「――心から、愛してる」
想い、というものは、決して消えるものではないのだと、出会ってきた多くの方々と、代筆をしてきた多くの手紙に、教えられました。
幼き頃より、続く想い。離れていても、続く想い。死してなお、続く想い。たくさんの、消えることのない想いに、触れてまいりました。
多かれ少なかれ、人には伝えたい想いがあり。けれどそれは、必ずしも届くものではなく、時には本人の意思とは関係なく、永遠に、伝えられなくなることもあります。
想い、というものは、決して消えることはなく。伝えられなかった想いも、消えることはなく。どこへも書き出せず、どこへも行くことはなく、それ故に、自分の心に、残り続ける。
――私にも、そんな想いが、あるのです。
きっと、始めから、愛していたのです。エメラルドグリーンの瞳と、初めて出会った、あの時から。何百の宝石よりも美しく、光を受ければ海のようで、光を映せば空のようで、光を宿せば星のようで、そんな瞳に出会ったあの時から、ずっと。私を、優しく抱き留め、受け入れてくださったあの時から、ずっと。
――伝えられなかった想いは、この身の内に残り、積もっていくのです。
始めから、愛していたのです。ただ、当時の私は、言葉を知らず。今思えば、心も知らず。それ故に、感情を知らず。けれど、想いは確かにあって、伝えられない故に表へ出ることはなく、形にはならずに、ただ私の内に積もり続けたのです。
――届かぬと知ってもなお、想いは積もり続け、膨らみ続けたのです。
ずっと、愛していたのです。お会いできない日々も、ずっと。この感情を自覚して、貴方の言葉を理解して、私の想いに気づいてからも、ずっと。月日が経てばたつほど、届かない想いは、私の内につのっていったのです。
しんしんと。しんしんと。それはあたかも雪のように、時を重ねるたび、あなたを想うたび、私の内に残り、重なり、つのって、積もり続ける。
――雪は、今も降り続けているのです。
今冬初めての雪が、エカルテ島を白く染めております。断崖に近い海岸線、舗装されていない道、収穫の終わった葡萄畑。音もなく、ただ白い残像を引きずる雪が、しんしんと、しんしんと、それらの上に降って、積もっていくのです。小さな島はもうすぐ、海に浮かぶ雪ウサギに変わることでしょう。
冬支度の雪化粧をまとう島の景色を、私は灯台の郵便局より眺めます。今日は代筆業務もなく、また手紙をお送りになる方もなく、反対に定期の郵便飛行機もなく、葡萄畑の作業もなく、小さなお客様がいらっしゃる時間には早く。椅子に腰かける私は、ただぼうっと、ひらひら舞う雪を見つめるのです。ストーブの上のやかんの音が、やけに大きく聞こえておりました。
雪の季節。それは、つまり……ギルベルト様と再会してすでに一年以上が経ったことの示唆であり、同時に私がCH郵便社を辞めて、エカルテ島へと移り住んでまもなく一年という示唆でもあります。
月日が過ぎるのは、あっという間の、できごとです。お会いできなかった日々も、お会いできてからの日々も、私には等しく一瞬で、しかしかけがえのない輝きと共にある日々なのです。
――けれど、その流れる早さと、私の体感とは反対に、一年という時間は、物事が変化するには十分すぎる長さなのだとも、思うのです。こうして、時折一人の時間を過ごしていると、それを改めて感じます。
多くのものが変わりました。その中で、また私自身も変わっていきました。かつて、「少佐」とお呼びすることしか知らなかった方を、「旦那様」とお呼びするようになり、そして今は、「ギルベルト様」と、その素敵なお名前を口にすることができる。それが、無上の喜びであると、この上ない幸せであると、今の私にはそれがわかるのです。
変わったものは、呼び方に限りません。それこそ、上げ出したらキリがないほど、たくさん。その一つ一つが、私にとっては天に昇るほどに嬉しいことなのです。
