リリカルハート~群青の紫苑~ (リテイク版有り) 作:不落閣下
誰もが抱える悲しい記憶や出来事、それは本当に生きて行く上で必要なのだろうか。負の意思というものは一歩進める足を止める要因となりかねない。例えば、親しい誰かが死んだ時、大切にしていた物を失くした時、目の前で起きた惨劇、自分のせいで誰かが傷付いた話……、挙げれば挙げる程、それはもう人の数、星の数以上に存在するに違いない不幸。そんな不幸を持っていて本当に幸福になれるのだろうか。
夜のカーテンが星々という煌めきを持って幕を落とした。そして、ふわりと小さな白い煙が段々と増えて行き、水蒸気の塊の様に膨らんだかと思えば飛散して濃密な霧を生み出した。それは因果な事かシロノが下りた裏山の麓。近くにはすずかが誘拐された廃ビルがあった。古今東西、悲しみの連鎖はいずれにしても人の手で作り出されるものだ。曰く付きの物件や場所という地点では特に重なり合う事だろう。
濃密な霧に飲み込まれた裏山からするすると蛇が進む様に手の形をした霧が廃ビルへと伸びて行く。霧の手は廃ビルを包む様に覆い隠し、ぽつぽつと浮かび上がる光の球を屋上へと浮かび上がらせた。怨嗟を吐く球、嘆き悲しむ球、怯えている球、無念を抱えた球。様々な球体が屋上へと集まり、霧の手から浮かび上がった影が迫る。その影は長く太い紐の様で、唸りながらその全貌を球体へと晒した。それは赤い宝石を対の瞳とした龍。龍は牙を見せ付ける様に球体へと口を開き、一つ二つと呑み込む様に喰らって行く。その際に球体から生きたまま焼けたかの様な絶叫が上がる。
龍は球体を一つ残さず喰らい尽くすと来た時と同じ様にするすると裏山へと戻って行く。一対だった瞳がパキリと割れて繋がる様に重なって一つの赤い宝石となった。その形は菱形で、ジュエルシードに似ていたがシリアルナンバーが存在していなかった。
《……希望を取り込むジュエルシード、絶望を喰らうイデアシード。まさかこの様な再会を果たすとは長生きというものは素晴らしいものだな》
そう皮肉った黒い外套で頭から足元までを隠し切った人物の手にイデアシードと呼ばれた赤い宝石が戻る。裏山の一番霧の濃い場所には球体の様に切り取られたスペースがあり、そこにその人物は立っていた。聞こえてくる声は肉声では無くデバイスに使われる様な機械語と分類される機械的な声で、男とも女とも取れる様な中性的な声を発していた。外套と同じ素材に包まれたデバイスらしきものを振り上げて下ろす。すると、辺り一面を埋め尽くしていた霧が圧縮される様にイデアシードの中へと戻って行く。外套の人物は何かを感じる様に仄暗い笑みを浮かべた。それは懐かしさや期待と言った様子の色を含んでいる。
《さぁ、始めよう。我らが悲嘆を覆すために。このヒドゥン、一切の容赦せん》
己をヒドゥンと呟いた人物は外套を翻して裏山の奥へと歩いて消えて行った。それから数分後に、白い執務服に身を包んだシロノが文字通り空を駆けて裏山へと降り立った。膨大な魔力反応を感知したのは良いが、日課になっている吸血のおかげで貧血気味故、出遅れてしまうミスを犯したのだ。現場に残っていた魔力反応を記録し、管理局のデータベースを参照するがエラーカテゴリと分類されてしまった。
「検出無しではなくエラー、か。パンドラの箱を開け掛けた愚か者って事か今のぼくは。……はぁ」
言うなればある一定の階級解除パスを持たぬ者には開けられぬ禁断の書庫にシロノは手を出してしまった訳であり、必ずと言って良い位にその情報は上層部及びあの脳みそに伝わった事だろう。これが凶と出るか吉と出るかは分からない。ババ抜きでババを少し上げているかの様な分かり易い釣り上げの任務を受け取らない様により一層気を付けねばなるまい、と数週間後の事に溜息を吐いた。
現場検証を行ったが、これと言った収穫は無く。ジュエルシードとは違った異変の予兆をシロノは感じていた。だが、シロノはもう歩みを止めない。すずかに心の内を吐露し、それを肯定し背中を押されたからこそ、恥じる様な真似はできない。執務官という肩書きを肩に引っ掛けて、シロノ・ハーヴェイは征く事を決めた。ならば、壁を粉砕し、敵を蹂躙し、理不尽を消し飛ばさねばならない。自分一人護れない男が好いた女を護れる訳が無いと、違う意味でもシロノは気合を見せていた。
「取り敢えず家に帰るか。これ以上の探索は無理そうだしな……」
増血剤が効いてきたのか顔色が良くなったシロノは再び隠蔽魔法を身に纏って月村邸へと一直線に帰った。夜の逢瀬のために貧血気味であるので睡眠時間は出来るだけ欲しいというのが本音だ。ある意味血液を失った状態での極限戦闘訓練と言っても過言では無い。実際、血が足りない際の動き方に一歩ずつではあるが前進を見せている。死に掛けでも尚成長するシロノのポテンシャルは高くなりつつある。だが、恭也に一太刀入れるのはまだまだ先には違いなかった。
中庭に降り立ったシロノは開けた窓から入る直前にバリアジャケットを解く。そして、ホットミルク両手にソファに座っているすずかと後ろにしれっと居るノエルの姿を見て何とも言えない気分になった。キスの一件からすずかのスキンシップ数は上昇し、朝夜にキスを強請られる程の甘えっぷりである。深夜に差し掛かった時間であるため、隣に居たすずかはすやすやと寝ているだろうと高を括っていたシロノの予想を簡単にぶち抜いた。
