ヴァイオレット・エヴァーガーデンと旦那様   作:瑞穂国

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結婚式第三章。

ディートフリートのお話。


ディートフリート・ブーゲンビリアの宝物

「いやぁ、それにしても。今日はここ数年で一番の、綺麗な青空ですなぁ」

 

 

 

―――――

 

 

 

 人間とは、学ばない生き物なのだなと、決して反省などしないのだなと、そんなことを考えていた。

 美しい碧をたたえる、ライデンの海。風もなく、波も小さな、穏やかな海。その海を、鋭利に研ぎ澄まされた鋼鉄が割いていく。海軍伝統のバウ・スプリットも、ドルフィン・ストライカも、一切を排除した直立艦首に、風情などありはしない。鈍色の舳先はただ乱暴に、残酷に、容赦なく、身勝手極まりないエゴで蒼海を砕いていく。その様を眺めていると、どうしても、眉間の強張りを消し去ることができなかった。

 エメラルドグリーンの海には、いつだって弟の姿が重なる。そして遠い水平線のマリンブルーには、最近彼女の姿が重なるようになった。

 今日という日は、そんな二人の、新たな門出の日であり、あたかもそれを祝福するような青空を、我ながらきつい表情で見つめていた。

 

「浮かない表情ですなぁ、大佐」

 

 そんな顔を見られていたのか、隣に立つ男が俺にだけ聞こえる声で話しかける。鋼鉄の檻のような艦橋の中、付き添いとして俺の隣に立つ中佐は、肩幅に開いた足を踏ん張り、やたらといい姿勢でこちらを見ていた。

 

「物思いに耽るとは珍しい。本艦に、何かご不満な点でも?」

「いや、なに。――あれだけの戦争を経験しておきながら、我々は全く、反省する気などないのだと思ってな」

 

 空と海の彼方へ向いていた意識を、すぐ目の前の現実へ戻す。俺が立つのは、鋼鉄の箱、その中。

 ライデンシャフトリヒ海軍が産み出した、新たな海の怪物(新鋭戦艦)。そいつは、従来艦など一笑に付す、実に十門もの主砲を備えた恐るべきモンスターだ。美しさをたたえた海を、野の花を踏み潰すがごとく割いていく、黒鉄の城。それが、俺を閉じ込めた――いいや、俺が自ら閉じこもった、鋼鉄の牢獄の正体だった。

 直立不動の中佐は、やはり俺にだけ聞こえる笑い声を小さく上げ、答える。

 

「大佐らしいお言葉です。――元造船技官として言い訳をさせていただきますと、本艦含めた新鋭戦艦の建造計画が立ち上がったのは、戦争が終結する一年前。まだ、講和の糸口すら、掴めていなかった頃です。本艦の建造は、時流としては必然だったかと」

「……だとしても、だ。戦争が終わってなお、こんなものを造る海軍も、それを止められない我々も……随分と愚かなものだな」

「容赦ないですなぁ。――しかし、なるほど。大佐のおっしゃることも、一理ある」

 

 中佐がそう言って目を細めた瞬間、百雷にも勝る砲声が艦上に轟いた。新鋭戦艦の主砲が、右舷に向けて砲炎を噴き上げた瞬間だった。右舷へ指向可能な四基の連装主砲塔、その内の右砲が、揃って彼方の目標へ砲弾を撃ち出す。幸いというべきか、目標は敵の水上艦艇ではなく、ただの浮標だ。今日は海上公試。完成したばかりの新鋭戦艦の、その性能を確かめる通過儀礼だ。主砲の射撃も、その一環に過ぎない。

 つんと漂った硝煙の香りに、思わず天を仰いだ。しかし、目にしたかった空はそこにはなく、俺の前には、無機質な鋼鉄の天井が広がるばかり。

 ああ。ここは鋼鉄の牢獄なのだ。やはり空は見えない。

 そして、やはり。雲一つない澄んで晴れ渡る空の蒼にも、光と命をたたえて育む海の碧にも、俺という男は相応しくない。

 

「――『Fleet in Being』」

 

