――それは多分、一番ささやかな、「愛してる」の形。
「ねえ、郵便屋さん」
私が今の職場としているエカルテ島灯台の郵便局には、小さなお客様がよく訪問されます。
目の前の少女も、そうしたお客様のお一人です。
真珠のように真ん丸の瞳を、星空よりも多くの輝きで満たす少女は、つい今しがたまでタイプライターで遊んでいたはずです。私の使っていたブラインド・タッチの教科書を頼りに、一文字一文字、難しい顔を作りながら文字を打っていた少女が、気づくとカウンター越しに私を見ています。
仕分けの終わったお手紙と、少女の顔。両方を一度ずつ見て、私は手紙の束を置き、少女の方へと向き直ります。少女はそんな私の目を真っ直ぐに見つめて、好奇心を一杯に詰めた表情で頭を揺らしておりました。
「はい。どうされましたか」
「郵便屋さんは、先生の奥さんなんでしょう?」
純真無垢な問いかけに、体が固まるのがありありとわかりました。それはあたかも、油を差し忘れた機械みたいに。体の自由が、全く、効かなくなってしまったのです。
どういう、ことなのでしょう。唯一まともに動いた瞼を二度三度と瞬かせながら、突然この身を襲った金縛りに、私は対処しようとしていました。
――一先ず、少女の言葉は、全てつつがなく、理解できたのです。いえ……本当のところは、いくつか疑問が残るのですが、ともかく言葉の意味としては理解できたのです。
先生。少女が先生と呼ぶのは、ギルベルト・ブーゲンビリアという元陸軍少佐のことです。二年ほど前にこの島へ辿り着いた時にはジルベールと名乗り――そして今は、本名のギルベルトを名乗って、島の子供たちの先生をしております。私が長い間、ずっと探してきたお方。私がお側にいたいと願うお方。私の、何にも代え難く、どんなものと比べることもできず、命に代えても守りたく、そしてその命の限りを尽くしたい、一番大切なお方。
その、「先生の奥さん」とは……つまり奥方のことであり、結婚した男女のうちの女性の方を、すなわち妻のことを差す言葉で……要するに、目の前で鼻息を荒くしていらっしゃる小さなお客様は、私が旦那様の妻なのかと、そう尋ねておられるのです。
機械仕掛けの肺をこじ開けて息を吸い、私はようやく、お客様へ返答をします。
「私は、旦那様の――」
「そう、それ!それよ、郵便屋さん」
紡ごうとした言葉は、しかし興奮したご様子で右の人差し指を突き出す少女に、遮られてしまいます。ぐいぐいと、小さな体のどこにそんな迫力をお持ちなのか、少女はカウンターより乗り出して、私の方へと顔を近づけてきます。それに気圧されるばかりの私は、半歩後退りながらなお、少女の大きな瞳のみを見つめていました。
「どうして、ジル――じゃなかった、ギルベルト先生のことを、お名前で呼ばないの?」
「……旦那様のお名前を呼ぶことと、私が旦那様の……妻であることに、何か関係がありますでしょうか」
「関係大ありよぅ」
前にのめって、バランスを崩しかけた少女を支え、カウンターの向こうへとお戻しします。床に足が届いた少女は、綺麗な瞳を揺すって感謝の言葉を述べ、今度は慎ましやかな様子で頬杖をつき、しかしやはり大きな目をぱっちりと開いて、私の方を見つめておりました。
「だって、旦那さんと奥さんは、名前で呼び合うものでしょう?私のパパとママがそうだったわ」
少女が語ったのは、私の知らない、「普通の夫婦」のお話でした。
そういう、ものなのでしょうか。これまでいくらかの本を読みました。その中にはもちろん、古今東西の恋愛話というのも、ありました。しかし、多くの小説は二人が結ばれるところで終わっていて、結ばれたその後を――夫婦となった後のことを描いたものは、極々稀であったと記憶しています。
恋愛話においては、愛し合う二人は確かに多くが名前で呼び合っておりました。しかしそれは恋人同士、あるいはそれ未満での話。夫婦というのが、普通、お互いをどのように呼び合うのかを、私は知りません。
「旦那様」という呼び方は、もしや、とてもおかしな呼び方なのでしょうか。
「お嬢様のお父様とお母様は、お互いに、お名前で呼び合っていらっしゃったのですか」
「ええ、そうよ」
少女は一しきり頷いて――しかしながら、不意にその目を、カウンターへと落とされました。あたかもそれは、コップの水面のような、儚い揺らめきで――「悲しみ」という感情が、ありありと浮き出た瞳の色。
「……お墓にお花を供える時も、いつもパパの名前を呼んでるの」
