第一章はギルベルト。
「なあ、あの日の君は、本当に綺麗だったなぁ」
―――――
春を迎えるにはいまだ早い、肌を刺すような冷たい風が、エカルテ島の断崖から吹き上げている。コートの裾を巻き上げる程の風。わずかに残った雪を舞い上げる風。しかし、目の前の海面を、水上機特有の
離水に十分な速度を得た郵便飛行機が、海面滑走を終え、機首を上げる。軽やかな発動機の音が響いて、水上機はその機体を空中へと躍らせた。二翅プロペラを力一杯に回転させて、郵便飛行機は見る間に高度を上げていく。
顔馴染みの操縦士が、こちらへハンドサインを寄越した。親指を立てるその仕草に、私も同じサインを返す。大きなゴーグルが、まもなくオレンジになろうという太陽を受けて、きらりと光った。
島の上空を一周して、郵便飛行機は水平線へと飛び去っていく。私と操縦士で今日一日を費やして整備した発動機に、異常はないらしい。ともかく、一安心だ。
水上機は、あっという間に小さくなっていく。郵便社所属機特有の真っ赤な機体色をした、双葉双フロートの機影は、すぐに空の蒼へ溶けて見えなくなった。
無事に飛び去った機体を見送ってなお、私は断崖から海を眺めていた。碧い海と、蒼い空。その境界線が溶けてなくなる、彼方の水平線。陽光を煌めかせる風景は、いつだか子供たちが言っていた「海は真珠飾り」の言葉のままだ。決して絢爛ではなく、されど見るもの全てを惹きつける、魔性ともいえる魅力。たゆたう景色に息を飲む。
その景色に、最愛の人の姿を、重ねずにはいられない。
「ヴァイオレット」
今頃は、先に夕食の支度を始めているであろう、彼女の名前を呟く。春に咲く美しい紫の花。その名前は、不思議と目の前の景色に馴染み、溶けあって一つになる。
息を吸って、大きく吐く。冷たい潮風は、胸に痛いほど染みる。爽やかとは言い難いが、悪い気分ではない。懐かしくもある。潮風を浴びれば、帆を一杯に張った船で、沖に出た日々を思い出す。船長であり、舵を握る父の指示で、兄さんと二人、無数のロープを操った。子供の頃に染み付いたからか、今でもロープ一つ一つの名称を
余計なことを考えている。海を見ていると、どうにも感傷に浸ってしまう。物思いに耽ってしまう。それは例えば、幼い頃の思い出であったり。若かった頃の、過ちであったり。つい最近の、幸福であったり。そして――
「考え事かね」
しわがれた声がする。振り返ると、白い髭を蓄えた老人が、こちらへ歩み寄ってくるところだった。私も、ヴァイオレットも、この島へ移り住んでから、特にお世話になった方だ。親愛を込めて、「おじいさん」と呼ばせてもらっている。
白髭のおじいさんは、愛用のコーンパイプをふかしながら、私の隣に立つ。皺を刻んだ目元を細め、静かな瞳でこちらを見据えた。
「あんたは、いつも何かを考えているね」
「いえ……そんなことは」
明確に否定できる言葉がない。海を眺めていると、考え事をしてしまうのは事実だ。ここのところは、特に。
「わしでよければ、話を聞くがね」
煙を吐き出す声に、問い詰めるような響きはない。ただ、「そうすると整理のつくこともある」と、温和な瞳が語っている。以前はその優しさに甘え、何も話さなかった。自分の出自も、島へ来た理由も、何一つ話さなかった。
でも、今は。
「……大切な、ことなんです」
大切なことだから。話を聞いてくれる人に、素直に、話そうと思った。
おじいさんは目を細める。
「ヴァイオレットさんのことかね」
「……はい」
ゆっくりと吐き出された紫煙が、風に乗って天へ昇る。おじいさんは、それ以上を問いかけない。ただじっと、私の言葉を待っていた。
「今度、彼女と正式に、結婚しようと思うんです」
