ホッジンズのお話。
「ねえ、ヴァイオレット。あなたきっと、世界で一番、幸せな花嫁になるわ」
―――――
その電話は、金曜日の、よりにもよって終業時間直後に、かかってきた。
俺の会社――CH郵便社には、電話が一台ある。普段、カトレアとアイリスが詰めている、
オフィスルームの片づけをしていた俺は、内心で溜め息を吐いた。週末の仕事終わり。今夜はこのまま、どこかで酒でも飲もうと思っていたのだ。
「ベネディクト――」
まだ残っているはずの副社長へ、電話へ出てくれと頼もうとした。だが、俺がその頼み事をしきる前に、件の男から反応が返ってくる。
「ホッジンズが出てくれ。今手が離せない」
……相変わらず、社長使いの荒い。俺は諦めて、まとめかけの書類をそのままに、社長室を後にした。赤い絨毯の上を足早に歩き、ドールのオフィスへ足を踏み入れる。出張代筆後、そのまま帰宅した二人のドールの姿は、そこにはない。人っ子一人いない夕闇の部屋の中に、駄々をこねる子供のような電話の音が鳴り響いている。
「はいはい。今出ますよ」
子供をあやす心持ちで電話の前に立ち、送話器を取った。ベルが鳴り止む。
「もしもし。こちらはCH郵便社です。申し訳ありませんが、当社は本日の営業を終了しておりまして」
定型的な文章で、電話の相手が口を開く前に告げる。これで引き下がってくれれば御の字。引き下がらなければ、社長のサービス残業確定だ。最も、会社の規定的に、社長にはそもそも残業と残業代いう概念が存在しないわけだが。そんなものを決めたのは誰だと言いたいが、草案を練ったのは紛れもない俺自身だった。
相手の言葉を待つ。すぐに、電話の向こうの人物が、口を開くのがわかった。
『――ホッジンズか?』
聞き覚えのある声に、一瞬思考が固まった。しかし体は勝手に動いて、ひょっとこ口みたいな受話器を掴む。腹の底から声が出た。
「おまっ、ギルベルトかっ!?」
オフィスに俺の声が響く。自分の声に、自分で耳鳴りがしている。それは、電話の相手――ギルベルトも同じだったらしく、俺たちはしばらく電話口で悶える羽目になった。
数秒がして、ようやくギルベルトが口を開いた。
『……君は、電話でも、元気だな』
苦笑いする声に、肩でもはたいてやろうかと思った。
「お前なあ、もっと手紙寄越せよ。ていうか電話があるなら、毎日でもかけてこい。皆、お前とヴァイオレットちゃんのこと、心配してるんだぞ」
『なら、君の会社でも、エカルテ島に郵便飛行機を出してくれ。今の配達頻度だと、一月に一通が限度だ。電話は――今、エカルテ島郵便局の電話を無断で借りてる。だから、この通話のことは、内緒だ』
ギルベルトの答えに脱力する。滑走路もない島へ郵便飛行機を出すには、水上機か飛行艇が必要だ。会社として成功しているとはいえ、そこまで大々的に空の郵便を整備するには時間がかかる。
その件は、とりあえず今度、ベネディクトと相談するとしよう。
声のトーンを一段低くする。ここからが本題だ。
「……それで。電話を無断で使ってまで連絡を寄越すなんて、何かあったのか」
余程急な要件だったから、手紙ではなく電話を使ったのだろう。エカルテ島で何かあったのか。まさか、ヴァイオレットちゃんに何かあったんじゃないか。そんないやな想像をしてしまい、身構える。
が、俺の覚悟とは裏腹に、電話口のギルベルトは、至って穏やかな口調で切り出した。
『ああ。君に、真っ先に伝えようと思ってな』
「何を」
『――ヴァイオレットと、正式に結婚する』
親友の言葉に、全身の強張りを解く。もっとも、また別の意味で緊張がせり上がって来て、凝った肩に鈍痛が走った。開いた口からすぐに言葉が出ず、何とか肺と喉を振り絞って、我ながら掠れた声で答えた。