 砲声が収まる頃、特に前置きなく、中佐が口を開いた。見えない天を仰ぐのをやめ、俺は視線を彼へと戻す。

 

「……なんだ、それは」

「父がよく口にしていた言葉です」

 

 中佐の父といえば、それなりに名の通った海軍軍人だ。多くの(ふね)で艦長を務めた、根っからの現場主義者。

 先人の言葉が、妙に耳に引っかかった。

 

「どういう意味だ」

「『動かざる艦隊』、あるいは『静かなる海軍』といったところでしょうか。海軍の意義とは、戦うことではなく、ただそこに存在し続けることにある、と」

 

 現場主義者らしからぬ言葉に、ほうと、思わず感心する。続きを促すと、中佐はさらに言葉を繋げた。元から、話をするのが好きな性質(たち)だ。

 

「我々は、確かに軍人ですが――多くの者は、大佐と同じように、戦闘を望んではおりません。戦えば誰かが死にます。それは自分かもしれない。自分でなくても、誰かの命が代わりに奪われる。最初から、負けが決まっている勝負です。そんなもの、誰も望んではいないはずです」

 

 軍人らしからぬ言葉を聞いているのは、この場では俺だけだ。咎めはしない。しかし、それ以上の言葉を遮るかのように、新鋭戦艦の主砲が二度目の咆哮を上げた。砲声が収まるまでの間、中佐は目を細めて黙る。

 雷鳴の余韻が消えると、彼はまた口を開いた。

 

「ですが、我々は軍人です。軍人が平和を望むのなら、そのために選ぶ手段は、最も現実的で、最も非人道的で、最も非平和的にならざるを得ない。すなわち、より強大な武力を保有することで、敵が侵攻しようという意志を削ぐ」

「抑止力、だな。それが『Fleet in Being』か」

「半分は。残り半分を、父はこう言っておりました。『俺が望まない限り、俺の(ふね)は戦争をしない』。――戦争は、いつの時代も人がするものと、私は考えます。どれ程強力な武器であろうと、()()が戦争をすることはありません。銃の引き金を引くのは、いつだって人間の意志です」

 

 彼女、と中佐はいつでも船をそう呼ぶ。あたかも自分を戒めるかのように。そして今は、その響きが俺の中にも深々と突き刺さる。

 彼女は武器だ。かつて俺がそう断じた――そう思おうとした少女の姿が、頭を過った。

 ふと、俺は中佐に、尋ねてみたくなった。

 

「では――武器が意志を持ったら、どうなる」

 

 中佐は、一瞬目を見開いたのち、特に考える素振りもなく答える。

 

「さて――どうでしょうか。案外、戦争を嫌って、戦いを拒み――愛することを、選ぶかもしれません」

 

 断定しない言葉ではあったが、どこか確信じみたものを、感じずにはいられなかった。

 それからしばらくは、お互いに無言だった。ただ艦橋に立ち、次々に撃ち出される主砲の砲声を、聞いていた。

 それも一段落する頃、改まって中佐が口を開く。

 

「しかし――やはり、今日の大佐は珍しい。職務中に、これほど私のおしゃべりに付き合ってくださるとは。何かあったのですか?」

「いや……別段、何もない。たまたま、今日はそういう気分だっただけだ」

「さようですか。たまたま、ね」

 

 含みを持たせた笑みが、俺を見ている。常々思っているが、俺などより余程、この男の方が冴えているし、切れる。しかも、それを完璧に隠しながら、しかし時折冗談めかして混ぜ込んで見せてくる、性格の悪さ。

 大きく息を吐き、目を逸らす。それをどう解釈したのか、中佐は半歩俺の方へと近づき、さらに小さな声で――蒸気タービンの音に紛れそうな囁きで、言った。

 

「……そういえば、今日は弟君の――ギルベルト・ブーゲンビリア元陸軍少佐の、ご結婚式のはずでは?」

 

 思わず目を見開いた。大きな声を上げそうになり、慌ててボリュームを下げる。

 

「な――ぜ、貴様がそれを知っている」

「これでも一応、大佐の右腕を自負しておりますので。大佐のご予定は、なんでも把握しております」

「……物好きめ」

 