「それはめでたい。おめでとう」
「ありがとうございます」
ヴァイオレットと再会し、そして共に暮らして、一年の時間が過ぎた。四年という時間を埋めるのに、そしてその間に大きく変わった私たち自身を埋めるのに、その時間が長かったのか、短かったのかはわからない。ただゆっくりと、けれど確かに、お互いの変化に、馴染んできた。一日一日を大切に、新しい二人を、積み上げてきた。
想いは変わらない。私はヴァイオレットを愛している。彼女の幸せを願っている。叶うのなら、この手で、彼女を幸せにしたい。それが私の幸せなのだと、痛いほど理解した。
そして、ヴァイオレットの想いも、胸が詰まるほど、理解した。
――「愛しています」
かつての私が告げた、遅すぎる言葉を、大切に抱えて暖め、そして彼女自身の言葉として、私へ伝えてくれた、その想い。
ヴァイオレットが、どれだけ私を想ってくれるのか。それを思うたび、涙が出そうになる。
それほどの想いを伝えてくれた彼女を、愛したい。私に「愛してる」の言葉をくれた彼女を、愛したい。この身が尽きるまで、一生をかけて、大切にしたい。
だからこそ――
「結婚式はどうするのかね」
私の悩みは、それに尽きた。
風が吹く。コートの合わせ目から、寒さが体を貫いた。やはり春には、まだ早い。
「……それを、悩んでいます」
私の言葉に、おじいさんは穏やかに息を吸って、そして煙とともに吐いた。
結婚を決めてから、色々なことを、ヴァイオレットと話した。とは言っても、一年の時間の中で、多くのことはすり合わせてきていた。改めて決めるようなことはほとんどなかった。ただ――結婚式のことだけは、決まらなかった。
二人で話し合った選択肢は二つ。エカルテ島で挙げるか、ライデンで挙げるか、だ。
「エカルテ島の皆さんには、計り知れない恩義があります。彷徨っていた私を、受け入れてくださった。この一年間も、ヴァイオレットと共に、たくさんお世話になりました」
「お互い様さね。わしらも、あんたたちがいて助かっておる」
「……感謝しても、しきれません。もう一度、生きてみようと思ったんです。ヴァイオレットとともに、この島で、もう一度」
「……それは、嬉しいがね」
おじいさんもまた、海を見る。太陽の色が変わり始めた。しかし、夕焼けにはまだ遠い。水平線に近づくほど大きくなっていく太陽に、目を眇める。
「この島で、結婚式を挙げるべきだと、思うんです。これから私たちが生きていく、この島で。皆さんに感謝するためにも。――ただ、」
鴎が飛んでいる。さざめく波頭のその先に。
魚が泳いでいる。揺れる波間の狭間にて。
貝が潜んでいる。敷き詰めた砂の絨毯に。
美しい島だ。美しい海だ。私たちは、ここで生きていく。そこに迷いはない。
それでも。
「ただ、ライデンで挙げるべきとも、思うのです。ヴァイオレットが多くの時間を過ごした場所です。彼女にとってかけがえのない人たちもいる。この島の人たちと同じくらい、感謝したい人たちがいるのです」
親友の顔が浮かぶ。ヴァイオレットの仕事仲間も。それから、兄さんの顔も。
結論は、出なかった。どちらも、私たちにとっては大切な場所で、かけがえのない人々だ。
これからを生きていく場所。
これまでを生きてきた場所。
そのどちらで、二人の門出を迎えるべきかなんて、そう簡単な話ではないはずだ。
「どうする、べきでしょうか」
呟いただけの問いかけが、風に溶けて飛ばされる。見上げた空は、雲一つない澄んだ色だった。今夜は綺麗な星が見えるかもしれない。
じっと、話を聞いていたおじいさんが、深く息を吐いた。言葉を選ぶような間の後に、落ち着いた声が聞こえてくる。
「あんたも、ヴァイオレットさんも、似た者同士だ。色んなものを、一人で抱え込み過ぎる」
