愛しい人の、その名前は――
かつて私に従っていたヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女は、自分の願望というのを決して口にしない少女だった。
――「少佐」
彼女が私を呼ぶ時。それは次の命令を待っている時。何をすればよいのかと、碧い瞳は私に問いかけた。
――「少佐」
彼女が私を呼ぶ時。それは一冊の本を読み終えた時。次はどんな本を読めばいいのかと、私に尋ねた。
――「少佐」
彼女が私を呼ぶ時。それは一枚の報告書を書き上げた時。これでよいのかと、碧い瞳で私を窺った。
――「少佐」
彼女が私を呼ぶ時。それはエメラルドのブローチを見つけた時。私の瞳に例えたそれに、「美しい」と胸を抑えた。
――「少佐」
……一度、彼女から、願望らしきものを聞いたことがある。「少佐の命令を聞いていたいのです」と、彼女は瞳に涙を溜めて訴えた。これまでに見たことがないほど必死に、彼女は私に何かを伝えようとしていた。届かないことが、もどかしくて仕方ないのだと、そう語るような表情が痛々しかった。
言葉を教えても、それがなんなのか、どんな意味なのか、どう使えばいいのか――私は、そんな簡単で、そして大切な事を、彼女に教えていなかった。
――「心から、愛してる」
思えば、まずそれを、伝えなければいけなかったんだ。瓦礫の山、硝煙の夜、銃弾と爆音の飛び交う中ではなく。ただ穏やかな日差しの下で、抱き締めた彼女にそう伝えていたのなら。少なくとも彼女の運命は、変わっていたのかもしれない。
わかっている。それはもう、今更の話だ。
――「少佐」
涙に枯らした声には、確かに伝えたい想いが宿っていて。言葉を知らなかった少女が、私から離れた場所で、たくさんのことを学んだのだと、思い知らされた。想いを語らず、願いを語らず、心を語らず、言葉を語らなかった声に、その全てが乗っていた。
――「少佐」
言葉を知らなかったのは、私の方だったのだと、彼女に呼ばれるたび、思うのだ。
――「旦那様」
何かを告げるたび、ただその一言を口にできるのが嬉しいのだと、そう語るように微笑む彼女を目にするたび、思うのだ。
言葉は、まるでヴァイオレットのようだ。時にその鋭利さは、人を傷つける。けれどその本質は、やはりどうしたって美しい。暖かく、優しく、あたかも春の野に咲く紫の花のように、美しい。その美しさに、心を、奪われていく。
言葉を知らなかった私は、言葉を知った彼女に、相応しいのだろうか。言葉の美しさを知る彼女に、相応しいのだろうか。もし、そうでないのなら。
――相応しく、ならなければ。彼女の側にいるために。彼女に側にいてもらうために。何より、その想いの限りを私へ伝えようとする、彼女に応えるために。
私にも、伝えたい想いがあるのだから。
今からでも遅くはないはずだ。私も彼女と同じように、言葉を知っていこう。そこに秘めた想いを、込めた願いを、託した心を、正しく、彼女へ伝えるために。
――だからまず、手始めに、私は万感の思いを込めて、彼女を呼ぶのだ。
「ヴァイオレット」
愛しい君の、その名前を。
「雨が来そうだ、ヴァイオレット」
一足先に帰っていたヴァイオレットに、私は外の空模様をそう伝えた。島の天気は変わりやすい。潮流の関係か、季節風の関係か、雨は突然現れて、何もかもを濡らしていく。
玄関から家の中に入った私は、キッチンから顔を覗かせたヴァイオレットへさらに言葉を続ける。
「洗濯物を取り込んでくる」
「はい。では、私はこのまま、夕食の準備を続けます」
「ああ、お願い。今夜も楽しみにしている」
「――はい。ご期待に沿えるよう、奮励努力します」
厳めしい言葉で、柔らかい笑みを浮かべるヴァイオレット。ミトンをした姿が、随分と様になっていた。エヴァーガーデン家のメイドに教わったという料理は、疑いようもなく私のためであり、それが益々、私の頬から締まりをなくしてしまう。
「すぐに戻る。戻ったらまた、料理の手解きをして欲しい」
「はい。お待ちしております、旦那様」
薔薇色の微笑みに見送られて、私は勝手口から家の裏に出た。
三メートルはある竿が二本、軒下に掛けたロープが一本。そこへ、私とヴァイオレット、二人分の洗濯物がかかっていた。それから今日は、二人で使っているベッドのシーツや毛布も干している。まだ、雨に伴う風は強くないが、取り込むには一苦労しそうだ。