「そう、か……。おめでとう、ギルベルト」
『ありがとう』
穏やかな声に、胸の内から込み上げるものがあった。それを、ぐっと堪える。
もう、一年だ。エカルテ島でギルベルトを見つけて。そして、ヴァイオレットちゃんが彼のもとへ行ってしまって。二人が共に暮らし始めて、一年。
――「急がないで欲しい。まずはゆっくり、二人で過ごして欲しい。頼むよギルベルト。俺にとっても、ヴァイオレットちゃんは大切な人なんだ」
まるで、父親みたいなことを親友に懇願したのも、一年前だ。結婚するにしても、時間は必要だと思った。それは、ギルベルトがヴァイオレットちゃんの変化に慣れる時間であり。ヴァイオレットちゃんがギルベルトの変化に慣れる時間であった。
……そろそろ、そういう話が来るとは、思っていた。離れていた四年もの間、ヴァイオレットちゃんは――そしてギルベルトも、ずっとお互いを想い続けていた。離れていても、愛していた。片時も忘れることはなかった。だから、二人が結ばれることに違和感はなかったし、反対する意思もない。ただ、ある程度覚悟はしていた。
たった四年だけど。それでも、共に過ごしたヴァイオレットちゃんは、俺にとって、本当に家族のような存在だ。その彼女が、親友の妻となる。俺の元を離れて、ギルベルトのところへと行ってしまう。
この一年で、もう、随分と慣れたつもりだったけど。やはり改めて、寂しさを感じずにはいられない。心の片隅に、ぽっかりと大穴を穿たれたように。さむしい風がそこへ入り込んで、なお俺の心を冷やしていく。
寂しいよ。ヴァイオレットちゃん。
『それで、ホッジンズ。ここからが本題なんだが――』
黙ったままの俺に、ギルベルトが切り出す。目元まで昇ってきた涙を押し戻し、「なんだ」と俺は尋ねた。
『私たちの、結婚式なんだが――ライデンで挙げることにした』
……思考が止まるなんて、生易しいものじゃなかった。文字通り、全ての思考が吹き飛んだ。頭の中が真っ白になった。ぼろぼろとあらゆるものが抜け落ちて、危うく送話器を取り落としそうになる。
折角押し留めた涙が、感情とともに溢れた。どれ程歯を食い縛っても、流れた涙は止められない。溢れて零れて滴って、電話台の上に溜まっていく。視界が滲んで、前がよく見えない。
「そうか……っ。そう、か……っ」
震える唇の間から、それだけ絞り出すのがやっとだった。
ヴァイオレットちゃんの晴れ姿が見れる。この街で、俺のいるこの街で。彼女がたくさんの人と出会い、たくさんの想いを受け止め、たくさんの心をしたためた、ライデンの街で。ヴァイオレットちゃんとギルベルトの結婚式が、見れるんだ。大切な女の子と、大切な親友の、そんな大切な二人の、結婚式が、見れるんだ。
こんなに嬉しいことを、俺は知らない。
どうしてもう泣いているんだ、とギルベルトはまた苦笑して、しばらく、待っていてくれた。
「すまん、あんまり、嬉しくてな」
『変わらないな、君は。――夏になる前には、式を挙げたい。だから、急だけど、来週二人でそっちに行く。二週間くらい、下見をしたい。君はその辺り詳しいだろうし、手伝ってもらえると助かる』
「ああ、任せとけ。来週だな」
『ああ、そうだ。ヴァイオレットも、君たちに会えるのを楽しみにしてる』
飛び上がりたい気持ちを抑え、短いやり取りを繰り返して、電話を切った。丁度その時、部屋の扉が開いて、ベネディクトが現れた。彼は俺の顔を見るなり、怪訝な表情で尋ねる。
「なんだよ、どうしたホッジンズ。電話の相手、誰だったんだ」
目元の涙を拭いつつ、ベネディクトへ答える。社長使いの荒い副社長相手でも、自然と頬を綻ばせずにはいられなかった。
「ギルベルトからだった。ヴァイオレットちゃんとの結婚式を、ライデンで挙げるって。来週、準備のために、こっちへ来るって」
