ヴァイオレットとギルベルトのお話に、たくさんの反応をいただき、ありがとうございます。
短いですが、一年の最後を迎える、二人のお話をば。
「愛してる」と結婚式の、間のお話になります。
ゆく年は、あなたと共に。
くる年も、あなたと共に。
吐いた息は、そのことごとくが白い靄になって、まるで煙みたいにあたりに漂い、やがて夜闇に溶けていきました。長い息、短い息。踏み出す歩調に合わせ、踏みしめる雪の音に合わせ、白い息が宙を舞います。その、なんでもない、ありふれた冬の景色に、かじかむ鼻先のことも忘れて、心を躍らせておりました。
エカルテ島には、もう間もなく、新しい年がやって参ります。私がCH郵便社での業務を終え、島へと移り住んだのは年が明けてからでしたから、これが私が初めてエカルテ島で迎える新年となります。
CH郵便社が社屋を構えるライデンでは、年越しの催し物が盛大に行われておりました。大通りには屋台が並び、暖かい格好をした人々が行き交う。花火なども上がっておりました。ですから私も、新年を迎えるということに、そうした賑やかな印象を抱いておりました。
エカルテ島の年越しは、ライデンとは随分様相が異なります。
「……静かだ」
お声と共に、白い息が舞います。声の主を――隣を歩くギルベルト様を、私は振り向きました。掲げたランタンに照らされる横顔、冬用のお召し物に覆われていないギルベルト様のお顔は、鼻も頬も、朱くなっております。ランタンの光を映すエメラルドグリーンの瞳を細めて、ギルベルト様は海の方を見ておりました。
「……はい、とても静かです」
年を暮れようというエカルテ島に、賑やかな音はありません。自動車の発動機音、花火の炸裂音、人々の喧騒、ライデンの年末にはありふれていた音が、どれもこの島にはありません。時折、穏やかな風が吹き抜けていくのみです。島の海を飛び交う海鳥も、今宵はどこかで羽を休めている様子。
音からは隔絶された島。それゆえ……エカルテ島の一年は、殊更にゆっくりと、暮れていくように感じます。
「ライデンの年越しとは、また違う雰囲気だろう」
白い息を纏うギルベルト様の瞳が、海から私へと視線を移しました。柔らかい光を帯びた翠玉が、私を見つめます。冬の寒さにも、暖かさを失わない色の中に、私が映っておりました。
ギルベルト様の問いかけに、頷きます。
「はい。とても静かで……穏やかです」
ギルベルト様の見つめた海を見て、そして今度は島を――点々と、静かに新しい年を待つ、人々の明かりが灯る島を、見ます。街灯の整備もまだの島は、そのほとんどが暗闇に包まれていて、綺麗な黒に塗りたくられたよう。そこへ灯る明かりたちは、さながら淡く夜を照らすランタンかキャンドルの火のようで、ふぅと息を吹きかければ消えてしまいそうな、そんな錯覚すら抱きます。
けれども……不思議なもので、人の暮らす明かりというものは、その大と小とに関わらず、心を暖めるものです。そこに人の営みがあることを、揺らめく明かりが教えてくれるのです。淡く、ともすれば夜に溶けてしまいそうな光でも……不思議と心は温まるのです。
エカルテ島の静かな夜が、その温もりを、改めて感じさせます。
「静かで、穏やかで、暖かいです」
「……そうだな。けど、君はなんだか、寒そうだ。鼻が赤い」
「……それは、ギルベルト様も、同じかと思います」
そうだろうかと呟いて、ギルベルト様は手袋をした右手で鼻を掻きました。はにかんだ表情に、私も頬を綻ばせてしまいます。そうすると、やはり心は踊るのです。
心の踊るまま、温かな心地を引き連れて、しばらく島の道を歩きます。
「――着きました」
白い息とともに、目的地へ到着したことを告げます。灯台より島の峰を挟んだ反対側、人の明かりより遠いところです。
見上げた空に、私の口より漏れ出た白い靄が昇っていきます。予報通りに雲量〇の夜空。そこへ私の息が吸い込まれていきます。いえ――ギルベルト様と、私の息が、混じり合って昇っていくのです。
息の昇っていく先を、見つめておりました。白い霞の行く先を――満天の星空を、見つめておりました。
「しかし――」
雪を払った大きな岩に、二人で並んで腰掛けます。ぴたりと、より近くなるギルベルト様との距離。差し出されたスープを受け取ると、ギルベルト様は目を細めて、また星空へと視線を向けました。
「君に、星を見ないかと言われたのは、意外だった」
「……そう、でしょうか」
スープを啜ろうとして、ギルベルト様を窺います。星を見上げるギルベルト様は、けれどすぐにふっと表情を緩めました。緑玉を嵌め込んだ左の目が、すぐに私を見つけて、微笑むのです。
「いや……そんなことは、ないな。――どうして、星を見ようと?」
