二人の幸福な門出にも、そんなものは似合わない。
きっと、どこかで、雨でも降ったんだろう。
指先で雫を弾く。建物へと入っていくギルベルトには、見られていなかったはずだ。