リリカルハート~群青の紫苑~ (リテイク版有り)   作:不落閣下

25 / 50
無印25 「将来の夢、です?」

 シロノは廊下を歩きながら私服から執務官服へと変わり、群青の髪を緑色のリボンで束ねて垂らす。普段の気さくなお兄さんと言った雰囲気は霧散し、代わりに氷の仮面を被った騎士の如く威圧感を内側へ押さえ込む。シロノは目的を忘れていた自分に怒りを覚えていた。幾つもの案件で救われた者の笑顔を、救われなかった者の絶望を見てきた筈だった。磨耗していた刃を研げば薄くなって折れやすくのは当然の真理であり、すずかという鞘に納まった事で傷付いた刃は癒えた。ならば、今までして来た様にシロノは現実と直視せねばならない。

 甘い汁を吸いたいが故に子供や罪の無い者を見下した者へ鉄槌を下し、その手足となっていた違法魔導師をその身を持って粉砕し、幾多の現場を踏み越えて作り出した墓標と手錠の檻はもう覚えるのも辛いくらいに増えた。冷徹の執務官として陸を護る魔道騎士である筈のシロノは、目先の幸せに他の幸せから目を逸らした事に耐え難い苦痛を覚えた。脳裏に浮かぶのは泣いた顔と冷め切った死体の絶望の顔。希望と絶望の間を踏み越えて行かねばならない道は茨の荒野であると理解してS2Uを受け継いだ筈だったのだ。

 精神は肉体に引っ張られる。この言葉をシロノは改めて噛み締める。教訓にすべき事として咀嚼し尽して呑み込む。過去に囚われて空虚に戻るのは簡単だ。全てを諦めてしまえば良い。全てから目を逸らして瞳を瞑ってしまえば良い。その絶望の果てをシロノは知っていた。緩やかに訪れる死から逃げるのを諦めた瞬間を今も覚えているのだから。

 だからこそ、シロノは今生を無駄にしないと決めた。誰よりもあの苦痛と悲嘆と絶望を知るからこそ、それから遠ざけてやりたいと思った。今も尚、全てを救うヒーローになりたいという願望は無い。目の前の誰かを救ってやりたいと願うばかりだ。百を取るために十を捨てるのが時空管理局ならば、その十を救ってやりたいとシロノは求め続けてきた。故に、幸せに溺れてしまった自分に如何しようも無く嫌悪していた。

 

「S2U、クロノ執務官へ長距離次元通信を繋げろ。呼び出し(コール)は仕事の回線で」

《Call loading……》

 

 廊下の端で結界を張って姿を完全に消したシロノは空中投影されたモニターを見やる。ワンコール、ツーコール……、六コール目で漸く目当ての人物が現れ、その表情は意外な物を見たという驚愕に染まっていた。そう、クロノは今まで執務官としての立場で立つシロノの姿を見た事が無かった。堅物と称される自分よりも凍った表情をしているシロノに何があったんだと内心で呟く。だが、心配するクロノの心情を知らぬシロノは冷たい雰囲気のまま通信を続けた。

 

「クロノ・ハラオウン執務官、緊急の案件にて無礼失礼する」

「あ、ああ。何があったんだ?」

「第九十七管理外世界にて青い宝石状のロストロギアと思われる飛来物を確認。現在目下探索中ではあるが、既に現地人の負傷者が出ている事を確認した。其方にこの案件について任務は出ていないか」

「何だと!? ……すまない。アースラは現在スクライア一族が発掘したロストロギアが輸送事故によって次元世界に落ちた件で任務に就いている。本局からの情報によればスクライア一族の一人がその星に降り立っているとの事だ」

「残念ながらまだ未接触だ。しかし、此度の件で被害にあった少年がそれらしき人物と知り合っている。ユーノ・スクライアで間違い無いか」

「ちょっと待て……、ああ、渡航者の名前はユーノ・スクライア。スクライア一族特有の民族衣装を着ている少年だそうだ」

「怪我の治療のため変身魔法でフェレットの姿を取っているようだぞ。そして、現地で民間協力者を得たらしい。その民間協力者の友人が負傷者の少年だ。既に隠蔽は不可能の状態にある。其方が来るまで此方の判断で動くが問題無いな」

「休暇中というのにすまない。よろしく頼む」

「了解した。被害によっては民間協力者に協力を求むかもしれないのを念頭に置いといてくれ」

「……は?」

「では、通信を切らせて貰う。やらねばならぬ事が多いのでね」

「え、あ、ちょ、ちょっと待て!」

 

 プツンと空中投影されたモニターの中で慌てた様子のクロノの表情が通信の終わりと共に消える。シロノはふぅと息を吐いて執務官モードから切り替えた。普段の様に友人として通信するなら緩やかでも良いが、仕事の回線での通信は記録が取られるため優位に立っていると言う事を示すためにそれなりの雰囲気で無くてはならなかった。

 S2Uを待機状態にするのと同時に執務服と結界を解除したシロノは壁に寄り掛かってずるずると座り込んだ。廊下ではあるが日々ノエルとファリンの掃除により清潔に保たれているため問題無い。それにこの場所は土足である月村邸でも掃除以外の立ち寄りが無いくらいに人気が無い場所だった。

 

「あー……、これもあれも海と陸の諍いのせいだよ……」

 