おじいさんへ顔を向ける。皺の刻まれた表情は、島の子供たちを諭す時と同じ色をしていた。
「ギルベルトさん。わしはな、ずっとこの島で生きてきた。じゃが、妻は違う。妻とは島の外で出会った。全く別の場所の出身じゃ」
小さな瞳が、島の外へと向けられた。断崖絶壁の先へと、私もまた目を向ける。太陽が、いよいよ橙色に染まり始めていた。波頭に触れるか触れないか、いましも水平線と一つになろうという光が、その装いをゆっくりと、しかし確実に変えていく。
太陽の姿が、海面に伸びて、映っていた。あたかも、海の上を渡ってエカルテ島へと続く、一本の道のように見えた。
「結婚する時には、二人で、この島で、生きていくことを選んだ。今のあんたたちと同じさね。――じゃが、結婚式は、妻の故郷で挙げた」
「……それは、どうして、ですか」
遠くを見つめる目が、優しさで細くなる。きらりと光る瞳が、果たしてどんな景色を思い起こしているのか、私にはわからない。ただ、そんな風に、笑って過去を振り返る表情が、おじいさんにとってどれほど幸福な瞬間だったのかを、物語っていた。
簡単なことだと、おじいさんは何気ないことのように言う。
「わしが、そうしたかったんじゃ。妻の生まれ育った場所で、一番綺麗な妻を、見たかった。――ただ、それだけのことさね」
ぽかりと紫煙が漂う。くゆる煙が、空へ上がることもなく、しばらく私たちの周りを包む。
「……わしらのことを考えてくれるのは嬉しいがの。結婚式は、あんたとヴァイオレットさん、二人の大切な日じゃろう。――あんたたちの好きにしていいんだ。それが一番の結婚式さね」
海を見つめていた目が、私へ向けられている。好々爺という言葉の相応しい、柔和な微笑み。弓なりの瞳と目が合う。
「あんたは、どうしたいんだね」
「……私が、どうしたいか、ですか」
海へ目を遣る。太陽が完全なオレンジ色に変わっていた。おぼろげなふちが水平線に触れ、潰れて溶けていく。日没前の、一番の輝き。海は大理石のごとく白に染まり、夕焼けがその上にビロードの絨毯を敷いた。
眩さに目を眇める。そのまま、私は目を閉じた。途端、吹き抜ける風の轟を聞く。海鳥の口ずさむ歌を聞く。鼻には潮の香り。それから、しないはずの太陽の香り。近づきつつある春の雰囲気を、感じている。
――「ギルベルト様」
その、春の中に、ヴァイオレットが立っている。
光の加減で、金にも、白にも見える、ヴァイオレットの髪。
透き通るほどに白い肌を、仄かな薔薇の色が彩る。
海とも空とも見えるシアンブルーの瞳に、私が映っている。
潤んだ薄桃の唇が紡ぐのは、私の名前と、それから――
……ゆっくり、目を開く。
「ありがとうございます。――私は、これで」
おじいさんに一礼して、踵を返す。やるべきことが――やり
それを知ってか知らずか、おじいさんは何も言わず、コーンパイプをくわえたまま小さく頷いた。こちらを見つめる瞳だけが、「いってらっしゃい」と私を見送ってくれた。
私たちの家を目指す。そこで待つ人を想う。そうすると、自然と足取りが早くなった。一歩を踏み出すたびに歩幅が開いて、足の回転が速くなる。気づいた時には、駆けだしていた。緩やかな坂道を駆け上っていく。固く重いコートが、今は鬱陶しくさえあった。
玄関を開くと、暖かさが迎えてくれる。
まだストーブが欠かせない季節だ。真っ赤な薪の色に、この家の温もりを実感する。
迎えてくれる暖かさがあるというのは――嬉しいのだ。玄関を開けたところで、思わずほうっと息を吐いてしまう。ただ、起きて、ご飯を食べて、寝るだけだった場所が、彼女と暮らし始めてからというもの、驚くほどに鮮やかに色づいた。