手際よく、作業を進めなくては。ヴァイオレットも待っている。そう思って、まずは大きなシーツ類から取り込んだ。タオル、要りようになってきたコート、私たちの衣服。取り込み、畳んでは積み上げ、時折雲の動きを気にしながら、ひたすらに手を動かした。どうにか、雨が降るのには間に合いそうだと、そんな見立てを立てる頃。一番の難関が、私の前に現れる。
女ものの――つまり、ヴァイオレットの、下着類。
こればかりは、何度繰り返しても慣れない。家事のうちと割り切れれば簡単なのだろうが、それでも、妙齢の女性の下着を、男である私が扱ってもいいものだろうかと悩む。世の夫には、それを平然とやってのける者もいるというが、私はまだそこまで成熟できていない、未熟な夫だ。
軍にいた頃の、白に無地と指定されたものではなく。年相応に飾った、おそらく今の流行りであろう、ヴァイオレットの下着。衣類は、そのほとんどがホッジンズや友人のドールが選んでいたと、ヴァイオレットは言っていた。もし、これがホッジンズの趣味だったのなら――もちろん、そんなことはないわけだが――いかに親しく、また恩義のある友人と言えど、殴っていたかもしれない。
一度、大真面目に、ヴァイオレットに相談したことがある。しかし、私の感覚がよくわからなかったらしいヴァイオレットは、愛らしく小首を傾げて、
――「私も、旦那様の下着を洗って、干して、取り込んでおります。問題はないと思われますが」
と、不思議そうに言うばかりだった。
誰にも聞き届けてもらえないであろう、溜め息を一つ。意を決して、私はヴァイオレットの下着に手を伸ばした。一つ一つ取り込み、畳む間、まるで爆弾の解体でもしているかのような心地だった。
干してあったものを全て取り込んで畳み終わり、布の山を抱えて家に戻った。タンスやクローゼットにそれらを仕舞い、太陽の香りがするシーツを敷いて、息を吐く。雨はまだ降っていない。
「終わったよ、ヴァイオレット」
キッチンを覗くと、丁度、ヴァイオレットがオーブンの火を見ているところだった。私と彼女で手作りした耐熱煉瓦製の窯には、赤々とした薪が積まれている。その色合いから火加減を見ていたヴァイオレットが、私を振り返った。
「ありがとうございます――」
旦那様。いつもならそう続くであろう言葉を、ヴァイオレットは意図的に切った。「旦那様」の、その一文字目の形になった唇が、一度、ぴたりと閉じる。
空を写し取ったヴァイオレットの瞳が、ランプの光を浴びて、揺れていた。それを、逡巡と、羞恥と、私は読み取った。私を見つめるヴァイオレットが、その瞳の奥で何かを迷い、しかしどうにかして形にしようとしている。
そうして、碧には決意が宿る。覚悟を決めた薄桃を、ヴァイオレットはゆっくりと、開いていく。私はただ、そんな彼女の表情に見惚れ、そして彼女が紡ぐであろう、玲瓏な響きの「美しい」言葉に、耳を傾けていた。
「ありがとうございます――ギル、ベルト、様」
その、音の連なりに――幾度となく耳にしたはずの言葉に、私は目を見開いた。
「ヴァイオレット……今、私の、名前を、呼んだのか」
「……はい」
俯いて、ヴァイオレットは小さな返事を寄越した。さらりと流れた髪の隙間に、燃える薪と同じような、真っ赤な耳が見えている。両の手を腿のところで重ね合わせて握り、彼女は恥じらうようにして体をよじる。金糸の髪がまた揺れて、潤んで彷徨うサファイアの瞳と、薔薇色に染まる柔らかな頬を、垣間見た。
「旦那様に、ヴァイオレットと呼ばれるのが、嬉しいのです。その声を聞くだけで、胸がふわふわと、空を飛ぶ心地がするのです。鼓動で痛くなるくらい、幸せなのです。――ですから、旦那様も、お名前でお呼びしたら……嬉しいかと……思い……私も、ギル、ベルト、様と、お呼びししたく……」
声はすぼんでいく。しかしそれとは反対に、私の胸にはどんどん強く、響いていく。
ギルベルト。
その音に、心を奪われていく。
その言葉が――名前が、胸に染み入ってくる。
不思議と、目頭が熱くなった。
「――顔を上げておくれ、ヴァイオレット」
「い、今は、ダメです。ダメなのです。きっと、今の顔を、見られたら……恥ずかしくて死んでしまうのです。大切な――大切なお名前を、やっと、お呼びできたのです。それが嬉しくて、堪らないのです」
顔を上げないヴァイオレットに、また、涙が溢れ出そうになる。
ギルベルト。
君は、それほどの想いを、私の名前にくれるのか。君は、それほどの想いで、私の名前を呼んでくれるのか。
決壊寸前の涙を堪えて、笑う。
「ヴァイオレット」
「……はい」