俺の言葉に、ベネディクトは両眼を見開いた。それから、彼には珍しく、心の底から嬉しそうに笑った。
「マジかっ!そっか、そっかぁ……ヴァイオレット、ライデンで結婚すんのか」
確認するような呟きに、何度も何度も頷いた。その度にまた、涙が溢れそうになる。歳を食うと、涙腺が緩んでいけない。
「よしっ」
涙を振り切ろうと、気合を入れ直す。
「今日はもう帰る。色々――準備しないと」
来週なんて、あっという間に来てしまう。酒なんて飲んでる場合じゃない。式場とか、ドレスの手配とか、二人のためにしてやれることはいくらでもある。時間なんて足りないくらいだ。
「手伝えることがあったら、何でも言えよ」
やはり珍しく、そんな言葉を寄越したベネディクトに見送られ、俺は足早に会社を後にした。
二人がライデンにやって来たのは、次の週末だった。
拡張の進むライデンの駅舎。丁度今ホームへ入ってきた汽車が、長旅の疲れを吐き出す。響く蒸気の音を聞き届けながら、俺はホーム中央の時計を確認した。時間的に、二人が乗っているのはこの汽車で間違いない。
妙な緊張をしている自分がいる。頬を張って深呼吸を一つ。それから、俺は後ろを振り向いた。CH郵便社の面々が、そこにはいる。ヴァイオレットちゃんとの再会が、皆待ちきれない様子だ。
「あの汽車みたいだね」
到着した汽車を指差すと、真っ先にベネディクトが歩き出した。それへ、カトレアとアイリスが続く。三人とともに、俺も汽車へと足を向けた。
ライデン駅で一日に乗降する人間の数は、日に日に増えている。首都の主要駅であるし、この駅からさらに細分化した路線へと接続していることもその要因だろう。人々の足は確実に鉄道へと移っていて、それを示すようにたくさんの人が行き交う。
俺たちの目指す列車からも、たくさんの人が降りてくる。鞄を小脇に抱えた紳士。杖をつく老夫婦。急ぎ足の職人。あどけない少女が人形を抱えて走り去ったかと思うと、それを追いかけるように兄らしき少年が飛び出して来た。大きな鞄を抱えた両親は、それから随分遅れてあたふたと現れる。その頃には、少女と少年は祖父母に抱き留められていた。
ふと、頬から力が抜けた。慌ただしい光景も、穏やかな光景も、ここではいくつもの光景が見られる。行き交う人が増える程、駅という空間に詰まる物語が増える。
もちろん俺たちも、そのご多分に漏れない。
「ホッジンズ。迎えに来てくれたのか」
直に聞くのは、実に半年ぶりとなる親友の声。右眼に眼帯をした精悍な顔立ちの男が、俺の前に立つ。宵闇色の髪を撫でつける髪型は陸軍時代と同じだが、穏やかな目つきが、最早彼が軍人ではないことを理解させる。
そして、そのギルベルトの、隣には。
「ご無沙汰をしております、社長」
月明りの髪。蒼海の瞳。薔薇の唇。春色の頬。真白なスカートと、プルシアンブルーのジャケット、ダークレッドのリボン。
「久しぶり、ギルベルト。――ヴァイオレットちゃん」
俺が笑いかけると、ヴァイオレットちゃんは碧い瞳をかすかに細めた。表情の変化は、相変わらず小さなものだ。けれどよく見れば、彼女が確かに微笑んでいるのがわかる。
その、本当に小さな変化が、ヴァイオレットちゃんの成長だ。絵に描いたような無表情で、どんな心も表に出すことはなかった彼女。しかし今では、こうして、ほんの少しでも、心が表情に出る。そんな些細な変化が、俺は嬉しくて堪らない。
……変化といえば。ちゃっかり、ヴァイオレットちゃんはギルベルトと手を繋いでいる。頬が微かに朱を帯びているのはそれが原因かと、俺は思い至った。
正直、どんな表情をしていいのかわからない。娘に初めて男ができた時の父親というのは、こういう心持ちなのだろうか。
