その夜、木本 武は憂鬱だった。
下弦の月が朧げに照らす夜。街で唯一の特急停車駅。そこから数キロ離れた古本屋は何処か寂れている。
時間は夜の11時を過ぎていた。木本武を含め客は数人ほど。そんな古本屋の物静かな雰囲気は彼の不安を優しく包み込んでくれる。しかし、それでも彼の不安は決してなくならない。むしろ増えるばかりである。
本当はこんなところに居るべきではないのだ。心の中の木本は自嘲する。
そんな彼を運命は嘲笑ったか、はたまた不憫に思ったか。偶然にも、一冊の本が彼の視界の中に止まった。その本の名は「森と共に生きてきた人類史」。20年前、若き日の武に夢を与えた一冊である。
マイナーな哲学者の書いた歴史本。話題になることもなく続版もされず、数多の作品と同じく何処かへと消えていった。そんな本がまさかこのようなところにあるとは思いもしなかったのであろう。木本武は眼を凝らし瞼を濡らした。
彼の憂鬱はいつのまにか、懐かしさと悲しみへと姿を変えていた。また、その気持ちは自責の念として木本に襲いかかるのだ。
重圧に耐えかねた木本は古本屋を飛び出した。突然、汗を流し店を飛び出す彼はあまりに滑稽で不恰好だったことだろう。
そんな彼がたどり着いたのは河川敷。昼間は小学生のサッカーグランドとして使われている。だが、今は真夜中。人っ子ひとりいないそこはまさに別世界である。
木本武は涙を流した。成人して以来、10年ぶりの涙である。声はあげない。それだけが木本武の矜持であった。
何分だっただろうか。もしかしたら、何時間かもしれない。彼はとうとう涙を拭った。
月は明瞭に空から影を下ろしている。
「お兄さん、何かお悩みですか?」
少女の明るい声が夜の河川敷に響いた。白色のワンピースに美しい黒髪、暗闇の中で月明かりが少女をそっと引き立てる。数年もすれば、立派な美女として引くて数多となるに違いない。
「いや、もう大丈夫だよ。」
木本は朗らかに答える。
「本当ですか? 顔、すっごく硬いです。」
少女に痛いところをつかれ、木本は苦笑いをする。
「そんなことより、こんな時間に君みたいな女の子が外に出るのは感心しないよ。」
「そんなことは心配ありません! なんてたってセールスレディですから。」
そう言うと少女は木本に名刺を差し出した。
とても紙質が良い。それが木本には分かった。
「えーっと、しんじょうさん?」
「ましろです。」
「それじゃあ、真城さん。君のお母さんかお父さんは何処かな?」
「それが、貴方のお悩みですか?」
「いや違うけれど……。」
「それじゃあ、お答えできません。」
「君は僕から悩みを聞きたいんだね。でも、僕から君にお返し出来るようなものはないんだよ。」
「いえいえ、お金も報酬もいりません! ただ、お客様の満足が嬉しいんです。」
「凄く人が良いんだね。それじゃあ、せっかくだし、話してしまおうかな。悩みを話すだけでも気が楽になるかもだしね。」
「ありがとうございますっ!」
木本は不思議な気分に包まれていた。こんな少女に悩みを告げるなんて自身の流儀に反する。だけども、そんなこと気にもならない。それは、きっと彼女の魅力なのだ。
「僕は小さな頃、自然が好きだった。小学生の頃、丁度華代ちゃんと同じくらいの年のころだね。夏休みに僕のお母さんから一冊の本を貰ったんだ。
うちは父が早くになくなって貧乏だったから、テレビもラジオもなくって、本も教科書くらいしか読んだことがなかったんだ。
だから、僕はその本をとても大事にしていたんだ。その本の中には自然と人のおりなす本当にあった物語が描かれていて、僕はすっごくワクワクしたのを今でも鮮明にに思い出せるよ。
それで、僕はこの大自然の一部なんだ。そんな風に思い込んでさ。いつか、この地球のために尽くすんだって決めたんだよ。」
「へー、かっこいいですね。それで、今も地球のために生きてるんですね!」
「いや、まさか。僕はそんな器じゃないよ。それから、僕は工業高校に進学したんだけど、どうしても学費が足りなくって色々なものを売り払わなきゃならなかったんだ。そのとき、あの本も売り払ってしまった。それから、高校に通いつつバイトをして少しでも家計を潤そうと頑張った。そうして3年後、念願の製紙工場に就職したんだ。」
「どうして、製紙工場に入りたかったの?」
「紙っていうのは表現の基盤なんだ。多くの絵や文章は紙の上にかかれる。そんな紙が自然の木からできているのは、紙が自然世界と人間世界を繋いでひとつにしているってことなんだ。そんな風に思って、僕も世界を繋ぐ手のひとつになりたいと思ったんだよ。だけども、時代の流れというものかな。紙は電子化で世界からどんどんと消えていく、自然保護や労働改善の大義名分のもとね。」
「ってことは、お兄さんの悩みは紙が世界に広まって欲しいってことですね!」