「大丈夫。顔を上げて。――私もきっと、君に見せられないような顔をしている。でも、どうしても、君の顔を見て伝えたいんだ。ヴァイオレット」
ただ、名前を呼ぶだけなのに、こんなに胸が高鳴るんだ。私の名付けた君の名前を、溢れて止まらない想いで呼ぶことが、こんなにも嬉しいんだ。
そしてそれ以上に、君が私の名前を呼ぶことに、頬を染める程の喜びを見出していることが、嬉しいんだ。
「……はい。――はい」
ヴァイオレットが、ゆっくりと、俯いた顔を上げる。揺れる髪は太陽よりも明るく。頬は熟れた林檎よりも赤く。潤んだ瞳は海よりも碧く透き通ってたゆたう。柔らかな唇は、その動揺を伝えるように震え、しかし彼女の感情を隠すことなく緩み、微笑んでいた。
「――ありがとう、ヴァイオレット」
その想いに応えたくて、涙を堪え、精一杯に、笑う。
「私の名前を呼んでくれて、ありがとう。――心の底から、嬉しいんだ」
「――はい」
「心臓がどうにかなってしまいそうなほど、嬉しいんだ」
「――はい。――はい」
私の言葉一つ一つに、ヴァイオレットは頷く。短い「はい」という返事に、彼女の全てを預けるようにして、頷く。
視界が滲む。それでも私は、笑っている。
そんな私に、ヴァイオレットもまた、笑顔を向けている。
握りしめていた両の手を、ゆっくりと私へ差し出す。ミトンをした手が、私の頬を包む。そこに、ヴァイオレットの温もりを感じている。
「――旦那様は、泣いて、いらっしゃるのですか。それとも、笑って、いらっしゃるのですか」
「どちらもだ。どちらもなんだ、ヴァイオレット。嬉しくて、泣いていて。嬉しくて、笑っているんだ」
「――はい。わかります。私にもよく、わかります」
ヴァイオレットが笑う。薔薇にも勝る艶やかさで。向日葵にも勝る大きさで。秋桜にも勝る優しさで。私を包む暖かさで、ヴァイオレットは笑う。
――そうして、彼女は願いを、口にする。
「――ギルベルト、様と。そうお呼びして、よろしいでしょうか」
「もちろんだ。私も君に、そう呼ばれたいと願っている。――ヴァイオレット」
私の言葉に、ヴァイオレットは一際大きく、頷いた。離れていくミトンの手に、涙が一滴、頬を伝う。
ヴァイオレットと二人、夕食の支度を進める。暖まったオーブンには、白身魚とたくさんの野菜を敷いた、プレートを入れる。昨日ヴァイオレットがお裾分けしてもらったというパンは、数枚スライスしておいた。
私とヴァイオレット、二人並んで、のぞき窓からオーブンの中身を窺う。魚の焼き加減に耳を澄ましていたヴァイオレットは、ふと、ミトンを外した手を胸元に当てて、呟いた。
「――初めてのことで、上手く、『ギルベルト様』と、呼べませんでした」
スカイブルーの瞳を、ヴァイオレットは私に向ける。彼女の頬はいまだ紅潮していて、その艶やかな色合いを、堪らなく可愛らしいと、美しいと、愛おしいと思いながら、私は彼女の言葉を待つ。
「……練習が、必要です」
胸元に手を当てたまま。深呼吸を一つ挟んだヴァイオレットが、唇を開いた。
「――ギル、ベルト、様」
美しい音の連なりに、私はまた耳を澄ました。
「――ギル、ベルト、様」
愛しい人の声に、目を閉じ、聞き入っていた。
「――ギルベルト、様」
――ああ。嗚呼。なんて。なんて。こんなにも、美しいのだろう。
「ギルベルト、様。――ギルベルト様」
君の呼ぶ私の名前は、どうしてこんなにも、美しいのだろう。
――一度、名前を捨てようとした。何もない、「ジルベール」として、生きていこうとした。ギルベルト・ブーゲンビリアという男を、殺そうとした。
……けれど、できなかった。
ヴァイオレットが、私の捨てようとしたものを、拾い上げた。零れたブドウを拾うように。あたかもそれを宝石のように。一つ一つ拾い上げ、抱えて、そうして私の前に差し出した。その時になってようやく、私はその大切さに気づいたのだ。
ギルベルト。
父と母が、産まれたばかりの私に、くれた名だ。
兄さんが、不器用な瞳と心で、愛してくれた名だ。
友人が、じゃれつく声で、慕ってくれた名だ。
私が、心のどこかで誇り、胸を張った名だ。
そして、ヴァイオレットが、心と想いを綴って編み上げ、今鮮やかな美しさをくれた名だ。
「ギルベルト様」
その名の、似合う人に。
「ギルベルト様」
その名が、相応しい人に。
「ギルベルト様」
君が、美しさをくれた名に。玲瓏な響きで口にする名に。喜びの限りで呼びかける名に。
その名に、相応しい人に。その微笑みに、相応しい人に。
私はなっていこうと、そう決意するのだ。