「元気そうじゃない、ヴァイオレット」
そのヴァイオレットちゃんの肩を叩き、じゃれるように腕を回して、アイリスが笑う。ヴァイオレットちゃんのすぐ近くで、ぱっと青い花が咲く。それに、ヴァイオレットちゃんはこくりと頷いた。
「はい、元気です。アイリスさんも元気そうです」
「あたしは元気よ。ヴァイオレットに負けないくらい、じゃんじゃん手紙書いてるんだから」
「はい。これからもじゃんじゃん書いてください」
「まっかせなさい。――ところで、ヴァイオレット」
ヴァイオレットちゃんの肩を抱くアイリスが、チラリと下の方へ目線を映す。その見つめる先を追うように、ヴァイオレットちゃんも視線を落とした。アイリスの見つめる先には、指を絡めて繋がる、ヴァイオレットちゃんとギルベルトの手。
「ギルベルトさんとは、いつも手を繋いでるの?」
俺は思わず咽そうになった。そして実際に、微かに咽たのがギルベルトだった。咳払いを一つして、視線を明後日の方へ逸らす。
ヴァイオレットちゃんは、繋がった手を見、アイリスを見、ギルベルトを見、そしてこちらを見て、もう一度アイリスへ瞳を向けた。頬の朱が、ほんの少し、強くなる。
「いつもでは、ありません」
「じゃあ、よく、繋ぐの?」
「アイリスさんのおっしゃる『よく』がどの程度か、わかりません」
ヴァイオレットちゃんの返しに、アイリスはしばらく唸る。怪しい色を帯びる琥珀色の瞳には、なんとしても聞き出そうという強い意志を感じた。
「それじゃあ、出掛ける時は繋ぐの?」
「……はい。繋ぎます」
嘘を吐けないヴァイオレットちゃんは、それで観念したように、頷いた。にまりと、アイリスは若干悪い笑みを浮かべる。
なんと、言うか。思い返せば、ギルベルトに対する俺が、きっとあんな感じだったのだと、今更ながらに思った。
「そっか。やるじゃん、ヴァイオレット」
「……恋人同士が手を繋ぐのは、当たり前ではないのですか」
「……だ、そうですけど。どうなんですか、ギルベルトさん」
突然会話の矛先を向けられたギルベルトは、一瞬言葉に詰まった様子だった。エメラルドの瞳がわずかに宙を泳いだことは、俺とおそらくベネディクトだけが気づいていた。
ギルベルトは、自分を窺うヴァイオレットを見て、それからアイリスへ目を向け、答える。
「……当たり前かどうかは、わかりませんが――私は、繋いでくれると、嬉しいです」
照れた様子のギルベルトを、横からベネディクトが小突く。ヴァイオレットちゃんはといえば、汽車のように白煙を噴き出しそうな勢いで、真っ赤に頬を上気させて俯いていた。その頬を、アイリスがつつく。
……変わったと言えば、ギルベルトもそうだ。無表情ではなかったが、俺以外の前では表情の変化に乏しい奴だった。自分を見せない、という点では、ヴァイオレットちゃんよりさらに徹底していた。
そのギルベルトが、こうして、人前で照れて微笑んでいる。
その変化はきっと、ヴァイオレットちゃんのおかげなのだろう。ギルベルトの存在が、ヴァイオレットちゃんを変えたように。ヴァイオレットちゃんの存在が、ギルベルトを変えた。
……ああ、本当にまずい。今にも、泣き出してしまいそうだ。この分だと、結婚式まで身が持たないかもしれない。
「ね、積もる話は、ランチを取りながらにしましょう」
柏手を打って、カトレアがそう言った。時刻は丁度お昼前。二人が着いたらご飯にしようと、さっきまで話していたところだ。
カトレアが二人へ微笑みかける。
「長旅で疲れているでしょうし、お腹も空いているでしょう?」
顔を上げたヴァイオレットちゃんが、頬の赤みを残したまま、頷く。
「疲れてはおりませんが、お腹は空きました」