ギルベルト様の問いかけに、明確な答えはないのです。想いはいつも曖昧で、そしていつも以上に衝動的で……けれどその、まったく不明瞭なままでもいいのだと、そう思うようになってきたのです。
星空の下、スープを啜れば、思い起こすことがあるのです。
「……以前、シャヘル天文台より、写本のご依頼をいただいたことがあります」
私が自動手記人形となって、一年もしない頃のことです。思えばあの時も、今夜と同じような厚いコートを着こんで、温かいスープを供に、星を眺めておりました。
「その時、共に働いた職員の方より、星のことを教えていただきました。丁度、アリー彗星の観測された頃のことです」
暁へ向かって尾を引く、二百年に一度の大彗星。リオン様の準備された望遠鏡より観測した彗星は、壮麗の一言に尽きました。奇跡と称するに値する偶然を見つめたこと、それを共有したリオン様のことも、よき思い出として刻まれているのです。
最後に交わした言葉も、よく憶えております。
「その、職員の方は、収集課員として働くことを、望まれておりました。おそらくは今も、貴重な古書や記録を探して、大陸中を旅されているかと」
「……まるで、自動手記人形みたいだ」
「はい。私もそう思います。仕事のために大陸中を歩いて回る。一年のほとんどを、旅をして過ごす。――自動手記人形と、似ています」
私の言葉に、ギルベルト様はまた目を細め、続きを促します。暖かなスープで唇を湿らせ、私は話を続けます。
「そのお方と、別れ際に約束をしたのです。もし、また、どこかで会うことがあったのなら――その時はまた星を見よう、と」
「それで、ヴァイオレットは星を?」
「はい。お会いした時に、今度は星のお話ができるようにと、思ったのです。――そして知れば知るほど、星の不思議な世界に、興味が湧きました」
あの時、何も知ることなく見上げていた星空が、今は尽きることない物語の宝庫に思えてなりません。夜空に瞬く星の、その輝きが、一層増したようにも感じるのです。
今宵も同じように、けれどまた違った想いで、星を眺めております。
「……きっと、またお会いできることは、奇跡のようなことだったのです。それこそ、アリー彗星をもう一度目にするほどの、奇跡のはずなのです」
「……そうだな」
テルシス大陸は、広く、それに比して人は小さく……出会いは、それ自体が奇跡のようなものなのです。一度お会いした方と別れたのなら、再び会えることというのは、星を掴むよりも難しいことなのかもしれません。
――それでも。
「けれど今は、またお会いする日が来るような、そんな気がしております。――もう、」
隣のギルベルト様へ、より身を寄せます。ぴたりと隙間なく。コート越しでも、お互いの温もりが伝わるように。
そんな私の肩を、ギルベルト様が抱き寄せます。窺った瞳に、「おいで」と言われているような気がして、私は恐る恐る、大きな肩へ頭を預けました。
小さな口づけが私の髪に落とされます。
「――もう、二度と、お会いできないと思っていたギルベルト様と、こうして、お会いできたのですから」
そこまで告げると、頬の熱を感じました。残ったスープを含みます。野菜の優しい甘みが、暖かさの中に溶けておりました。
「きっと、会える。私もそう思うよ、ヴァイオレット」
囁くギルベルト様に、私はこくりと頷くのみでした。
しばらくそうして、静かに星を眺めておりました。月明りはありますが、星の煌めきを邪魔するほどではなく。喧騒とは程遠い世界に、穏やかな時間を共有するのはギルベルト様のみ。その幸せが溶け込むスープも、二人で作ったスープなのです。
「……ヴァイオレットは、本当に、たくさんの人と出会ったんだな」
ふと呟いたギルベルト様の声には、溢れそうな喜びが乗っておりました。見上げて窺ったお顔が、そのお声と同じように、優しく微笑んでおります。
「私も知りたい。君が、どんな人と出会ったのか。どんな景色を見てきたのか。――君の話が聞きたい」
ギルベルト様の言葉に、二度三度と瞬きをします。けれど数瞬後には、どうしようもなく頬が綻ぶのです。
「はい、喜んで。――けれど、少々長いお話になります。ですから、お話は家に帰ってからにいたしましょう」
「そうしようか。――それなら、今はこうしていよう」
肩を抱く腕に、少し力が籠ります。寒さの中に、ギルベルト様の感触が、一層鮮明になります。
二人寄り添って、星を眺めます。混じるのは白い息。漂うまろやかな柔い湯気。言葉を交わせば甘やかで。感じる熱が幸せの証。
――そうして、あなたと、この一年を過ごすのです
――そうして、あなたと、新しい年を迎えるのです。
どうかよいお年をお迎えください。