 せめてもの抗議で吐いた悪態は、朗らかな笑みに軽々と流された。

 中佐は、尚も小さな声で、話を続ける。

 

「生きていらっしゃると聞いた時も驚きましたが、まさか心に決めた方までおられるとは。お相手は確か、」

「ヴァイオレット。ヴァイオレット・エヴァーガーデンだ」

 

 中佐よりも先に、彼女の名前を口にした。

 碧い瞳の女性。ギルベルトを、ずっと探していた少女。一度はあいつを失い、挫け、悲しみ、それでも生きて、忘れず、願い、信じ、そうして再会できた女性。ギルベルトが、憚ることなく愛を注ぐ、女性。

 言葉を遮ったことに気を悪くした様子はなく、中佐はやはり微笑を張り付けたまま、さらに小さな声で続けた。

 

「元少女兵で――以前、大佐が拾い、弟君に預けた少女、ですよね」

 

 ……嫌なことを、思い出させる。俺は返事をすることも、頷くこともなく、自分の足元に視線を移した。

 

「行かなくて、よろしかったのですか」

 

 一番、訊かれたくなかったことを、中佐は口にした。軽く睨んでも、この男には無意味だ。涼しい笑顔で全て流されてしまう。半ば諦めて溜息を吐くが、中佐が追撃の手を弱めることはなかった。

 

「海上公試など、お断りしてもよかったのに。私だけでも事足ります」

 

 ぐうの音も出ない、正論だ。海上公試への誘いはあったが、断るのは簡単だった。事実、忙しさや私事を理由に断ったことは何度もある。それで、俺の心証が悪くなることもない。

 だが、今回ばかりは――今日ばかりは、俺はここへいなければならないのだ。

 我ながら、自嘲気味な笑みが漏れる。

 

「……行けるわけがないだろう」

 

 そうだ、行けるわけがない。行ってはいけないのだ。俺のような男は。

 強く、両の拳を握る。

 ギルベルトにも、ヴァイオレットにも、多くのものを押し付けてきた。都合の悪いもの、全てを二人に押し付けた。いらぬ苦労を、全て、全て、押し付けた。

 俺が、二人を、不幸にしたのだ。

 例え今、二人がめでたく結ばれようと、その事実に変わりはない。二人の門出に、これからの幸福に、俺という男は必要ない。いてはいけないのだ。俺がいては、また、二人が不幸になるかもしれない。

 ようやく、自由になったのだ。ようやく、愛することができたのだ。ようやく、幸せを掴めたのだ。

 もう、それを、壊してほしくない。どうか静かに、けれど確かに、愛を育んでほしい。

 本来、その願いすらも、烏滸がましい。

 

「……なるほど。拗らせていらっしゃる」

 

 どこまで悟っているのか。あるいは全て知った上で言っているのか。どこか呆れ気味な響きを伴う中佐の言葉に、今度こそ本気で睨みつけた。しかし、やはり彼に効果はなく、剽軽に肩を竦めて微笑を作り、中佐は別の方へと顔を向けた。近くにいた男を、彼は呼び止める。

 

「通信長。一つ、頼みがあるのだが」

「はっ。いかがされましたか」

 

 それまでの微笑を隠し、真面目腐った表情を作る中佐は、やはりわざとらしく腕時計を確かめた。直立不動の通信長へ、彼は口を開く。

 

「実は、司令部宛に電文を打つことになっているのだが」

「はっ。すぐに電信室へ伝えます。文面は、なんと」

「それなんだが……なにしろ、極秘の文面でな。私の職権では、君に内容を告げることもできない。悪いが、電信室まで案内してくれないか」

 

 中佐の言葉は、全て初耳だった。何も聞かされていない俺は、ただ黙ってそのやり取りを聞いていた。だが、そんな俺を、中佐は手招く。

 

「さ、大佐。急いで参りましょう」

 

 彼に急かされるまま、俺は艦橋を後にした。

 

「どういうつもりだ」

 