――そんなことはあり得ないとわかってはいても、この心臓が、キュウと細い縄で締め上げられたような、そんな心地がするのです。
エカルテ島には、若い男性がほとんどいらっしゃいません。大陸戦争で多くの方が徴兵され、そして決して戻っては来なかったと、聞き及んでおります。それは、少女のお父様も例外ではございませんでした。
……さらに詳細に述べるならば、エカルテ島より徴兵された方は、私や
ふと気づけば、胸元のブローチを握り締めておりました。
――寒いのです。季節はまだ、冬に差し掛かろうとするばかりなのに。背中が震えて張り詰めるほど、寒さを感じるのです。
もし。もし。もし、私が彼女のお父様と同じ戦場におり。そしてもし、もし、この手にかけていたのなら。そんな悪い想像をしてしまうのです。
わかっております。私や
――それでも。縛り上げられた心臓が、凍ってしまったかのように。北の豪雪に、この身が埋もれてしまったかのように。寒くて仕方がないのです。
「ねえ、郵便屋さん」
「……はい。なんでしょうか、お嬢様」
浅い呼吸で心臓を落ち着かせながら、再度私を呼んだ少女へ、返事をします。悲しみを湛えていた瞳はすでにその色を変えていて、また最初と同じ、きらきらと数十カラットの金剛石にも勝る煌めきを見せておりました。私には、小さな少女の方がよほど、強くて逞しい、一人の大人に見えたのです。
「一番簡単な『大好き』の伝え方って知ってる?」
「……一体、どのような方法でしょうか。お嬢様はご存じなのですか」
少女の話題には、強く興味を引かれたのです。私は、つい先程少女がそうしていたように、今度はその反対に、カウンターより身を乗り出して、小さなお客様へと顔を近づけます。
少女はクスリと悪戯っぽく笑われて、それから隠し事を、内緒話をするようにして、私の耳へと口を近づけてまいりました。
「それはね――」
少女の囁くお話は、私にとっては目から鱗の内容で、そよ風のような声に感心して頷きながら、彼女が柔らかな微笑みを残して離れていくまで聞き入っておりました。
「――ね、簡単でしょう」
「――はい。簡単です」
満面の笑みを浮かべる少女は、「お名前が呼べないのなら、試してみてね」とそう言い残して、家路につかれました。
「ヴァイオレット」
茜差す郵便局の前に、そのお方の声がするのです。朗らかな春の日にも似た、菫を照らす陽射しにも似た、冬の一日を穏やかに温める太陽のような、そんな声がするのです。
微かな潮風になびくのは、群青を宿した深い黒の髪。眼帯をした右の目と、エメラルドを嵌め込んだ左の目。夕焼けの中、私を呼んだそのお方の口は確かに持ち上がり、とても穏やかに微笑んでおりました。
「旦那様」
私を呼ぶ方を――旦那様を、私もまた呼ぶのです。すると、不思議と胸が高鳴って、太陽に当てられたわけでもないのに、頬が熱くなるのです。踏み出した足が、そのままふわりと空気を掴んで、空へと昇ってしまうのではと、そんな心地がするのです。あるいはこれが、「幸せ」と、そういうものなのでしょうか。
旦那様と私、二人で並んで、灯台の郵便局を後にします。
「今日は手紙の配達日だったね」
「はい。今日は十通、届いております。これから皆様のところへ、お届けしてまいります」
「ああ、それがいい。皆、待っているよ。――私もついて行こう」
「はい。ぜひ」
週に一度、大陸の郵便社よりエカルテ島に手紙が届きます。その日は決まって、夕方にそれぞれのお宅に手紙を届けるのです。そしてその時間は、旦那様との、少し長い散歩の時間でもあります。
週に一度のこの日を、私は心待ちにしているのです。
「ごめんください。エカルテ島灯台郵便局です」
家々の扉をノックして、そう名乗ると。まず真っ先に聞こえてくるのは、慌ただしい子供たちの気配。「手紙だ!」と大はしゃぎする声まで聞こえて、それから数秒とせず扉が開かれるのです。
挨拶は決まって、「こんばんは、郵便屋さん。先生」と、何百種類という花を束ねたような満面の笑顔。私はそれに「こんばんは。お手紙が届いております」と返事をして、仕訳けた手紙をお渡しします。手紙を受け取った子供たちが、「ライデンの叔母さんからだ!」とか、「病院のお爺ちゃんからだよ」とか、「お兄ちゃん、もうすぐ帰って来るって!」とか、そんな風に喜ぶ頃合いで、お母様やおばあ様、おじい様が顔を出されます。