「んじゃ、決まりだな。さっさと荷物置いて、飯にしようぜ」
ギルベルトの肩を軽く叩いて、ベネディクトが駅の出口へと歩き出す。「もう、ほんとに勝手」とカトレアが眉をひそめて、その後に続いた。アイリスもヴァイオレットの側を離れる。
「……行こうか」
二人へ肩を竦める。顔を見合わせて、同じ笑みを浮かべたヴァイオレットちゃんとギルベルトが、頷いた。
いつものレストランで、早めのランチを取る俺たちの会話は、当然のように二人の結婚式の話題になった。
ヴァイオレットちゃんもギルベルトも、式はごく近しい人たちだけで――つまりギルベルトの生存を知っている人たちだけで、挙げたいらしい。人数は多く見積もっても二十人弱。ほとんどの人間が顔見知りだし、それくらいの方が、披露宴の風通しもよくていいだろうと思う。
式場は、俺からいくつか候補を提示した。海の見えるチャペル、街一番のホテル、花愛ずる庭園。時間を見つけては足を運んで吟味した、どこも二人にぴったりの場所だと思う。
ただ……候補の中には、郵便社の社屋も、入れておいた。元々は古式ゆかしい建物であるし、風情もある。ライデンの海も街も見渡せて、眺望も申し分ない。身内だけでやるのなら、あそこも十分、場所として候補に入ると思う。
ライデンに滞在する二週間の間に、どこも見て回ると、二人は答えた。
そこまで話が進めば、自然、式の二人の衣装にも――特にヴァイオレットちゃんのウェディングドレスにも、話が及んだ。
食後のコーヒーに手を付けるのも忘れて、アイリスが興奮気味に傾倒する。
「はいはいっ。ヴァイオレットのドレス、一緒に選んでもいいですか!?」
アイリスの提案には、俺も賛成だ。
「いいんじゃないかな。折角だから色々着せてみてよ」
俺の賛同に気をよくしたのか、アイリスはヘアバンドで留めたオリーブグリーンの髪を揺らして、大きく頷く。その目が、隣のカトレアも捉えた。
「カトレアさんも、行きましょうよ。エリカさんも誘って」
「ええ、もちろん、大賛成。こういうの、やってみたかったのよね」
「――ね、ヴァイオレット。どうかな」
味方を二人得たアイリスが、改めてヴァイオレットちゃんを見た。ベネディクトが、コーヒーカップ越しの横目で、その顔を窺っている。
仲良く紅茶をすするヴァイオレットちゃんとギルベルトが、ぱちくりと瞬きをして、顔を見合わせた。ギルベルトが左目を細め、小さく頷く。「君のしたいようにしなさい」と、そう言っているような気がした。
「では――ギルベルト様も、一緒に」
「だめよ、ヴァイオレット」
ギルベルトを連れて行くと言い出したヴァイオレットちゃんに、カトレアが待ったをかける。人差し指を突き出し、「めっ」とヴァイオレットちゃんをたしなめていた。
「新郎は、結婚式の当日まで、新婦の花嫁衣裳を見てはいけないの」
「そう、なのですか」
「そう。だからヴァイオレットのドレスは、当日まで秘密にしないとダメよ」
「――それでは」
困った様子で、ヴァイオレットちゃんが眉尻を下げる。碧眼がティーカップへ落ち、次いで隣のギルベルトを見た。
「それでは、ギルベルト様の好みが、わかりません。ギルベルト様の見たい私に、なれません」
その瞳に映るのは、今も、ただ一人だけだ。
これには、ギルベルトが小さく息を吐き出して、目元を緩めた。震えながらギルベルトだけを見つめ続ける瞳を、彼もまた見つめ返す。
「ヴァイオレット。君の着たいドレスを着たらいいんだ。君の選んだドレスが、私の好みだ。私の見たい君なんだ」
わかるかい。確かめるように、あるいは願うように、ギルベルトは静かにヴァイオレットちゃんへ語りかけていた。きっと今、机の下で、彼女の手を握っている。