ストーブの赤に、これほど心を奪われることは、無かった。
「ただいま、ヴァイオレット」
家の中へ声をかける。愛しい人の名前を呼ぶ。
返事はすぐにあった。短い「はい」という声は、一足先に春を迎えていて。鈴を鳴らすように軽やかで、美しい響きが私の耳朶を打つ。その声に、ずっと、耳を傾けていたいと思った。
タタタと小走りが床を叩く。キッチンから顔を出したヴァイオレットの碧い瞳が、すぐに私を見つけてくれた。途端、パッと無数の花が咲く。大きく表情が変わったようには見えない。けれど、ヴァイオレットは確かに笑っていて、綻んだ頬と、煌めく瞳で、私を迎え入れる。小さな花弁の開く気配を感じて、やはり一足早く、彼女のもとへは春が訪れていたのだと思った。
「ギルベルト様。おかえりなさい」
ヴァイオレットは、オーブンの調子を見ていたらしい。ホッジンズの送ってきたエプロンをして、ミトンを手に嵌めている。その姿のまま私を迎えてくれるところが、無性にむず痒い。可愛らしく、愛おしい。
コートを脱いで壁に掛けながら、ヴァイオレットに尋ねる。
「遅くなってしまった。すまない。今夜はグラタンだったね」
「はい。今夜はグラタンです。今、オーブンを温めていたのです」
頷いて答えるヴァイオレットが、私の隣で笑う。距離が近づいた分、今度はより鮮明に、その表情を見て取れた。碧の瞳はしかと私を捉えて、光を躍らせる。金砂の髪と睫毛が、さらりと揺れてリズムを刻む。薄桃色の唇は言葉を紡ぎ、そしてその端を微かに持ち上げる。美しい人が、私を見つめて、薔薇色に微笑む。
「私は……マカロニを茹でればいいだろうか」
「はい。マカロニを茹でてください。私は肉と野菜の下準備をします」
ホワイトソースは、一緒に作りましょう。ヴァイオレットはそう言って、エプロンとプリーツスカートをひらめかせる。キッチンへと戻る彼女のフリルが、しゃなりと優美に揺れていた。
「ヴァイオレット」
真白な背中に声をかける。と同時に手を伸ばして、ヴァイオレットを抱き締めていた。頭一つほど小さな彼女の体が、すっぽりと腕の中に収まる。抱き締めた拍子に、ふわりと甘やかな整髪料の香りが漂った。
ぴくりと、ヴァイオレットは肩を跳ねあげる。驚かせてしまっただろう。呼吸を数秒止めている間、早鐘のように打つヴァイオレットの鼓動を感じていた。
大きく息を吐き、吸って、また吐くヴァイオレット。呼吸に合わせて、胸が上下する。息を吐いた拍子に、体から強張りが抜けていくのを感じた。ぽすんと小さな音がして、ヴァイオレットがその身を私の方へと預ける。軽やかで、しかし確かな重みのある彼女の存在をこの胸へ受け止め、なお強く抱き締めた。ヴァイオレットを抱くための右腕へ、彼女の震える右手が重なる。
花の香りを纏い、はらりと揺れる髪の合間に見えたのは、その先端までトマトのようになった、愛らしいヴァイオレットの耳だった。
ヴァイオレットの唇が、言葉を紡ぐ。
「ギル、ベルト、様……その……このように、抱き締めていただくと、嬉しいのですが……ですが、急に抱き締められると……驚きます。……驚いて……胸の辺りが、苦しくなって……ドキドキ、して、しまいます」
素直に訴えるヴァイオレットが、益々愛おしくなる。なお強く彼女の体を抱き寄せ、その温もりも、柔らかさも、香りも、全てを腕の内で感じる。かすかに漏れるお互いの吐息が、ストーブで温まる部屋の中で混じり合った。
朱に染まるヴァイオレットの耳へ、私は囁く。
「ヴァイオレット。話がある。私たちの、結婚式に、ついてだ」
「……はい」
聞いております。そう言うように、ヴァイオレットが左手も私の右腕へ重ねる。きゅっと、ミトンをした手が、器用に私の袖を掴んでいた。