穏やかな朝。暖かなキスが私を起こし、あるいはささやかな口づけでギルベルト様を起こします。二人で一日の支度をして、ともに出掛け、手を振って分かれるのです。
淑やかな昼。少しずつ整えた郵便局に、時折、島の子供たちとともにギルベルト様が現れます。海を見つめながら昼食を取り、はしゃぎ回る子供たちを見守るのです。
静かな夜。二人並んでキッチンに立ち、夕食の支度をします。ギルベルト様はあまり器用ではなく、やや苦戦する彼を、失礼ながら可愛らしいと思ってしまうのです。
一つ一つは、本当に小さく、ささやかな変化なのです。それでも、私にはそれが好ましく、また新たなギルベルト様を知るたび、頬をどうしようもなく緩めてしまうのです。
――思えば、多くが変わった、一年でした。
けれど。ずっと、変わらずに、残っているものもあるのです。
しんしんと。しんしんと。雪は降り続け、積もり続けております。白くなった入り口のガラスに目を遣ると、ぼんやりと私の姿が映っておりました。しかし、私が見つめているのは、数時間後にそこへ立ち、小鳥のさえずるノックと、やがて訪れる春を思わせる声と、鮮やかな赤い花のような笑顔で私を呼ぶ、愛しい人の姿なのです。
――「ヴァイオレット」
胸元のブローチに、触れます。そのまま、ゆっくりと、自分の唇に、触れます。
「ギルベルト様――」
その先に続けたい言葉は、白い空気に溶け込んでいきました。
「愛してる」。一番大切な言葉を、私はまだ、口にできておりません。初めてその言葉をいただいた時から、あるいは初めてその温もりに触れた日から、ずっと、私の中に降り積もっている言葉。
お伝えしようと、しているのです。例えば、名前を呼ぶこと。例えば、手を繋ぐこと。例えば、接吻をすること。言葉にできない「愛してる」を、その代わりに、事実で確かめているのです。けれど、やはり、言葉というのは大きく、想いというのは大きく、事実を確かめるほどに「愛してる」は私の中へ降り積もっていくのです。
「愛してる」。私にそう伝えてくれたギルベルト様に、私もやはり言葉で伝えたいのです。私の想いを、伝えたいのです。
「……伝えたいのです」
あなたを想うたび、心の内を舞う雪の花。今日もまた、小さな六花が、積もっております。
雪のおかげか、寒さゆえか、すぐ隣の温もりを、いつもより近くに感じております。
白い息を吐き、鼻先をやや赤くしている、ギルベルト様。雪を凌ぐための傘を差したその左腕に、私は右腕を絡ませておりました。必然、ギルベルト様との距離は近く、雪のために音がかき消される分、私たちの吐息と、高鳴る心臓の音だけが、はっきりと聞こえておりました。
傘は、二つ、あったのです。ギルベルト様の分も、私の分も、傘は二本、確かにあったのです。けれど――
――「私が、そうしたいんだ」
ギルベルト様が、二人で一つの傘を使わないかと、そう言われて。そうして私も、その提案に、頷いて。
折からの寒さと、降り積もる雪を、言い訳に。傘とトロリーバッグをギルベルト様に預け、この身はその左腕に委ね、降り積もった雪を踏み締めるのです。触れ合った二の腕からは、例え厚手のコート越しであっても、ギルベルト様の温もりを感じずにはいられません。
「寒くはないかい?」
「……はい。ギルベルト様のお側は、いつでも温かいです。――温かい、は幸せです」
「……ああ、そうだね。私も温かいよ、ヴァイオレット。温かくて、幸せだ」
そんなことを話しながら、いつもよりゆっくりと、歩くのです。灯台からの道を、吐息を絡ませながら、歩くのです。
頬に熱を感じるのは、きっと、雪のせいでも、寒さのせいでも、ありません。
しんしんと。しんしんと。私たちの周りに、雪は降り積もり。そうしてまた、あなたを見つめ、頬を燃やし、想いはつのっていく。
今晩のメニューが暖かいシチューに決まる頃、二人の家に帰り着きます。玄関の庇の下で、傘の雪とコートの雪を落とし、部屋の中へ。日中留守にしていたために、部屋の中にも寒さが入り込んでおりました。