いけない。これはまずい。目の前の光景へまた涙が零れそうになり、それを堪えてごまかして、俺は笑みを作った。とびきり優しくしたつもりだけど、随分不格好な顔になっていたはずだ。
やはり、歳は食いたくないものだな。
ヴァイオレットちゃんは、いつもそうしていたように、胸元のブローチに触れた。それからこくりと、金砂の髪を揺らして頷く。
「はい……わかりました。そうします。――アイリスさん、カトレアさん、お願いしてもよろしいでしょうか」
問われた二人は、一も二もなく頷いていた。アイリスが満面の笑みを浮かべて、柏手を打つ。
「夕方にはエリカさんも合流できるみたいですし、ディナー食べながら作戦会議しましょうよ。仕事の合間とか合わせないとですし」
「いいわね。折角だからルクリアさんも誘って、おしゃれなお店でも行きましょう。もちろん、女だけで、ね」
「もちろんです」
「承知しました。――婦人会、ですね」
「……それは、少し違うと思うわ、ヴァイオレット」
盛り上がる女性陣に、完全に取り残された俺とギルベルト、ベネディクト。眉尻を下げながら笑うギルベルトと、肩を竦めたベネディクトに、どこか投げやり気味に提案する。
「なら、俺たちも男だけで、夕食にするか」
「……ま、たまにはいいか」
珍しく賛同したベネディクトが、その碧い瞳を半分にして、ギルベルトを流し見る。
「そこの男へ、ヴァイオレットと結婚する前に、言っておくことが山ほどある」
ここにも、ヴァイオレットちゃんの保護者が――兄が一人、いた。
ヴァイオレットちゃんに似た金髪碧眼の副社長に、ギルベルトが苦い顔で答える。
「……どうか、お手柔らかに頼むよ」
二か月が、あっという間に過ぎた。
穏やかな春の陽射しが包む、CH郵便社の社屋。一時代昔の風情を醸し出す赤レンガの建物が、一日限定で結婚式の会場になっている。この日のために仕立てた一張羅に身を包んだ俺は、とある扉の前で、緊張由来の硬い息を吐いた。
……時間というものは、驚くほど残酷に、冷酷に、無慈悲に、過ぎ去っていくものだ。
ヴァイオレットちゃんのいない一年は、彼女と過ごした四年の月日が一瞬に思えるほど、長い時間だった。いつもよぎるのは四年分のヴァイオレットちゃんで、彼女のいない目の前の光景に、色褪せた写真のように姿が重なる。オフィスを覗いても、彼女はいない。いつものレストランに、彼女はいない。屋根裏の部屋に、彼女はいない。社長室へ俺を訪ねることもない。ふとした瞬間に思い出して、そして自分でもどうしようもないくらい切なくなって、涙を流しそうになる。実際、随分泣いたはずだ。そんなことを繰り返していたから、本当に、十年二十年という月日を経たように、思えてならなかった。
だというのに、二人が結婚を決めてからの二か月は、あっという間で。光陰矢の如しとは誰が言ったのか。気づけば春は深まり、結婚式の当日になった。ライデンにはもうすぐ、夏の便りが届く。
「……時計も、カレンダーも、宛にならないや」
感傷的な呟きを空気へ溶かし、意を決して扉をノックした。木製のドアが、軽やかな音色を響かせる。
「ヴァイオレットちゃん。入っても、いいかな」
彼女につきっきりだったカトレアは、もう支度は終わったと言っていたけれど。俺は扉の中へ、改めて問いかける。屋根裏部屋でのやり取りを、思い出す。
「はい。開いております」
鳥のさえずりに似た声に導かれるようにして、俺はドアノブに手をかけた。扉を開く。
新婦の控室に様変わりした部屋。その中央、大きな姿見の前に腰掛けるヴァイオレットちゃんが、こちらを振り返る。
息が詰まるかと思った。
