予告していた結婚式のお話に取り組んでおりますが、予想よりも時間を擁しておりますので、閑話休題です。入場特典に多大なる影響を受けております。朝のお話が大好物です。
朝まだきに包まれて。春待つ君を抱く。
腕の中に、温もりがある。
柔らかな、温もりがある。
花の香りの、温もりがある。
幸せという名前の、温もりがある。
覚醒しきらない意識。左の瞼を照らす穏やかな光と、窓の外を楽し気に飛び交う鳥たちが、辛うじて朝であることを伝えている。しかし、春と呼ぶには早いこの頃は、夜の肌寒さが朝まで残る。ベッドを出るのには、相応の覚悟が必要だ。
寒い朝に目覚めるより、今この胸に抱く温もりに、長く触れていたい。そんなことをぼんやりと考えて、左腕に力を込めた。衣擦れの音。自然、温もりと柔らかさと香りを、より強く感じる。胸が幸せで満ちていく。
「……ギルベルト……様……?」
それは、雲雀の声だろうか。耳に届くか届かないかの、微かな吐息に混じって、玲瓏な声が私を呼ぶ。朗らかな春の陽気を響かせる音色が、私に瞼を上げさせた。薄ぼんやりとした視界を、徐々に徐々にピントを合わせて、そうして声の主を見る。
碧い瞳が、今日も私より早く、朝陽の光を宿していた。
丁寧に紡がれた生糸のような、細く滑らかでしなやかな黄金の髪。名工が丹念に仕上げた陶器を思わせる白い肌には、ほんのりと薔薇の色が乗る。嵌め込まれた碧い宝石は、光の加減で、澄み切った空にも、たゆたう海にもなる。瑞々しい果実のような桃色の唇は、いくつもの美しい言葉を編み上げる。
細い眉を八の字にして、ヴァイオレットが私を見つめている。困惑と羞恥が入り混じる表情に、私は問いかけた。
「起こしてしまったか」
金砂の髪をさらりと揺らして、ヴァイオレットは首を振る。早朝の小さな金剛石を纏った睫毛が震えた。碧い瞳を白い瞼の下に隠して、ヴァイオレットは私の胸元に顔を埋めた。額と頬をこすりつける拍子に、彼女の髪が私の鼻先をくすぐった。甘やかな香りが鼻腔を撫ぜる。
「どうか、もう少し、このまま」
きゅっと、銀の手が私の服を摘まむ。朝の空気へ溶けてしまいそうな声に、私は頷いた。
「休日だから、少しの寝坊は許されるだろう」
「――はい」
眩い金糸に、口づける。私の心をすっかり蕩かす君に、触れずにはいられない。右手の義手を外している朝が、一番もどかしい。右手があれば、もっといろんなことを、君にしたい。両の腕で抱き締めてもいい。片方の手で髪を梳くのもいい。もう片方で頬に触れよう。頭を撫でるのは、子供扱いと拗ねるだろうか。
左手しかない今、私にできることは、愛おしい温もりを手放さないよう、抱き締めることだけ。細く嫋やかな最愛の女性を、抱き締めることだけ。それだけでも、こんなに、幸せだ。
「ギルベルト様の匂いに、包まれています」
ぽそりと、胸元のヴァイオレットが呟いた。形のよい鼻先を押し付けられる感触がくすぐったい。思わず苦笑いを零す。
「男の匂いなんて、いいものじゃないだろう」
「いいえ――ギルベルト様は、いい匂いがします。嗅いでいると、とても安心するのです」
「……そう、か」
一瞬、答えに詰まった。安心する。そう言われて嬉しいが――男として、果たして素直に、喜んでいいものか否か。一つのベッドで、ぴたりと密着し、抱き合っているというのに、「安心する」と言われては――もしや一人の男として見られていないのではと、余計な心配をしてしまう。
……そんな風に、余計なことを考えていたから、罰が当たったんだろう。
胸元のヴァイオレットが、微かに身をよじる。寝間着がこすれた拍子に、彼女の香りが漂った。甘やかな香りに脳は一瞬で痺れ、くらくらと眩暈がする。
そんな私の様子には気づいていない様子で、ヴァイオレットはゆっくりと唇を開いた。
「安心、するのですが……」
言い淀む間があった。言葉を探しているのか、口にするのを躊躇っているのか、別の何かが思い留まらせるのか。胸元に埋まるヴァイオレットの表情は見えない。微かに開いた唇から、そよ風のように漏れる吐息だけ、感じている。
きゅうっと、ヴァイオレットがその両手に力を込めた。
「安心、するのですが……今は、ドキドキ、します。胸の辺りが、痛いくらい、ドキドキします」
ついに言ってしまった。そう言わんばかりに、ヴァイオレットはなお強く、私の胸に額を押し付ける。赤く痕になってしまうのではと、まったく見当違いの心配をしたのは、彼女の言葉が残した衝撃のせいだ。
――だから。これから、止めることのできない胸の高鳴りを、ヴァイオレットに直接聞かれるのは。やはり余計なことを考えた私への、罰なのだろう。
「ヴァイオレット」
左手に込める力を強くする。それへ応えるように、ヴァイオレットの細い足が、私の足を絡めて重なる。ヴァイオレットという存在が、私と一つになったような、そんな錯覚を抱いた。
「愛してる」
桃色の耳に囁く。ちゃんと、届いているだろうか。ちゃんと、聞こえているだろうか。もしかして、早鐘のような私の心臓がうるさくて、届いていないんじゃないか。そう思うくらい、私もドキドキしている。
胸元のヴァイオレットが、身じろぎを一つ。
「……ギルベルト様の、心臓が……私と、同じ、リズムです」
呟く声に、幸福と微笑みが乗っていることだけ、はっきりとわかった。
ヴァイオレットがこちらを見上げる。碧い瞳には、確かな朝陽の色と、仄かな薔薇の色。けれど、揺れる水面に映るのは、淡い緑ただ一つだけ。
その、色の、名前を。幾度となく、知ってきた。
「愛しています」
微笑むヴァイオレットに、どうしようもなく愛しさは溢れる。額に口づけると、彼女は照れたように口元を緩めて、また、その瞳を隠した。それに倣い、私も目を閉じる。
朝にはまだ早い。
春には少し早い。
朝まだきに包まれて。
春待つ君を私は抱く。
そして、春が来たのなら――
きっと、一番綺麗な君を、見れるのだろう。