「いや、ちょっと違うよ。僕はね、時代が変わるのは悪いことじゃないと思ってるんだ。本当は僕が時代の流れに追いつくべきだ。だけど、僕はダメ人間だ。簡単には変われない。変わるのが怖い。変わってしまうくらいなら、もう母さんもいないし、いっそ……。いや、これは君には言わない方がいいね。
だから、僕は少しでも自然の役に、草木のために生きたいなって思うんだ。
ごめんね、こんなことを言っても何も解決しないってわかってるんだけど。」
「いえ、あなたのお悩みしっかりと受け取りました。真城華代、この名にかけて、お悩み解決してみせます!」
そう、真城華代が宣言した時だった。東から太陽が昇り始めた。もうそんなに時間が過ぎたというのだろうか。それと同時に河川敷の芝が一気に成長を始める。草は伸びて束となり太い幹を形成する。枝は増え、何枚もの葉をその身につける。河川敷がどんどんと姿を変えていく異常成長。いや、これは成長とは言わない。怪奇現象だ。草本類が樹木に変化するだなんてありえない。ありえないことが平然と起こっているのだ。
そんな光景に木本武は唖然としていた。自らの常識が覆されたのだ、しかも一瞬で。
しかし、そんな木本の肉体にも変化が訪れる。日々の労働で日に焼けた肌を白く染まる。筋肉は落ちてそのかわりにふくよかな脂肪がつく。その脂肪も単なる贅肉ではない。お腹周りはむしろ、細くなり確かなくびれを形成している。また、脂肪が胸とお尻に集まってゆくかのように、どんどんと胸やお尻が膨らんでいく。Dカップほどの大きさになり胸の変化は終わる。それともに髪は伸び始め、ボサボサした黒髪は童話の中のプリンセスのように鮮やかな金色のサラサラした髪へと変化する。
それが終わると顔立ちが変化する。太い眉毛はマイルドに、鋭いつり目は穏やかな垂れ目へと変化した。唇はぷっくりと膨らみはほのかに赤く染まっている。そして、フィニッシュと言わんばかりに木本武の大切なものが萎んでいく。これにはさすがの木本も声を上げた。しかし、その声はイケメンアイドルに歓声をあげる女子高生のように可愛らしいものであった。そんな間にも変化は進み、彼女のそれは完全に消失した。そのかわりに内側に何かができ始めていた。しばらくしてその変化は収まった。これにて、木本は彼から彼女へと変化をとげた。
だが、どうやら変化はまだまだ続くようだ。耳が尖り、ファンタジーに出てくる妖精の耳のようだ。さらには、彼女の内側に何か大きな力が流れ込む。
「あっ……。」
とてつもない力に飲み込まれ彼女から声が漏れ出す。とても艶のある声だ。決して男性には、いや、そんぞそこらの女性にも出せない美しい声だ。その声に導かれたのだろうか、草木が彼女を包み込む。サイズの合わなくなった服を脱がして、新たな服として彼女へとまとわりつく。服が完成して彼女は解放される。
大きな森の中、草の上に寝転ぶ美しいエルフの女性。これが、まさか男であったなどと誰が思うだろうか。
「うーむ、何が起きたんだ。」
エルフは目を覚ます。その後、彼女は違和感に気づいたのだろう。自らの肉体を弄る。最初に触れたのはその大きな膨らみである。もみもみ。確かな弾力と触られる感触がエルフの脳へと送られる。余りの情報量に脳が追いつかないのだろうか。肌をあからめ、口をパクパクしている。その姿でさえ、何処か神聖な雰囲気を放っている。
その後、エルフは慌てて股へと手を伸ばす。
「……ない。」
木本の生まれながらの相棒、彼の片割れはそこにはなかった。
エルフの中で、何かが砕けたような気がした。数分の間だけ、エルフは人形になっていた。とても美しい姿だ。
それからエルフは動きだす。とはいえ、見知らぬ森の中だ。迷子になってしまうに決まっている。
しかし、そんなことはなかった。自然と体が歩を進める。よくわからない状況に、緊張をしながらも何処か高揚感を思えた。
エルフの視界には、見たことない樹木が広がっている。カラフルな木の実に、独特な形状をした幹、きっと不思議な生態系が構築されているに違いない。そんな確信とワクワクがエルフの足取りをかろよかにする。
しかし、高揚に眼を曇らしたエルフは大きな木の根に転んでしまった。突然の出来事に対処がとれず、エルフは頭を地面にぶつけた。視界は暗闇に包まれる。
エルフは夢を見た。優しい誰かが自分を抱き抱える夢。抱き抱えられた記憶なんてないのに、その暖かさには覚えがあった。
エルフは柔らかなベッドで目を覚ました。エルフの横には青年がいる。その青年はエルフが目覚めたことに気がつくとそっと微笑んだ。その温和な笑顔にエルフの心も解きほぐれていく。
「えっと、大丈夫ですか。」
その青年のかげにエルフは懐かしさを覚えるのだった。
今回の依頼、なかなかに悩まされました。本当にこれでよかったのか、私にもわかりません。ただ、きっと二人は幸せになれると思います。
それでは、またどこかで。