 友人に対し威圧的な態度を取るのはシロノとしてもやりたくない事であり、体裁を良くするための行動とは言えあまり好ましいものでは無いと自覚していた。というよりも、前世も今生も友人の少ないシロノなので尚更に疲れを感じてしまう。嫌われる事は無いだろうが確実に印象が変わっただろう。窓から差し込む夕暮れもそろそろ闇の帳が落ちる頃の様で、そろそろすずかが帰って来るだろうなぁとシロノは癒しを無意識に求めてしまう。

 何せシロノは表立って動く気が無かったのに関わらず、今回の件で命の危険を覚えた二人は日常に戻るだろうと考えて、アースラが来るまでの繋ぎをする事を決めてしまった。名も知らぬ誰かさんごめんなさいと思いつつ、流石に一般人の負傷者が出てしまいかねない今の状況を放置しておくにはいかなかった。もしかすると、海に落ちていると思っていた六個もまた何処かに落ちているかもしれないのだ。そうなると、残り十六個の猛威が海鳴市を襲う事になる。遠い二つの場所で同時発動したらもう目も当てられない惨劇になるに違いないだろう。

 

「できるできないじゃない、やらなきゃならないし、やるしかない。……分かってる、分かってるんだけどなぁ」

 

 喝を入れて項垂れる様な気分で立ち上がったシロノは唐突に近付いて来た人物によってタックルホールドを腰に喰らって押し倒された。繋がるパスによって押し倒した人物が分かっていたシロノは、壁に自分の後頭部が当たる直前に右腕を回して掌でピタリと止めた。左腕の中で紫掛かった黒髪を散らして胸板の上で顔を上げたのは案の定すずかだった。嘆息してシロノはていっと壁から離した右手で軽くチョップを入れた。

 

「あうっ。シロノさんが何か落ち込んでる気がしたから飛んで来たのに……」

「……最近のすずかアグレッシブになったね。というか三十メートルはある廊下を一瞬で走り抜く速度でタックルは流石に危ないかなーってぼくは思うんだけども」

「うぅ、それくらいシロノさんに会いたかったんです。繋がってる心から寂しいって伝わって――」

「あー……、皆まで言わなくて良い。そうだよ、寂しかったんだ。すずかに心から会いたいって思ってたんだ」

 

 やけにしおらしいシロノに抱き締められたすずかはほにゃっと頬を緩ませて甘える様に胸板に頬を擦り寄らせる。抱き締め合う事で足りないパーツを補い合う様にシロノは安堵を感じた。生きていると実感できた。誰よりも空虚に成り易いシロノはすずかの温もりが最大級の癒しだった。すずかの鼓動を自分の鼓動と重ねながら、とくんとくんと波打つ精神リンクの穏やかな波長が心地良い。溶けて混ざり合う様なそんな居心地の良さをシロノは味わっていた。魔力が行ったり来たりと二人の間を巡って行く。

 

「ふふっ、何だか今日のシロノさん甘えんぼさんみたいですね」

「そんな時もあって良いんじゃないかな……。この日々も後数週間で終わっちゃうだろうしさ」

「……でも、シロノさんは行くんですよね」

「うん、そうだね。そうじゃないとぼくがぼくじゃ無くなる気がする。あの時、すずかに背中を押されてからぼくは漸くシロノ・ハーヴェイとして胸を張れるような気がするんだ。……どうも、さ。誰もが幸せに生きる世界って奴をぼくは見たいんだ。誰もが笑って、誰もが恋をして、誰もが幸せになる世界を。……そのために、ぼくは執務官になったんだと思う」

「それがシロノさんの夢、なんですね。因みにわたしの将来の夢はもう決まってます」

「……すずかは確か理数系に強かったから工学系……開発者とか?」

「残念でした。正解は……」

 

 ――シロノさんのお嫁さんになる事です。

 そう言ってすずかはシロノの唇に自分の唇を不意に重ねた。唇に残る柔らかい感覚と鼻腔に残る甘い香りにシロノはきょとんとした表情のままフリーズした。そんなシロノをすずかはふふっと笑ってぎゅっと抱き締めた。頬と頬が触れてすべすべで柔らかい感触によって再起動したシロノは頬が上気するのを感じた。流石にシロノも性に接触するキスは恥ずかしさが生まれる様で、未だに唇に余韻が残って忘れる事ができなくなってしまった。

 吸血によって感じた快楽とは別の何か。それは先程の様な心地良い気分で、ふわふわとした感覚で。シロノは漸く合点がいった気がした。好きな人物と触れ合う事で生まれる感情――愛だった。恋愛感情よりも甘美で蕩けてしまいそうな、美酒の如く求めてしまいたくなる好意の最果て。相手が九歳の女の子という点を除けば素晴らしい境地にシロノは立っていると言える。

 

「給料三ヶ月分だっけ。用意しとくかな……」

「ふふっ、シロノさん大好きです」

「ああ、ぼくも大好きだよっと」

「ひゃっ」

 

 足を振り上げて戻す勢いと腹筋の力ですずかを抱えながら立ち上がったシロノはくくくと素の笑みを浮かべる。その屈託の無い笑みと清々しい顔になったシロノにすずかは微笑む。そして、腕の中でしっかりと抱き締められていたすずかはいつぞやの様に腕をシロノの首へ回した。この心地の良い暖かさを離さぬ様に、と。






▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告