「愛は議論ではなく事実で試される」
ふとした瞬間に、視線を感じている。
例えばそれは、毎朝義手をつけてもらい、自分の支度をしている間。シャツに腕を通し、ボタンを留めて、襟を正している時。
例えばそれは、朝食の支度をしようと、キッチンに立っている間。二人分のオムレツを見事に焦がし、まだまともな方をヴァイオレットの皿に乗せる時。
例えばそれは、紫色の宝石となった、旬のブドウを収穫している間。鋏を手にし、収穫の頃合いを見計らって、一つ一つ籠へ摘み取る時。
それは例えば、学校で教えている子供たちの答案に、目を通している間。土が水を吸うように、一日ごとに成長していく彼ら彼女らに、頬を緩める時。
それは例えば、狭いベッドに温もりを感じながら、身を預ける間。ランプの灯を落として夜の帳を降ろし、「おやすみ」と囁いて目を閉じる時。
ふと気づけば、マリンブルーの瞳に見つめられている。
何かを言う訳ではない。何かの意図があるのはわかるのだが、純真無垢な瞳は私を見つめるばかりで、言葉を語ってはくれない。ヴァイオレットはただじっとして、その瞳だけを私へ向け続ける。
「……どうしたんだ」
その度、私は彼女へ尋ねてみる。何か用事だろうかと。何か私に求めるものがあるかと。
「いえ……なんでもありません、旦那様」
しかし決まって、答えは得られなかった。問いかけるたび、ヴァイオレットは瞬きをして瞳の光を揺らせる。一瞬目を伏せた後、彼女は取り繕うように別の作業を始めてしまう。その取り繕い方というのがまた不器用で、すでに洗った皿を拭いてみたり、わざとらしく箒を手にしたり、油を入れたばかりのランプを気にしたりと、おかげで彼女が何かを口にできずにいることは明らかだった。
ヴァイオレットから答えが得られない度、私もまたどうしたものかと、頭を掻いた。隠し事のできないヴァイオレットだ。素直で、それ故に少し頑固で融通のきかないところもある、ヴァイオレットだ。そんな彼女が何かを取り繕うというのはよっぽどのことで、だからこそこれ以上詰め寄って聞き出していいものか迷う。
それに、どことなく、私を見つめる視線には、彼女自身の強い意志のようなものを感じていた。私に何かを求めるわけではなく、まして命令を待つわけではなく、ヴァイオレット自身の意志を感じている。小指を絡めて約束をしたあの夜に見せてくれたのと同じ瞳。少佐であった私には見せてくれなかった――いいや、たった一度、インテンスで私を助けようとした時にだけ見せたのと同じ瞳。
――それなら、待っていて、彼女に任せて、大丈夫……だろうか。私の方が二倍近く歳を重ねているとは言っても、ヴァイオレットはもう妙齢の女性だ。私の後をついてきた、か細く、そして苦しいほどに儚かった幼い少女の姿は、どこにもない。ホッジンズから散々聞かされてきた通り、ヴァイオレットはもう十分立派な、一人の女性だ。
真っ直ぐな曇りなき空色の目を、信じよう。ヴァイオレットなら大丈夫だ。そう心の中で念じながら、私はまた自分の作業に戻る。
そんなことを、一週間ほど続けていた。
「完了しました、旦那様。動かしてみてください」
毎朝の習慣となっている義手の装着作業を、今日もヴァイオレットが手伝ってくれた。
ベッドに腰掛けたまま、右手の義手を動かしてみる。親指から順に動かしていって、手首やひじの関節も動作を確かめる。毎朝同じように繰り返す確認作業を、ヴァイオレットは隣で食い入るように見つめていた。
「ありがとう。問題なく動くよ」
「はい。問題なく動きます」
毎朝同じ言葉を、彼女と交わしている。取り留めのないそのやり取りを、好ましく安堵して受け入れている自分がいる。知らず知らずのうちに、毎朝、彼女が側にいることを確かめている。
隣に座り、真剣な表情で義手を見つめているヴァイオレット。顔の半分を朝陽で染める彼女を見ると、どうにもならない頬の緩みを自覚する。あるいはこれを、幸せと呼ぶのだろうか。
ふと、彼女はどうなのだろうと、思った。
しばしの時間を――しかし決して短くない時間を、ヴァイオレットと供にしている。離れていた時間を埋め合わせるにはきっと足りないが、それでも二人で色々なものを手に取りながら歩む時間だった。「愛してる」と告げた君と、初めて並んで歩く時間だった。