決定的な言葉を口にする前に、一度目を閉じた。左の目から視界を奪うと、一層鮮明にヴァイオレットの存在を感じた。私たちしかいない家には、薪の弾ける音以外、存在しない。それ以外の感覚は全て、ヴァイオレットのものだ。
目を開く。ついさっき、瞼の裏に見た彼女の姿が、腕の中で言葉を待つヴァイオレットに重なった。
「結婚式は――ライデンで、挙げよう」
そうして私は、私のやりたいことを、口にした。
ヴァイオレットが、微かに息を吸う。トクリと、彼女の心臓が鳴る。私は、ヴァイオレットへ私の考えを伝えるべく、さらに言葉を続けた。
「ウェディングドレスを着た君を、ライデンの街で見たいんだ。君が、たくさんの人と出会ったライデンの街で、一番綺麗な君を見たいんだ」
碧い海。優雅な夕陽。煉瓦の街。ヴァイオレットが、自動手記人形となり。多くの人に出会って、言葉を紡ぎ。そうして「愛してる」を理解した、街。
微笑む君を思い描く時、いつも脳裏によぎるのは、ライデンの風景だった。
「私のわがままを、許してくれるだろうか」
想いの丈を告げて、ヴァイオレットに尋ねる。私の好きにしていいと、君はそう言ったけれど。君の想いも、私は知りたい。
「ギルベルト様――」
玲瓏な声が、かすかに震えて、言葉を紡ぐ。
「では、私も、わがままを言って、よろしいでしょうか」
「ああ。好きなだけ言ってくれ」
はらりと金砂の髪が揺れる。細くしなやかな髪の隙間から、朱い頬と碧い瞳が垣間見えた。
きゅうっと、重なる彼女の手に、力が籠る。
「私も――ライデンで、式を挙げたいです。ギルベルト様に教えていただいた、ライデンの美しい夕陽の中で、式を挙げたいのです。一番素敵なギルベルト様を、ライデンの街で見たいのです」
愛しい人のわがままを、私は大切に抱き締めた。
あまりの喜びに、どうにかなりそうだ。事実、ヴァイオレットを抱き締める以外のことが、全くできていない。言葉にしたいことは、たくさんあるはずだ。しかしそのどれも形にはならなかった。
言葉が出なくて、もどかしい。
「ギルベルト、様?」
そんな私を、ヴァイオレットが不思議そうな目で見る。マリンブルーの瞳に応える言葉を、私は一つしか知らなかった。
「――幸せにする」
あまりにもありきたりな誓いの言葉が。きっと使い古されている約束の言葉が。私の気持ちを伝えるものとして、そしてヴァイオレットの想いに応えるものとして、相応しいのかはわからない。想いはいくら届けたって足りないくらいだ。いつだってヴァイオレットは、それ以上のものを私へくれるのだから。
「君をきっと、幸せにする。そう約束する。ヴァイオレット」
それ以外に浮かばない言葉を、繰り返す。私にとって、彼女こそが世界の全てだ。それ以上なんて考えられない。
抱き締める私へ応えるように、ヴァイオレットは両の手で私の左手へ触れた。ミトンをしたヴァイオレットの手は、丁度私の手を包める大きさをしている。機械仕掛けの手の温もりを、ふかふかとした布越しに感じた。
微かな吐息が漏れる。それが、ヴァイオレットが微笑む証だと、知っている。
「――そのお約束は、もう、叶っております」
小さな囁きが、赤い唇から零れた。
ライデンの駅舎は、相変わらずの賑わいを見せていた。大陸縦断鉄道の完成と、それに伴う鉄道網の拡充の影響か、私が知る頃より倍近い人が駅のホームを行き交う。大きな旅行鞄を携えた紳士淑女もいれば、小さな工具箱を抱えただけの労働者も見えた。皆が皆、それぞれの目的があって、汽車を待っている。
鉄道は、今や珍しいものではなくなった。少し前の馬車と同じ、人間の徒歩の延長線で、移動手段。蒸気機関車への感動は薄れ、近頃はヂーゼルや電気で動く鉄道まで現れた。車窓の風景は、着実に当たり前のものとなっていく。