「急いで火をつけよう」
コートを壁に掛けたギルベルト様は、私の肩に毛布を掛けて、すぐにストーブの前へと移ります。屈んで火をつける準備をするギルベルト様の隣に、特に理由もなく、私も膝をつきました。やることは、無いのです。ただ私は、ギルベルト様の横顔を見つめ、火の準備を見守るだけです。
ギルベルト様の左目が、私の方を窺いました。目を細めて微笑んだギルベルト様は、火打石を鳴らし、紙の切れ端に火種を作ります。それをストーブに入れると、中の細い枝が次第に燃え始めました。火の様子を見ながら、ギルベルト様は比較的小さな薪を数本、ストーブへくべます。薪が増えるたび、ストーブの赤さが増して、それがギルベルト様の横顔を照らしております。
エメラルドの瞳に、光が、揺れています。さざ波のような揺れに、心を、奪われておりました。気づくとその目は私を見つめていて、美しい色で私へ笑いかけるのです。
「直に、暖かくなる。ヴァイオレットは、それまで温かくしていなさい」
そう囁いたギルベルト様の左手が、こちらへと伸びてきます。前髪に触れた手が摘まみ上げたのは、小さな小さな綿雪。それは、ギルベルト様の指先で、すぐに溶けてなくなりました。それをぼんやり見ていると、また、ギルベルト様の手が、私へと伸びます。
暖かな手のひらが触れたのは、私の頬でした。
「君の頬は、もう少しで、凍ってしまいそうだ」
そう言って、ギルベルト様の指が、頬を撫でるのです。手のひらには確かな温もりがあって、それが冷えた頬には心地よい。いまだ暖かさには程遠い部屋の中、触れられた頬だけが、一足早く、雪解けを迎えたかのようです。
――しんしんと。しんしんと。降り積もった雪が、解けるように。その温もりに、溶かされて。
「ギルベルト、様」
想いは今、確かに、溢れ出たのです。
立ち上がり、キッチンへ向かおうとするギルベルト様を、その袖を摘まんで引き留めます。一度不思議そうな顔をしたギルベルト様は、しかしすぐに膝を折ってくださり、また、私の前に戻ってきます。
「どうしたんだ、ヴァイオレット」
朗らかな春の声が、私を呼びます。あたかも雪解けを報せるかのような、暖かな響き。ギルベルト様にいただいた、私の名前。その響きが、また一段と、心臓の鼓動を強くするのです。
――想いを、つのらせてまいりました。想わない日は、決して、なかったのです。日を追うごとに、想いは降り積もり。今、確かに溢れたのです。あなたの温もりに溶かされて、溢れたのです。
紡ぎたい言葉は、もう、決まっているのです。
「愛しています」
想いは、溢れ。今、ようやく、言葉になったのです。
言葉を口にした途端、胸の辺りが、温かさで満ちていきました。
一番――代え難く、掛け替えのない、大切な言葉なのです。
その意味が、わからず。その意味を、知りたくて。その意味に、触れたくて。歩んできたのです。
――ああ。ああ。なんて。なんて。なんて、温かい、言葉なのでしょう。たった一つの言葉が、これほどまでに、心を温かくするのですね。たった一つの言葉が、これほどまでに、この身を温かくするのですね。
「あなたを、愛しています。ギルベルト様」
もう一度。今度はゆっくり、噛み締めて、口にするのです。光満ちるエメラルドの瞳を見つめて、一番伝えたい人に、一番伝えたい言葉を、届けるのです。
ふと、暖かなものが、頬を伝っておりました。右の頬を、一筋流れたのは、涙。溢れた想いが、雫となって、私の目より零れておりました。
笑おうと、したのです。笑って、伝えたかったのです。「愛してる」と、笑顔で、伝えたかったのです。これまで出会った多くの方が、そう望まれていたように。今愛しい人と生きる私は、笑って、「愛してる」を口にしたかったのです。
いいえ、笑っております。笑っているのです。私の口元は、「愛してる」を告げて、確かに緩んでいるのです。温かな言葉と、温かな心のまま、笑っているのです。