ヴァイオレットは、その時間をどう感じたのだろうか。彼女が思い描くような、聖人ではなかったはずだ。彼女が慕うほど、素敵な人間ではなかったはずだ。
たくさんのものに触れて、たくさんの人に出会って、私の教えられなかったたくさんたくさんのものを見てきたヴァイオレット。それでも、君は私の側にいたいと、思ってくれるのだろうか。
揺れる金糸の髪を見つめていた。女性の髪の整え方なんて知らなくて、妹の世話をしたという部下から聞き出した情報をもとに、全くの手探りで私が揃えていた頃とは違う。絹のように細くしなやかで、風が吹けばさらさらと流れるほど、よく手入れの行き届いた彼女の髪。それを、私ではもうどうしたってできないような、複雑な編み込み方でまとめている。落ち着いたダークレッドのリボンも、彼女にはよく似合っていた。
その時、顔を上げたヴァイオレットと目が合った。空とも海とも思える、ひたすらに澄み切った蒼の色。心を鷲掴まれる煌めき。その光だけは、私もよく、知っていた。
「旦那様――」
囁きに合わせて、薄桃の唇が微かに動いた。最後の音を発した後も、何かを語ろうとするように半開きの唇からは、それ以上の音は聞こえてこなかった。
スカイブルーの瞳を見つめていた。少しづつ近づいて、大きくなっていく、ヴァイオレットの双眸。翠玉の中には隻眼の私だけが映りこみ、まるで彼女という存在に、その瞳に、吸い込まれてしまったような錯覚を受けた。
夜の乾きを潤していない唇に、仄かな風を感じる。
ちゅっ
「っ?!」
衝撃は、さやかな感触よりも五秒ほど遅れて脳髄を叩いた。
何かが唇に触れたことは、わかった。
それが、わずかな湿り気と、甘い香りを伴っていたことも。
それが、雲のような柔らかさと、太陽のような温かさを持っていたことも。
それが――それが、手のひら一つ分も離れていないところでこちらを見つめる、ヴァイオレットの唇であったことも、わかった。
それを、その行為を、世間では一般に何と言うのかなど、最早確認する必要もなかった。
「ヴァイ……オレット」
これほど狼狽えて、頭の中を真っ白にして、ただただ彼女の名前を呼んだのは、船上のヴァイオレットを引き留めた時以来だった。
私に不意打ちのキスをしたヴァイオレットは、ほんのりと頬に赤みを差しながら、ようやく、零さなかった言葉の続きを、たった今私に触れた唇から発した。
「接吻、というものを、してみたのです」
「そ、それは、わかってる。どうしてまた急に」
「……『愛は議論ではなく事実で試される』、そう聞いたのです」
胸元のブローチに手を添えて、ヴァイオレットはそう言った。引用したのはとある
「
ドールとしての日々を、ヴァイオレットはそう語った。青い瞳を伏せがちに、
「『愛してる』も、少しずつわかるようになったのです。ですがそれを、自分が口にできるのかが、わからないのです。旦那様に『愛してる』を告げようとするたびに、多くのことを考えて、そうして言葉にはできずに終わってしまうのです。でも……それでは、ダメだと、思ったのです」
そのことを、ヴァイオレットは友人のドールへ相談したのだそうだ。そうしてそのドールが、「愛は議論ではなく事実で試される」と、彼女へ教えてくれたという。
「ずっと、『愛』とは何かを、考えていました。けれど考えるだけではダメなのです。言葉にしなければダメなのです。形にしなければダメなのです。――私は、私は、この気持ちを、旦那様にお伝えしたいのです。『愛してる』は、全てを理解したわけではありません。私のこの感情が、旦那様の『愛してる』と同じなのか、それもわかりません。それでも、それでも、どうしても、伝えたいのです。伝えずにはいられないのです」
そこにあったのは、とても真剣な、一人の女性の眼差しだった。ここ一週間ほど、私へ注がれていたあの視線だった。とても真っ直ぐで、ひたすらに純粋で、そして強い意志を宿した瞳。
「それで、君は、私に、キスを、したのか」
「……はい。『愛は議論ではなく事実で試される』、そうなので」
ちなみに、キスという手段をヴァイオレットに教えたのは、島の子供たちらしい。
――どこから、何から、話をすればいいだろう。私はまず、自分の髪を掻くところからはじめた。
「……ありがとう、ヴァイオレット。驚いたけど、とても嬉しいよ」