純白のウェディングドレスは、シンプルなAラインのオフショルダー。細かな刺繍の入った長手袋で腕のほとんどを隠す代わりに、肩を大胆に出している。スカートの部分には、ドールとして働いていた頃を思わせるふわりと大きなフリル。あしらわれた薔薇の刺繍が、匂い立つようだ。そして胸元には、ヴァイオレットちゃんがずっと大切にしている、エメラルドのブローチ。
花嫁は、俺を見て微笑む。碧い瞳に見つめられて、鼻の奥がツーンとした。式が始まる前に泣くわけにはいかないと、零れそうな雫を堪える。
「とってもよく、似合ってるね。ヴァイオレットちゃん」
「ありがとうございます。皆さんが一緒に選んでくれたおかげです」
カトレア、アイリス、エリカ、ルクリア。いい仕事をしてくれた四人のドールたちは、今頃エントランスでヴァイオレットちゃんが降りてくるのを待っているだろう。
白い薔薇の前に、膝を折る。見れば見るほど麗しい新婦のマリンブルーと、高さが揃う。穏やかさをたたえて、ヴァイオレットちゃんは俺を見つめていた。
「しかし、新郎より先に新婦の花嫁衣裳を見てよかったのかな」
いまだヴァイオレットちゃんのドレスを見ていない親友を思う。ギルベルトは随分前に着替えを終えていて、一度この部屋を訪ねたそうだ。その時はまだヴァイオレットちゃんの準備が終わっておらず、カトレアに突き返されたという。哀れだ。
ギルベルトは今、遅刻中の兄を――ディートフリートを玄関先で待っている。
目を瞬いて、ヴァイオレットちゃんが紅の差す唇を開いた。
「問題ないと思われます。それに……殿方は、焦らすくらいが丁度いいと、カトレアさんがおっしゃっておりました」
「うん。あんまりやり過ぎると泣いちゃうから、ほどほどにね」
言うまでもなく、ギルベルトはヴァイオレットちゃんを溺愛している。焦らすなんてことをしたら、本当に泣き出しかねない。
レースを揺らして、ヴァイオレットちゃんは頷いた。
「はい、そうします。――焦らす、は苦手です。焦らそうと思っても、私が我慢できなくなってしまいます。今も、早くギルベルト様にお会いしたくて、堪らないのです」
胸元に手を重ねて微笑む花嫁が眩しくて、俺は両の目を眇めた。
ヴァイオレットちゃんも、ギルベルトを愛している。それは俺もよく知っている。碧い瞳に映るのは、いつでも一人の男だけだ。
ギルベルトの側にいることが、ヴァイオレットちゃんの幸せだ。
「社長」
玲瓏な声が俺を呼ぶ。そう呼ばれることには随分と前に慣れて、もう、俺の日常みたいになっていた。オフィスを覗けば、彼女が俺を呼ぶ。いつものレストランで、彼女が俺を呼ぶ。屋根裏の部屋を訪ねれば、彼女が俺を呼ぶ。長旅から帰着した彼女が、社長室を訪れて俺を呼ぶ。
――「社長」
あと何千回だって、そう呼ばれたらいいのにと思っていた。
「今までお世話になりました」
もうそれは叶わない。ヴァイオレットちゃんが、ヴァイオレットちゃん自身の幸せを、見つけたから。
「……そんなこと、言わないでよ、ヴァイオレットちゃん」
堪えたはずの涙が、主人の意志に関係なく、目尻より流れ出た。
兄というには、無理があるけど。
父というには、頼りないけど。
それでも君は、俺の家族みたいなものだ。
大切で、大切で、大切で、誰よりも大事な、本当の娘みたいな。
君の幸せを、誰よりも願っている。
君の幸福を、誰よりも祈っている。
だから、お願いだよ、ヴァイオレットちゃん。そんな、お別れみたいなこと、言わないでよ。
「社長、お願いです、泣かないでください」
困った表情で、ヴァイオレットちゃんが俺の顔を覗き込む。碧い瞳が震えている。ギルベルトだけを見つめ、追い駆ける美しい瞳に、今の一瞬だけ俺が映っている。
どうしていいのかわからない様子で、ヴァイオレットちゃんは両の手を宙に彷徨わせていた。彼女を困らせている。それがわかっているのに、涙は一向に止まってくれない。新調した一張羅の袖で拭っても拭っても、後から後から溢れてくる。零れて床に滴る。