 電信室への道すがら、目線だけで尋ねる。しかし返ってきたのは、軽やかなウィンクが一つ。「任せてください」とでも言いたげな所作に、気づかれないよう溜息を吐くしかなかった。

 案内された電信室から人払いをし、近代軍艦らしく通信機器が敷き詰められた部屋に、俺と中佐だけが残される。人がいなくなったのを確かめると、中佐は早速、並んだ通信機を弄り始めた。無線電話はすぐに立ち上がり、受話器を肩と頭で挟んだ中佐は、メモ帳を器用に開いてダイヤルを回す。

 

「――もしもし。ああ、そうだ、私だ。――ああ。――ああ、そうだ。手筈通りに頼む。――ああ。――よし、繋いでくれ」

 

 交換局に問い合わせていたのだろう。短いやり取りの後、中佐は再び黙る。その目が、メモ帳と腕時計を、交互に行ったり来たりしていた。

 一分ほどがして、ようやく、中佐が口を開いた。

 

「――もしもし。――はい。――はい、そうです」

 

 丁寧な口調からして、相手は彼よりも目上の――つまり、俺と同等かそれ以上の階級を持つ人物だろうか。俺が思考を巡らせる間も、中佐は短い返事とやり取りを繰り返す。

 彼の目が、俺を捉えた。

 

「――はい、おります。――畏まりました。今、替わります。――大佐、お電話です」

 

 そう言って、中佐は俺に、椅子と受話器を勧めた。状況説明はいまだゼロだ。だが、渡された受話器を取らないわけにもいかず、椅子に腰かける。受話器へ口を開くまでの少しの間に、「相手は誰か」と小声で尋ねたが、「守秘義務がありますので」と笑顔ではぐらかされてしまった。

 

「……もしもし」

 

 やや身構えつつ、受話器へ定型文を投げかけた。すぐに返事はない。耳に当てた受話器からは、顔の見えない誰かの気配を感じるが、それだけだ。声は聞こえてこなかった。

 もう一度、呼びかけようとして、口を開きかけたその時。電話の相手は、ようやく、声を発した。

 

『……兄さん、なんだな』

 

 電気信号の伝えた声は、今日一番の衝撃を、俺に与えた。両の目をかっと見開く。

 電話越しでだって、聞き間違えるはずはない。この世界でただ一人、俺のことをそんな風に呼ぶのは――

 

「……ギルベルト」

 

 よもや、今日、その声を聞けるとは思っていなかった。ゆえに、何度も口にしてきたはずの弟の名前は、随分と掠れた音になって、俺の口から漏れ出る。海軍のどんな高官と言葉を交わすよりも強い緊張感が、体を支配する。

 中佐に抗議の視線を送るが、彼は電信室の入り口に立ったまま、「何も聞いていません」とでも言いたげに余所を向いていた。

 

『何をしてるんだ、兄さん』

 

 電話越しのギルベルトが、俺に問いかける。全神経を耳に集め、言葉を選びながら、口を開いた。

 

「お前、これから結婚式だろう」

『そうだ。もう、会場にいる。ヴァイオレットも、直に準備ができる。――兄さんこそ、どこで、何をしてるんだ』

 

 どう、言い訳をしようかと、考えている。この期に及んで、俺はまだ、弟に嫌われたくないと思っている。そんな自分に、心底反吐が出る。

 ごまかしはなしだ。どうせ、聡明なギルベルトには、すぐにばれる。

 

「……新鋭戦艦の、海上公試中だ。場所は……まあ、軍機だ」

『……どうして、結婚式に来てくれないんだ』

 

 そんなこと、訊いてくれるなよ。お前だってわかってるだろ、ギル。

 

「……わかってるだろう。俺が行くべきじゃない」

『どうして?』

 

 幼い子供みたいなことを言わないでくれ、ギル。頼むから。

 

「……行ってはいけないんだ、ギル」

『私は兄さんに来て欲しい。だから招待状を出したんじゃないか』

「俺は……っ」

 