「……嬉しい、のですか。私のキスは、嬉しい、のですか」
「嬉しいよ。とても嬉しいんだ。今すぐ君を抱き締めたいくらい、嬉しいんだ」
すぐ近くのヴァイオレットに手を伸ばし、抱き寄せる。残った左手と、感覚に慣れてきた右手。そこに力を込めて、ヴァイオレットを抱き締める。
抱き締めたヴァイオレットの体には、彼女には珍しく、変な力が入っていた。胸元で微かな音ともに彼女が息を吐き、それに合わせて強張りが無くなっていく。
そのまま、しばらくの間、ヴァイオレットを抱き締めていた。
「……君は、どうだったんだ、ヴァイオレット」
ぽろりと、そんなことを尋ねてしまった。キスの直前まで、「ヴァイオレットはどう感じているのだろうか」と、そんなことを考えていたからだろう。つい、彼女の感想が、知りたくなってしまった。
「私、は……」
掠れた声がする。数秒の間の後、胸元から顔を上げ、ヴァイオレットがこちらを見た。彼女は困った様子で細い眉を下げている。
「よく、わかりませんでした。口づけというのは、初めての経験で……うまく、確かめることが、できませんでした」
潤んだ瞳が揺れて、私を見つめていた。見つめる瞳が、何を求めているのか――私に何をしようというのか、今朝はちゃんと、理解できた。
「もう一度、確かめてもよいでしょうか、旦那様」
「――もちろん」
私が頷くと、すぐにヴァイオレットの顔が近づいてきた。蒼い宝石の煌めきに、二度目は確信犯的に、吸い込まれていく。
唇が重なる。触れるだけだった一度目とは違う。ヴァイオレットはぎこちなくその柔らかなものを押し付け、それに私も応える。よりはっきりと、彼女の存在を感じた。瑞々しい果実を口にしたような感触。蜂蜜にも似た甘い香りと、焼き立てのパンにも勝る柔らかさ、そして朝を告げるかのようなヴァイオレットの体温。
ヴァイオレットが瞼を閉じる。長い睫毛が震えていて、それをぼんやり「美しい」と思った。
つられるようにして、残った左目の視覚を奪う。見えるものがなくなると、他の感覚が一層研ぎ澄まされた。重なった唇の感触はもちろん、身をよじる衣擦れの音、唇の合間から聞こえる水音、服越しに伝わる彼女のメロディ。
機械仕掛けの手が、私の左手に重なった。そっと握ってきた手に、指を絡ませる。不思議と、ヴァイオレットの暖かさを感じた気がして、それが手を伝う彼女の感情なのだと改めて気づいた。
春の陽射しにも似た想いに、私の心も暖められていく。
どれほどの時間、そうしていただろうか。永遠にも思える時間だった。心は温かさで満ち、これが幸せなのだと確信できた。これ以上の幸福などないかもしれないとさえ思った。それ故に永遠だと感じた。けれど実際には、息の続かなかったヴァイオレットが唇を離すまでの、二十秒ほどであったはずだ。
離れていく唇を、名残惜しく感じた。
ヴァイオレットが瞼を上げ、再び翠を嵌め込んだ瞳と目が合う。波間のように揺れ動くそこには、いまだ私だけが映っている。
「……あ」
目が合うと、みるみるうちにヴァイオレットの顔が赤くなる。頬を薔薇に染めることはあった。この腕に抱え上げるたび、彼女は照れた顔を両の手で覆い隠していた。しかしここまで、赤く染まったことがあるだろうか。ライデンの夕陽にも負けない艶やかな赤に、私の方が恥ずかしくなってしまう。
つい今しがたまで私と繋がっていた唇が、何某かを語ろうとする。薄く開いたピンクの間からすーっと何度か息を吐き出し、言葉にならない声を紡ぐヴァイオレット。やがてその唇が、ようやく、言葉らしい言葉を発した。
「――嬉しい」
しみじみと呟く言葉に、私はただ、頷くしかなかった。
短い言葉を確かめるように、ヴァイオレットは何度も何度も、繰り返す。その一つ一つに、私は首肯した。
「嬉しい。嬉しい、です。嬉しいです。嬉しいのです。――これ以上ないほど、幸せなのです」
いくつもの薔薇を咲かせながら、ヴァイオレットは微笑んだ。晴れやかな表情が、やはり私にはどこか気恥しく、けれど心の限りに笑う彼女に応え、精一杯の笑顔で返す。
こうして、一つ一つ、愛の事実を試されるのなら。そうして、君との愛を確かめていけるのなら、どんなに幸せだろうかと私は思うのだ。
もう一度、ヴァイオレットを抱き締める。彼女の腕が、ゆっくりと、私の背中に回っていった。