他愛のない世間話を少々。最近は、手紙の代筆のご依頼を受けることもあります。それから、時には夕ご飯のお裾分けなどを頂くこともあります。最初の頃は全て丁重にお断りしていたのですが――
――「頂いておきなさい。皆、君に感謝したいんだ、ヴァイオレット」
旦那様の言葉と、それにおじい様が強く頷かれてからは、ありがたく頂戴することとしております。
本日も、自家製だというパンを、バスケット一杯に頂いてしまいました。そのバスケットを、旦那様はごく自然に私の手から取ってくださるのです。その何気ない所作が、嬉しくて仕方がないのです。
「――どうした、ヴァイオレット?」
陽もまもなく全て沈もうという中、ふと気づけば、旦那様の横顔を見つめておりました。私の体とは反対側の、右の手にバスケットを提げる旦那様は、薄暗い世界の中でも、その燭台のようなエメラルドの瞳で私を照らし、そして見つけ出してくださるのです。それがまた、堪らなく、嬉しくなるのです。
こんなに。こんなに。こんなに、嬉しい、が積み上がってしまって。私は一体どうなってしまうのだろうと、胸元に手を握るのです。
「さすがに、暗くなるな」
九通を届け終わる頃には、太陽はすっかり水平線の向こうへと消えておりました。エカルテ島灯台にも明かりが灯って、それを頼りにする船たちが夜に溶けた水平線を行きます。
最後のお宅でランタンに火を分けてもらい、私はなおも、十通目の手紙の届け先を目指します。郵便局からは一番離れた、漁師のおじ様が暮らしている小さなお宅までは、歩いて十分ほどがかかります。
ランプの小さな明かりを頼りにすると、自然と旦那様との距離が縮まります。ふわりと漂うのは、甘酸っぱいブドウの香り。今日は、子供たちとともに、ワインの仕込みを手伝っていたと、そうおっしゃっておりました。
並んで歩く私たちの歩調は、ぴたりと一致しております。元より、
――今は、どうなのでしょう。私が、旦那様の歩調に、合わせているのでしょうか。それとも旦那様が、私に歩調を合わせてくださっているのでしょうか。それは、境界の曖昧な夜の中で見分けることが難しく、しかしそれを無上の喜びと感じる私が、確かにここにいるのです。二人で刻んでいるリズムは等しく同じで、ただそれだけの事実に、胸の辺りが暖かくなるのです。
――だからこそ。
旦那様の顔を窺うのは、これで何度目でしょうか。ランプに照らされるのは、宵の明星にも勝るきらめきの、エメラルドグリーン。いつかの日より、いくらか柔らかくなった顔立ち。変わらずに優しい旦那様は、バスケットとランタンを携えており、その両の手は塞がっております。それを……浅ましくも今の私は、寂しいと、もどかしいと、感じているのです。
少女の耳打ちが、鮮明に蘇ります。
「――旦那様」
「どうした、ヴァイオレット。足元が見にくいか?」
「……ランタンを」
立ち止まり、左の手を差し出して、私は旦那様に求めます。今、旦那様が左の手に提げている、淡い光を揺らすランタン。
「ランタンを、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「ああ――構わないが」
差し出されたランタンを受け取り、私たちはまた、歩き始めます。チラリと、たった今空いた旦那様の左手を、見遣りました。頬の熱さがばれてしまうのではと、そんな心配をして、私は足元を照らすようにランタンをやや下げます。
「旦那様に、一つ、お尋ねしたいことがあるのです」
「何を、訊きたいんだ?」
「……その……私と、旦那様は――私は旦那様の、妻、なのですよね」
隣の旦那様が、激しく咳込みました。ええ、今回に限っては、私としても、随分と変なことを訊いていると思うのです。旦那様の反応にも、納得できるのです。
共に暮らしております。それが幸せなのです。しかし、正式に婚姻をしたわけではなく、つまり法律上、旦那様と私は夫婦というわけではないのです。そうなれたのならと、そんな淡い願いを込めて「旦那様」とお呼びしてまいりました。
側にいたいと願っております。永遠に。この命の限りを、旦那様に尽くしたいのです。しかし、側にいるというのは、必ずしも夫婦である必要はなく、つまり私が側にいたいと願うこと、それを旦那様が許してくれることと、私たちが夫婦になることは全く別の話なのではと、そう思ったのです。
「ヴァイオレット――」
数秒咳込んだ旦那様が、足を止めて私を呼ぶのです。その声に応えるのが、ほんの少し、怖い、のです。しかし切り出したのは私で、ですから唇を噛み締め、旦那様の方を見ます。