 噛み締めた歯の奥から、声が漏れる。

 俺だって行きたいさ、ギル。行って、お前の晴れ姿を、見たいんだ。どうせ俺のことだから、かっこつけて「幸せになれよ」なんて言って。お前はきっと、ちょっと呆れたような顔をして、それから苦笑いして、それでも――それでも、ヴァイオレットの肩を抱いて、「ありがとう」なんて言うんだろう。

 俺だって、そうしたいさ、ギル。

 だけどな。

 

「俺が、お前たちを不幸にしたんだ」

『私もヴァイオレットも、今、幸せだ』

「だとしても……っ!……今は、そうだと、しても。俺が、二人を不幸にした事実は変わらない」

 

 お前たちに、数えきれない苦しみを押し付け、背負わせたことは、消せないんだ。

 

「お前に、ブーゲンビリアの責務を、押し付けて。手に余るからと、幼いヴァイオレットを、武器として押し付けて。お前が――お前が、いなくなったら。今度は、お前の死を、ヴァイオレットに押し付けた。散々押し付けて、苦しめて――それで、祝うのか。そんな資格、俺にはないだろう」

 

 ギルベルトは何も言わない。電話口の向こうで、ただ静かに、俺の言葉を聞いている。

 いいか、ギル。不出来な俺を、兄と呼び続ける必要はない。お前も、ヴァイオレットも、もう自由だ。俺という過去は捨てて、幸せになれ。もう、俺という不幸を、招き入れるな。

 

「俺に会うべきではないんだ、ギル」

 

 兄らしいことなど、何一つ、してやれなかった。ならせめて、その責任くらい、果たすべきだ。

 ギルベルトは、最後まで、黙ったままだった。もう、これ以上の言葉は、いらないはずだ。

 

「じゃあな、ギル。切るぞ」

『――それでも』

 

 離そうとした受話器から、ようやく、ギルベルトの声が聞こえてきた。

 ああ、くそ。俺という男は、この期に及んでなお、弟の言葉を途中で切ることができない。

 

『それでも、来てほしい』

 

 聞こえてきたのは、有無を言わせぬ言葉だった。決して譲るつもりはないと、頑固な響きは、どこか親父そっくりだった。

 

『兄さんの言いたいことはわかる。正直に言えば、兄さんを殴りたいと思ったことも、一度や二度じゃない。――だけど。それでも、今、会いたいんだ』

「……ギル」

 

 声が、詰まる。突っぱねる言葉が、喉から出てこない。

 

『兄さんに、見てほしいんだ。兄さんに、祝ってほしいんだ』

 

 口が乾く。半開きのまま動かない唇が震える。

 

「どうして……」

 

 どうして、そんなことを言うんだ。

 どうして、わかってくれないんだ。

 どうして、わがままを言うんだ。

 漏れた「どうして」の先に紡ぐべき質問は、いくつかあったはずだ。けれど、どうしようもない俺が、その先に弟へ問いかけたかったのは。

――どうして、俺に、来てほしいんだ。

 

『決まってるじゃないか』

 

 中途半端な質問に、しかし答えなんてわかりきったことのように、ギルベルトは答える。

 

『兄さんは、兄さんじゃないか。――たった一人の、兄さんじゃないか』

 

 ……電話は、声を届ける。だが声だけだ。電気信号が遠くから届けてくれるのは、音という振動だけで、人の姿までは見えない。どんな態度も、目には入らない。

 だが、態度は見えなくとも。

 声には、表情が出る。

 声には、感情が乗る。

 そしてそれが、近しい者ならば。例えば――

 産まれたばかりの姿を、愛おしいと思い。

 初めての寝返りに、手を叩き。

 よたよたした歩みに、頬を緩め。

 俺を追いかける姿を、振り返り。

 そうやって、育つところを見てきた者なら。たった一人の、愛する弟なら。

 その姿は――電話口の向こうにある表情は、容易に、俺の脳裏へ浮かんでくる。

 

「ギル、ベルト……俺は……行って、いいのか」

『……だから、そう言ってる。兄さんは頑固だな』

 

 呆れた声音が、笑ってる。

 翡翠の瞳が、笑ってる。

 何度も、何度も、何度も、何度も、数えるのも馬鹿らしいくらい、俺に向けてくれた笑顔が、目の前に浮かぶ。

 奥歯を噛み締める。きつく目を瞑り――そして開く。さっきまでよりもずっと、強い覚悟が必要だった。

 