「……もしかして、出かけるの気付いてた?」
「はい♪」
「あー……、うん。ただいま」
「おかえりなさい」
シロノは貧血の余韻と出掛けた疲労で色々考えるのを止めた。どうせヒエラルキー的にもシロノはすずかに敵わないのだから抵抗するだけ無駄であると、ある意味達観の姿勢を取っていた。そして、すずかもまたシロノの中で上位に居る事を知っているので素知らぬ顔で甘えられるのだ。よくあるラブコメならば理不尽な暴力であるが、出来たお嬢様であるすずかは一味違う。言うなれば段階を飛ばした甘えを敢行できる権利を得るのだ。端から見れば小学三年生の精神に惚れてしまっている危ない中学一年生でしか無いシロノは意外と初心であり、達観した様な飄々顔がファーストキスを奪った時の様に一瞬で木っ端微塵と化すくらいだ。目の前でチェーンソー宜しく唸りを上げる犯人のデバイスを見ても動じないシロノが、だ。クロノが知れば「……冗談は止せ」と真顔で言うに違いない。
そう、シロノはすずかを抱き締める事はできるが、自分からキスをする程の度胸が無かった。度胸と言うか恥ずかしさが行動を止めてしまうのだ。キスしようとした際にふと正気に戻るらしく、顔を隠すために抱き締めて頭を撫でるプラスコンボで封殺して逃げる始末だった。
「それじゃ、ただいまのキスをしてください♪」
その言葉を聞いたシロノの頬に朱が薄っすらと差す。そのらしくない様子にすずかは内心で悶える。そして、その悶えが精神リンクで伝わるからこそ、シロノは恥ずかしさで死にたくなる。穴があったら防空壕にして逃げ込みたいレベルだった。だが
目の前の絶対可憐な超絶美少女はキスを躊躇い無く強請った。そして、突き付けられた展開からしてシロノに逃げる以外の道は無く、しかし、すずかの「嫌なの?」というしゅんとした表情を脳裏に浮かべてしまい逃げ場を封じられる。何と言う自爆。シロノは犯人と書類の前では冷血人間の如く振舞える人物ではあるが、唯一の天敵となったすずかの前では悉く素を曝け出す事となってしまっている。再びクロノがこの光景を見れば唖然として言葉すらも無いに違いなかった。もっとも、その同僚のエイミィは爆笑を隠しつつ記録系デバイスを私用で用いて録画するに違いないだろう。
脳裏に浮かぶ二人の正反対の顔にストライク・キャノンをぶっ放して消し去ったシロノはちらりとノエルを見た。ノエルが居たであろう場所には既に居らず、気配を辿って後ろを見やれば三脚と高級そうなビデオカメラを構えたプロフェッショナルな面持ちなファリンの後ろで薄い微笑を浮かべていた。ささ、遠慮なくどうぞと言わんばかりの接待っぷりにシロノは呻くしか無かった。
前を見やれば目を瞑って梃子でも動きませんと言った具合のすずかのキス待ち顔。それを冷静にS2Uを取り出して音も無く撮影して仕舞ってから、シロノは諦めた様子で近付いた。一歩二歩とお互いに場所が分かる故にすずかはぴくんと可愛らしい反応して待っていた。
毒(蜜)を喰らわば皿(君)までも、と言わんばかりにシロノは右手ですずかの顎をつぅっと撫でてから上げる。その予想外の反応に逆にすずかへ羞恥心というダメージが入り、乙女の期待によるパッシブ効果で防御力が下がる。完全に成すがままとなったすずかのぷるんとした小さな唇を親指で優しく撫で、目を瞑っている事で一部分への感応のレベルを引き上げる。その見事な手際にノエルは「ほぅ」と自身のデータバンクにある漫画たちから画像を脳裏に浮かべてその期待値を算出し、成る程とシロノがやっている行動の意味に深みを作る。
「んっ、――~~ッ!?」
そっと壊れ物を扱うかの様に柔らかいキスをしたシロノはここぞとばかりに精神リンクを全開放、すずかがどれだけ愛しいかを第四サブまで使って一気にぶち込んだ。唇に望んでいた感触によって一心不乱の大歓喜をしていたすずかは、一瞬の不意打ちによる愛の大爆撃に完全にやられた。そう、シロノはある程度感覚を絞れる様に操作ができるが、結局最初よりもあんまり変わっていないすずかは携帯で言えば電波バリ立ちの状態と言えるので、余す事無くその爆撃を喰らった。
結果、どれだけ思われているのかを約四倍引き上げられた挙句重ねて精神リンクでダイレクトアタックされたすずかはノックアウト。大変幸せそうな顔でシロノの胸に倒れ、普段通りに抱き締められるのだった。その鮮やかな手際にノエルは「おお」と感嘆し、イけないものを見てしまったかの様な気分になってしまった撮影班のファリンは「きゅぅ」と
「あー……、恥ずかし。それじゃ、ノエルさん。ファリンさんを宜しくお願いします」
「ええ、大変巧みな御手際でした。おやすみなさいませシロノ様」
「はは……、おやすみなさい」
くったりとしたすずかを横抱きにして寝室へと戻ったシロノの背へノエルは深い一礼をする。何処となく機嫌良さげなその背中を完璧なメイドの嗜みを持ってして見送ったのだった。だが、ニヤリと言う擬音がノエルの口元から聞こえた気がするのは何故だろうか。その心は心を持たぬ筈の自動人形だけが知るのだった。