それでも、鉄道での旅には、不思議と心躍るものがあった。
「もう、着いてしまったのですね」
向かい合わせの座席。減速していく風景を見つめるヴァイオレットがそう呟いて、残念そうに眉尻を下げる。
船と鉄道を乗り継いで、丸三日の長距離移動だった。だというのに、私も彼女と同じ感想を抱いている。
視界の先、どこまでも果てしなく続く、碧の世界を見た。
線路の右にも左にも、溢れんばかりに咲き誇る、一足早い春の訪れを見た。
青々とした森をたたえる、孤高にして堂々たる山の頂に、いまだ残る冬を見た。
そして、大陸中の美しい景色の合間に、積み上げられた人々の賑わいを見た。
ヴァイオレットの言う通りだ。流れていく風景に目を奪われ、ヴァイオレットと語り合う。停車した駅で弁当やサンドウィッチを買って、それを二人で食べる。眠る時は同じ方の椅子に座って、身を寄せ合って眠る。そうして過ごした三日間は、本当にあっという間の時間だった。
「君といると、三日なんてあっという間だ」
「――はい」
窓の外から私へと視線を移し、ヴァイオレットは口元を緩めて頷いた。
「不思議です。ギルベルト様へ会いに行くときは、まるで永遠のように感じたのです。それが今は、本当に一瞬の出来事で――不思議でたまりません」
ごとりと、客車が揺れる。それから、蒸気の吐き出される甲高い音。いよいよ列車は、ライデンの駅に到着したのだ。
車両に乗り合わせた人たちが、おもむろに立ち上がり、それぞれの荷物を手にした。小さなバックを抱えただけの紳士が、真っ先に車両を後にする。大きな旅行鞄を棚から降ろす夫婦。待ちきれない少女が先に駆け出して、それを慌てた様子で兄と思しき少年が追い駆ける。そうして駅へ降り立った人たちを、迎える人もいた。
「……降りようか」
「はい」
ヴァイオレットと二人、立ち上がる。二人分の旅行鞄を棚から降ろして、乗降口へと向かった。乗降口の小さな階段をホームへと先に降りて、ヴァイオレットを振り返る。
「ヴァイオレット、鞄を」
「――はい」
自分のバックをホームへ置き、差し出した右手に、ヴァイオレットが大きなトロリーバックを預けた。ずしりとした重みを受け止めて、義手が小さく軋む。
そして、反対の手を、差し出す。
「ヴァイオレット、手を」
「いえ、私は――」
私は大丈夫です。そう言おうとしたのだろうが、ヴァイオレットは言葉を切った。戸惑った視線が、差し出した手と、私の顔を、行ったり来たりする。
そんな彼女に、私は素直な願望を、隠すことなく告げる。
「君と、手を繋ぎたいんだ。――ヴァイオレットは、私と手を繋ぐのは、嫌か?」
私の言葉に、ヴァイオレットの瞳が真ん丸になった。道中のどんな景色にも勝る美しさで、碧の瞳が輝いている。眩い宝石の只中に、私が映っていた。
ヴァイオレットの頬が、薔薇色に染まる。アクアマリンの双眸が、光を揺らした。
「ギルベルト様は、時々、ズルいです」
震える唇で訴えて、ヴァイオレットはゆっくり、その手を私へと差し出す。愛用の手袋をしたヴァイオレットの手が、私の手へそっと重なった。その手を離すまいと、私は力を込める。ヴァイオレットの手を、取る。
一段、一段、確かに踏み締めるようにして、ヴァイオレットは車両より降りてくる。いつか読んだ御伽話の王子の真似をして、最愛のお姫様の手を、私は静かにエスコートする。
ホームへ降り立ち、両の足を揃えたヴァイオレットが、頬を春の色にしたまま、微笑む。その表情があまりにも愛おしくて、私はつい、また素直な気持ちを告げてしまう。
「……すまない。――けど、これからも時々、ズルをしそうだ」