「わかった。――今行く」

 

 受話器を置く。それを待っていたように、中佐が声をかけてきた。

 

「お話はついたようですね」

 

 変化のない微笑みに頷く。

 

「ああ。……中佐」

「はい」

「本艦には、水上機が搭載されていたな」

「ええ。弾着観測と艦隊間連絡用に、二機」

 

 新鋭戦艦に水上機の搭載を盛り込んだのは中佐だ。

 

「飛ばせるか」

 

 俺の質問に、中佐は今日一番の笑顔を浮かべた。そこで俺は悟る。なるほど、ここまで織り込み済みか。

 

「すでに用意をさせています。あと三分ほどで発艦準備が整います」

「わかった。ここは任せる。急用ができた」

「承知しました。あとはお任せください。――急いだほうがよろしいですよ。ここから、航空作業甲板まで、二分はかかります」

 

 言われるまでもない。中佐の開けた扉から廊下に出て、走り出す。水密扉をいくつもくぐり、タラップを登って、上甲板へと出る。水上機発艦用の航空作業甲板は、艦の一番後ろだ。そこまで一気に駆け抜ける。

 ギルベルト。

 ただその名前だけを、頭の中で何度も呼び続けていた。

 

 

 

 ライデンが一望できる場所に、CH郵便社は建っている。一時代前の風情を残す、赤レンガの社屋。一日限定で結婚式の会場となった建物の前に車を止めさせて、俺は降り立つ。

 海軍省で軍装は脱いできた。今袖を通しているのは、用意だけはしていた、この日のためのスーツ。

 

「ご武運を、大佐」

 

 運転手を務めた少尉が、どこかおどけて言った。しかしその励ましは、半分近く本気だっただろう。今の俺の心持ちは、どんな戦場へ向かった時よりも、緊張の糸で張りつめている。

 走り去る車を見送り、俺は改めて、郵便社の建物へ体を向けた。

 玄関に、一つだけ、人影がある。建物の庇の下、影になったそこで、薄緑色の宝石が一つ、輝いている。

 

「……すぐに行くと、言っただろう」

 

 俺の言葉に、影が動く。庇の下から現れたのは、随分久しぶりに見る弟の顔。やや険しい表情に今更募らせる言い訳もなく、俺は黙ってギルベルトと向き合っていた。

 

「……五分遅刻だ、兄さん」

「……そう、か。すまん」

 

 まともに目を合わせられず、足元に視線を落とす。道中、色々と考えたはずの言葉は、一つも出て来はしなかった。

 春の風が、沈黙の合間を吹き抜ける。

 

「……ギル。俺は、」

 

 意を決して、唇の合間から、言葉を紡ごうとした。けれど、何一つまとまらない。弟に告げるべき言葉が、見つからない。結局、また口を噤んだ。まったく、どうしようもない。

 

「兄さん」

 

 そんな俺のすぐ前に、ギルベルトが立つ。綺麗に磨かれた靴だけが、目に入る。

 

「兄さん。――来てくれて、ありがとう」

 

 その言葉は、あまりにも弟らしい言葉で。俺は声に導かれるまま、顔を上げる。

 春の日差しの中に、エメラルドが一粒。大きな大きな、エメラルドが一つ。世界中のどんな宝石より美しい、エメラルド。その翠の色が、純白の中で、一際強く輝いている。

 

「――ギル」

 

 言葉は紡げない。だがその感覚は、数瞬前とは大きく異なった。言葉は見つかった。言いたいことは、喉のところまで出ている。問題は、その喉が詰まって、声が出ないこと。

 代わりに、涙が、出そうだ。いつかのように、穏やかな笑みを浮かべるギルベルトに。もう二度と、そんな笑みを向けてくれるとは思えなかったのに。その微笑みを目にする資格が、俺にはないと思っていたのに。

 お前は、今でも、そうやって、俺に笑いかけてくれるのか。

 

「……似合ってるじゃないか」

 