しかし、涙は、止まらないのです。堪えることは叶わず、ただ流れ出るのです。溶けた雪が、大地へと染み出し、山を流れるかのように。涙は止めどなく、溢れるのです。
ああ。私は。今、やっと、知ることができたのです。理解することができたのです。
「今……やっと……少佐の言葉が、理解できたのです。少佐は……あなたは、こんなにも――こんなにも温かい言葉を、私に、くださったの、ですね」
「愛してる」の、その言葉を。どれほどの想いを込めて、編み上げ、言葉にしてくださったのか。あの場で、私に「生きろ」と告げて、どれ程の温かさで私を包み込んでくださったのか。
――始めから、愛していたのです。それが今、理解できたのです。
涙の伝う私の頬に、ギルベルト様の手が、伸びてきます。触れた指先は、変わらず温かで。雫を拭う仕草も、温かで。
今の私には、わかるのです。ギルベルト様が、どれほど私を想ってくださるのかが。そして私も、どれほどギルベルト様を想っているのかが。
「ヴァイ、オレット。泣かないでおくれ、ヴァイオレット」
そう訴えるギルベルト様のお声も、大きなものを堪えるようにくぐもって、震えているのです。霞んだ視界に捉えたエメラルドの瞳は、いつもと変わらずに穏やかで、優しく、温かく、しかしその端一杯に涙を溜めているのです。お名前で初めてお呼びした時と同じように、いいえそれ以上に、喜びに満ちた表情はくしゃくしゃで、けれどそれが、堪らなく愛おしい。
「いいえ、いいえ、いいえ。泣いております。けれど、それ以上に、笑っております。――嬉しくて、嬉しくて、泣いているのです。嬉しくて、嬉しくて、笑っているのです」
「――ああ。私もだ、ヴァイオレット。嬉しくて、堪らないんだ。愛おしくて、堪らないんだ」
涙を流す私たちは、きっと、世界で一番幸せな笑みを浮かべているのです。
ギルベルト様が、左手だけでなく、右手も私の方へと差し出します。それにつられるようにして、私も両の手を、彼へと伸ばします。それぞれの手が、お互いを探り当て、引き寄せて、抱き締めます。ギルベルト様の薫りに包まれ、ギルベルト様の温もりに包まれ、ギルベルト様の優しさに包まれております。
私もまた、ギルベルト様を包みます。この手はもう、あなたの背中まで、届くのです。その背を包み、暖めることも、できるのです。きっと、私の「愛してる」で、あなたを包めるのです。
涙も笑顔もそのままに。ギルベルト様の左肩に顔を埋めたまま、私は呟きます。
「ようやく、お伝えできたのです」
「――うん」
「ようやく、言葉にできたのです」
「――うん。――うん」
短い頷きには、あたかもギルベルト様自身の想いが全て、乗せられているような気がいたしました。
涙を零した肩より、顔を上げます。自然、こちらを見つめるギルベルト様の瞳と、目が合いました。揺れる瞳に映る色は、「愛してる」という感情。そして、その真ん中に、私が映っているのです。
手を、繋ぎます。手のひらを合わせて。指と指を絡めて。温もりで包んで、愛しさで紡いで、手を繋ぐのです。
名前を、呼びます。こつんと額を合わせて。吐息の混じる距離で。愛しい人の、その名前を呼ぶのです。
そうして、一つ一つを確かめて。その先に、また、言葉を紡ぎます。
「愛して、います」
「心から、愛してる」
「愛して、います。あなたを、心から、愛しています」
――そうして、誓いの、口づけを。ただ、喜びの限りに。ただ、幸せの限りに。ただ、「愛してる」の限りに。
私の、これまでの、全ては。あなたに、ただその言葉を伝えるために、あったのです。
私の、これからの、全ては。あなたに、ただその言葉を伝えるために、あるのです。
「――心から、愛しています」
予告通り、このお話で一区切りとさせていただきます。
ただ、まだいくつか、温めているお話はあり…まだしばらく、続くかもしれません。
現状では、結婚式のお話は、出そうと考えております。
ですが、一先ず、ここまでお付き合いいただいたことに感謝いたします。