ランタンの小さな光など、さして役には立たず。ただ穏やかな感情を宿す翡翠色の光を頼りに、私は旦那様と目を合わせました。エメラルドに映る感情の名前を、今の私は、少しはわかっております。
「すまない。ちゃんと、口にするべきだった。伝えたつもりになってしまっていた。――私はまた、君を悩ませてしまった」
その、
「ヴァイオレット。君を心から愛している。――それは、君に私の、妻になってほしいということだ。ずっと側にいて欲しい。私もずっと、君の側にいたい」
その、言葉を。三度目の、その言葉を。旦那様が、私にくれた、その言葉を。
今夜、初めて、私は涙を流すことなく、聞き届けることができたのです。
「私は、ずっとそのつもりで、君と過ごして来た。――君が、私を『旦那様』と呼んでくれるのも、同じことだと思っていたのだが……違った、だろうか」
「――いいえ。いいえ、いいえ、いいえ。違いません。相違ありません。私も、旦那様の、妻になりたく――勝手ながら、『旦那様』と、お呼びしておりました」
「そう、か……それなら、よかった」
旦那様の微笑みに、胸は痛いほど、高鳴っているのです。
旦那様の腕が、私へと伸びてきます。温もりを残した左手と、二人でお揃いの右手。その腕に引き寄せられ、大きな胸の中に抱き締められます。何度でも思い出すのは、煙と硝煙と、微かな花の香り。今の旦那様からは、先程と同じ甘酸っぱいブドウの香りがしていて、しかしそれはワインのように、私の頭を蕩かし火照らせるのです。
――これは、きっと、嬉しさ以上。幸せ以上。それを確かめたくて、ランタンを持っていない右腕を、旦那様のお背中に回しました。しがみつくしかなかった背中に、今はこの手が届くのです。
「……旦那様」
「なんだい、ヴァイオレット」
「妻、として……一つ、お願いがあるのです」
「うん」
「――手を」
たった今、旦那様の背中に回した機械仕掛けの手に、力を込めます。そこに感覚はありません。「指が動く」という感触はあっても、旦那様の背中の大きさを、温もりを、感じる神経は無いのです。
――それでも。
「手を、繋ぎたいのです。旦那様と手を繋いで、歩きたいのです」
何度も顔を埋めた旦那様の胸元より、顔を上げます。こちらを窺うのは、一等星よりうんと大きな輝き。たった一つになった、美しいそのきらめきが、暗闇に私を捉えて、決して欠けることなく微笑んでおりました。
「わかった」
体を離した旦那様が、左の手を差し出します。それはあたかも、御伽話に聞く王子様のようで、私はこれまで抱いたことのない、ふわふわと妙な心地で、その手に私の右手を重ねました。旦那様の手が、私の手に指を絡め、きゅっと握ります。私もそれに応え、繋がった右の手に力を込めました。
「君は、これがしたくて、私からランタンを取り上げたのか」
「はい。その通りです」
「……君は、とても可愛い
なおも微笑んでいる旦那様に、私も自然と、頬を緩めておりました。今、きっと私は、林檎やトマトのような顔をしていて、それがどうしようもなく気恥ずかしく、しかし何にも代え難く幸せなのです。
最後の一通を届けるべく、道を歩きます。二人で歩調が揃っています。揺れるのは、私が手にしたランタン、旦那様が手にしたバスケット、そして、二人で繋いだ、この手と手。
「君の手は、温かいね」
「
「いや……私が言いたかったのは、そういうことではなく」
「冗談です。――私も、温かさを、感じております。旦那様の手は、とても、温かいです」
「――そうか」
言葉を交わすたび、跳ねるように、繋いだ手が揺れるのです。感覚のないはずの、神経の通っていないはずの、温もりなんてないはずの手から、旦那様の想いを感じるのです。それがまた、私の胸を弾ませるのです。堪らなく嬉しいのです。
――「手を繋ぐと、『大好き』って伝わるんだよ」
旦那様。大好きな旦那様。……愛しい旦那様。
伝わっていますでしょうか。私の大好きは、伝わっていますでしょうか。いまだ口にできてはいない「愛してる」も、伝わっていますでしょうか。
また、旦那様と目が合います。それも、そのはずなのです。私は先程から、旦那様の横顔を見つめてばかりなのです。訳もなく息を吐いて、ぼうっと、見惚れてばかりなのです。
夜道を、旦那様と二人、ランタンの光と、お互いの温もりを頼りに、歩いていきます。週に一度、ささやかで特別なこの時間が、やはりどうしたって、私の宝物なのです。