 本当に言いたいことの替わりに、ギルベルトが着ているものへの感想を述べる。結婚式に相応しい、純白のタキシード。長い前髪を撫でつけて固める髪型は、陸軍時代のそれと同じ。だが今の方が――その衣装の方が、ずっと似合っている。

 

「ありがとう。兄さんに、見て欲しかった」

「あ、ああ。……お前の、その衣装を見るのが、ずっと、夢だった」

「大袈裟だな」

 

 ああ、大袈裟だ。でも嘘じゃない。

 ギルベルトが苦笑する。柔らかな眦が下がる。すっと穏やかな所作で踵を返し、ギルベルトは俺を手招いた。

 

「すぐに始まるから。兄さんも入って。――もう一人、見て欲しい人がいる」

 

 郵便社の建物へ向かう背中。広い肩幅が、どうしようもなく、俺の弟だということを思い知らされる。

 ……大きく、なった。大きくなったな、ギル。

 

「なあ、ギル」

 

 大きくなった背中に、呼びかける。

 

「何だよ、兄さん」

 

 振り向く姿に、遠い夏の日が、重なる。

 なあ、ギル。お前、どうして、俺を見るたびに、笑うんだ。

 良い兄ではなかったはずだ。

 お前に好かれるような人間じゃなかったはずだ。

 お前に尊敬されるような人間じゃなかったはずだ。

 ひどく出来損ないの、どうしようもない人間だったはずだ。

 お前に何もかもを押し付けて。

 ヴァイオレットに何もかもを押し付けて。

 なあ、ギル。こんな俺でも、祝っていいのか。

 こんな俺でも、お前は会えて嬉しいというのか。

 こんな俺にも、お前は祝福して欲しいというのか。

 こんな俺が、お前たちの幸福を、見守ってもいいというのか。

 

 

 

「幸せになれよ、ギル」

 

 

 

 この、言葉は。その笑顔に、報いるものだろうか。

 ずっと――ずっと、愛していた。

 憎たらしく思ったこともある。

 妬ましく思ったこともある。

 けれど。だが。でも。しかし。

 その全てが愛おしい。

 俺の弟になってくれた、お前を。

 俺を……不出来でも、兄にしてくれたお前を。

 初めて、この腕に抱いた、あの日から。

 ずっと、愛している。

 

 

 

「幸せになれよ、ギル」

 

 

 

 同じ言葉を繰り返す。それ以外の言葉が出てこないからだ。

 言いたいことはたくさんある。

 言うべきこともたくさんある。

 募り積もった感情を全て吐き出すには、言葉が足りない。

 だからお願いだ、ギル。

 今は、今だけは、一番伝えたい言葉を、伝えさせてくれ。

 身勝手で、罪の意識もない、烏滸がましい俺の願いを、祈りを、口にさせてくれ。

 

 

 

 ギルベルトが笑う。鼻から空気の抜ける、微かな音。それが、涙の混じる音だと、知っている。

 

「兄さんの願いは、もう、叶ってるよ」

 

 ああ、そうだったな。もう、掴んだんだ。ようやく、手にしたんだ。

 でもな、ギル。

 お前はギルベルト・ブーゲンビリアだぞ。

 俺の自慢の弟だ。

 俺の最愛の弟だ。

 世界で一番の、俺の弟だ。

 だから。

 だから。

――だから。

 

 

 

「なら、もっと幸せになれ。ヴァイオレットとともに、幸せになれ。世界で一番、幸せになれ。――お前は……お前は、俺の……たった一人の、弟なんだから」

 

 

 

 だから、世界で一番、幸せになっていいんだ。

 

 

 

 呆れたように、ギルベルトは苦笑いする。けれどすぐに、力強く、頷いた。

 ライデンの風に吹かれる俺の頬を、熱いものが流れた気がした。だが気のせいだ。俺という男にも、今日という青空にも、二人の幸福な門出にも、そんなものは似合わない。

 きっと、どこかで、雨でも降ったんだろう。

 指先で雫を弾く。建物へと入っていくギルベルトには、見られていなかったはずだ。

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