「社長……失礼、します」
ふわりと春が俺を包んだ。
手袋越しの硬い腕が、不器用な加減で俺の背中へ回った。恐る恐るという様子で、ヴァイオレットちゃんは少しずつ、俺を抱き締める。
自分でも、間の抜けた顔をしているのがわかった。
「ヴァイ、オレットちゃん……?」
「……これで、よろしいのでしょうか」
自信なさげな手つきで、ヴァイオレットちゃんの手が俺の背をさする。戸惑いながら、俺を慰めてくれている。
泣かないでくださいと、体温のない手のひらが俺に語りかけた。
そんなヴァイオレットちゃんの背中に、俺もぎこちなく腕を回す。大切な愛娘を抱き締める。
「……不思議です。社長に抱き締めていただくのは、初めてのはずです。――ですが、とても懐かしく感じます」
「……うん。俺も、初めての気がしないよ」
春の香りに目を閉じる。また少し、ヴァイオレットちゃんの抱き締める力が強くなる。
「……私は孤児です。父も母も知りません。故郷もありません」
そうだった。軍の病院へ引き取りに行ったとき、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女には、何もなかった。帰るべき場所はどこにもなかった。
ギルベルトというたった一つの止まり木さえ、失っていた。
それを……俺はどう思ったのだろう。哀れと思ったのだろうか。
少し、違う気がする。切なさはあった。ギルベルトを待ち続け、ただ真っ直ぐに想い続ける少女を見るたび、胸が詰まった。
不器用で、生真面目で、融通が利かなくて、けれどただひたすらに真っ直ぐな少女。
その姿が愛おしくてしかたがなかった。ただただ生きて欲しかった。
親友に託されたからではなく。
俺は心から、彼女の幸せを願っていた。
そして、願わくば。もし、叶うのなら――
「ですが、帰る場所はあったのです。見守ってくれる人も、おりました」
今も願っている。ヴァイオレットちゃんの幸せを。
「社長。ありがとうございます。たくさんたくさん、ありがとうございます。帰る場所をくださって、ありがとうございます。私の故郷でいてくださって、ありがとうございます。私の――私の、家族でいてくださって、ありがとうございます」
今も願っている。ヴァイオレットちゃんの故郷から。ヴァイオレットちゃんの家族として。
君の道行きが、幸せの花で敷き詰められた、素敵なものでありますように。
「ヴァイオレットちゃん、幸せに、なるんだよ」
「はい。私はすでに、幸せで一杯です。それは、社長のおかげでもあります」
「うん。うん、そうだね。君はきっと幸せになるよ。だってほら、俺がこんなに、ヴァイオレットちゃんの幸せを願ってるから」
「はい。ではその分も、ありがとうございます」
腕に込める力に迷いはない。十秒ほど愛娘を抱き締め、そして手を離す。目元を拭うと、それ以上の涙は零れなかった。
「泣き止みましたか」
「うん。ごめんね、取り乱して」
「いえ、問題ありません。――社長には、やはり笑顔が似合います」
言われてようやく気づいた。そうか、俺は笑っているのか。大切な女の子の結婚式に、ちゃんと笑顔を見せているのか。
それなら、よかった。
折っていた膝を伸ばして、立ち上がる。階段を上ってくる足音がした。きっとギルベルトだ。
「……下で待ってるよ、ヴァイオレットちゃん」
「はい。すぐに参ります」
踵を返して、扉へ向かう。ドアノブに手をかけたところで、一番大切なことを言い忘れていたと気づいた。俺を見送るヴァイオレットちゃんを振り返る。
「結婚おめでとう、ヴァイオレットちゃん」
笑って口にできた言葉に、世界で一番の花嫁は、幸せという色の微笑みで応えた。